カンガルーのルウの父親は考古学者だ。イノリ島の歴史を調べるために遠い国から家族を連れてやってきた。丸い形のイノリ島の真ん中には古い大きな石の像が立っている。いつ、だれが、何のために作ったか、だれも知らない。
母から聞いた話では、最初は生活が大変だったそうだ。この島は住んでいた国とは全然違う。天気が違う。食べ物が違う。家の形も習慣も違う。そして、言葉が違う。そのうえ、この島では辞書に載っていない言葉も使う。両親はいつも辞書を持ち歩いていたが、なかなか覚えられなくて大変だったそうだ。
一方、ルウはまだ母のおなかを出たり入ったりしていた時期で、おなかの中でじっと話を聞いていて、ときどき顔を出して、にこっと笑ってあいさつをすればよかっただけだ。でもそれで、この島の言葉をいつの間にか覚えてしまった。「子どもはずるい」と母はよく言った。
幼稚園に入ると、すぐに友だちができた。キツネのモニカとは今でも大の仲良しだ。よくいっしょにゴリじいさんのうちへ行って、絵本を読んでもらった。それですっかり本が好きになった。両親には「いつか帰るんだから、うちの中では島の言葉を使わないで」と言われるけど、寝る前にベッドで本を読むのは、やめられない。
ある日、学校から帰ると、めずらしく父がいた。
「どうしたの? お父さん」
「ルウ。急ですまないが、国へ帰らなきゃいけなくなった」
「えっ!」
「さっきおばあちゃんから電話があったんだ。おじいちゃんが倒れて、病院に運ばれた。前から心臓が悪かったから……」
「いつ帰るの?」
「明後日だ。お母さんにはもう言ってある。今、国へ帰るために手続きをしに行っているよ」
「じゃあ、もうこの島には戻って来れないの?」
「ああ、当分は無理だ」
「いやだ! わたし残る!」
「何言ってるんだ! ひとりじゃ何もできないだろ!」
その日は、夕食の時間まで部屋で泣いて過ごした。頭では仕方がないとわかっているが、帰りたくなかった。
次の日、ルウは母といっしょに学校に行き、校長先生に国へ帰ると伝えた。クラスメイトには自分の口から伝えたかったけど、何と言ったらいいかわからなくて、結局、担任の先生にお願いした。そのあと、教室で荷物を片付けていたら、モニカや仲の良い友だちが集まってきた。みんな「手紙、書くね」、「また会えるよ」と優しい言葉をかけてくれたけど、うまく返事ができなかった。
家に帰ると、うちの中は段ボールだらけになっていた。
「ルウ、自分の部屋の物を段ボールにつめて」
と母に言われ、「うん」と返事したが、部屋に入ってベッドに倒れ込むと、しばらく起き上がれなかった。すべてが急で気持ちがついてこなかった。
――明日には、この島にわたしはいないんだ……――
枕元に置いてあった本が目に入った。次の瞬間、飛び起きた。
「ちょっと出かけてきます!」
「えっ、ちょっと待ちなさい。片付けもしないでどこ行くの?」
「図書館! 借りてた本を返してくる!」
ルウは玄関のドアを勢いよく開けると、駆け出した。
――図書館に行って、ゴリじいさんに会わなきゃ。そして、その帰りにケーキ屋さんに寄って、シュークリームを食べなきゃ。最後の木曜日も、いつもの木曜日と同じように過ごしたい――
図書館のカウンターには、ゴリじいさんがいつものように座っていた。
「おう、ルウちゃん。ちょうど良かった。紅茶を入れようと思っていたところだ。いっしょに飲もう」
「ありがとう」
ゴリじいさんがゆっくり紅茶を入れている間、本棚を眺めて歩いた。
――この本も読んだ。あの本も読んだ。この本はおもしろかったなあ。あれはむずかしくて、途中でやめたっけ――
「あれ? この本は……」
「ああ、その本は新しい本だ。メイさんがおもしろそうだって教えてくれたんだ。借りて行ったらいいよ」
「でも……借りても返せないから……」
「どうして?」
「わたし、明日、国へ帰るの」
「なに!……そうか。明日か。急だなあ。だが、借りて行きなさい」
「え、いいの?」
「また島に戻ってきたときに返せばいい。ずっと待っているから」
「ゴリじいさん……。ありがとう。でも、ずっと待ってたら、ゴリじいさん、ますますおじいさんになっちゃうね」
「ははは。そうなる前に返しに来てくれ」
紅茶のおかわりを断り、あいさつをして図書館を出た。ゴリじいさんと話していたら、少し気持ちが楽になった。
ケーキ屋さんは混んでいた。店番をしていたボーノさんは、レジを打つのに忙しそうだ。ショーケースを眺めていると、奥からピコさんが焼き上がったケーキを持ってきた。
「あら、ルウちゃん。いらっしゃい」
「こんにちは。ピコさん」
「今日はリンゴのタルトがおすすめよ」
「おいしそう! でも、やっぱり今日はシュークリームにします」
店の外にあるベンチにはだれもいなかった。夕日が木々を赤く染めていた。風も涼しい。もう秋だ。ベンチに座り、ルウはしばらくシュークリームを見つめてから、思い切りかぶりついた。バターの香りとクリームのやさしい甘みが口いっぱいに広がる。何度食べてもおいしいが、今日は特においしく感じる。夢中で食べ続けていると、なぜだか涙があふれてきた。胸がいっぱいになった。最後の一口はなかなか食べられなかった。
夜、ラジオを聞きながら、ひとりでもくもくと部屋を片付けた。今日借りた本を段ボールに入れ、すべて終わったのは真夜中だった。
次の日、トラックが家の中の荷物を全部運んでいくと、もうルウたちは港へ向かわなければならなかった。
港には、両親の知り合いや友人たちが集まっていた。クラスメイトも来ていた。ゴリじいさんとメイばあさんもいた。
ひとりひとりに別れのあいさつをして、最後にゴリじいさんにところに行った。
「ゴリじいさん。今日は図書館、閉めてきたの?」
「いいや。ちょうど息子が島に帰ってきていて、留守番をしてくれているのさ。……実は、来月から息子家族が島に戻ってきて、いっしょに暮らすことになったんだ。息子はトラの親分のところで漁師になるんだが、手が空いているときは図書館も手伝ってくれるらしい。助かるよ」
「ほんと! よかったね」
それから、まわりのみんなに聞こえないようにゴリじいさんの耳元でそっと言った。
「ゴリじいさん、わたし、ゆうべ決めたの。将来、作家になる。ロブさんがこの島のことを歌にしたように、わたしはこの島のことを小説にするの。わたしの国の言葉と、この島の言葉で。きっとそれはわたしにしかできないことでしょ?」
「おお、それはすばらしい!」
「完成したら、ここに持ってくる。必ず」
「わかった。次に会うまで、その二冊をどの棚に入れたらいいか考えておくよ」
「ありがとう。でも、二冊じゃなくて、もっとたくさん持ってくるわ。島のみんなに読んでほしいから」
「じゃあ、また新しい本棚を作らないとなあ」
「ふふふ」
ボー。船の汽笛が鳴った。
ルウは船の上から港が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。白い灯台の上には抜けるような青空が広がっていた。イノリ島から風が吹いた。ルウはかぶっていた帽子が飛ばされないよう、ぎゅっと手で押さえた。
<完>
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