Thursday, August 27, 2020

イノリ島①「ゴリラのおじいさん」★★★

 この島しまは「イノリ島じま」。いつ、だれが、この名な前まえをつけたかわからない。ずっと昔むかしからあるこの島しまには、いろいろな動どう物ぶつたちが暮くらしている。

 

* * * * * * * * * *

 


 海(うみ)がよく見(み)える丘(おか)の上(うえ)に、古(ふる)い大(おお)きな木(き)の家(いえ)があった。その家(いえ)にひとりのおじいさんゴリラが住(す)んでいた。島(しま)のみんなは彼(かれ)のことを「ゴリじいさん」と呼(よ)んでいた。

ゴリじいさんは大(だい)工(く)だった。木(き)を削(けず)ったり、釘(くぎ)を打(う)ったり、柱(はしら)を運(はこ)んだり、朝(あさ)から晩(ばん)までよく働(はたら)いた。立(りっ)派(ぱ)な家(いえ)をいくつも建(た)てた。でも、もう年(とし)を取(と)り、仕(し)事(ごと)はやめた。毎(まい)日(にち)、ひとりでのんびり暮(く)らしている。

昔(むかし)は家(か)族(ぞく)と暮(く)らしていたが、奥(おく)さんはだいぶ前(まえ)に亡(な)くなった。一人(ひとり)息子(むすこ)は大(おお)きくなると、島(しま)を出(で)た。街(まち)で働(はたら)き、結(けっ)婚(こん)した。たまに孫(まご)を連(つ)れて帰(かえ)ってくるが、今(いま)も街(まち)に住(す)んでいる。

 ゴリじいさんは子(こ)どものころから本(ほん)を読(よ)むのが好(す)きだった。今(いま)では朝(あさ)から晩(ばん)までずっと本(ほん)を読(よ)んでいる。毎月(まいつき)、息子(むすこ)が新(あたら)しい本(ほん)をどっさり送(おく)ってくれるのだ。本(ほん)棚(だな)の前(まえ)で読(よ)み終(お)わった本(ほん)をどこに入(い)れようか考(かんが)えているときが、ゴリじいさんにとって一(いち)番(ばん)楽(たの)しい時(じ)間(かん)だった。

 ときどき散(さん)歩(ぽ)や買(か)い物(もの)に出(で)かけると、近(きん)所(じょ)の人(ひと)たちが声(こえ)をかけてくる。

「ゴリじいさん! この間(あいだ)借(か)りた本(ほん)、とってもおもしろかったよ。また借(か)りに行(い)ってもいい?」

 そんなとき、ゴリじいさんは、いつもにっこり笑(わら)って、

「もちろん。いつでも借(か)りに来(き)なさい」

とこたえる。

 島(しま)には本(ほん)屋(や)がないので、みんなゴリじいさんの家(いえ)に本(ほん)を借(か)りに来(く)るのだ。本(ほん)を借(か)りに来(き)たお客(きゃく)さんと紅(こう)茶(ちゃ)を飲(の)みながらおしゃべりをする。ゴリじいさんは、こんな生(せい)活(かつ)が気(き)に入(い)っていた。

 ただ、一(ひと)つ困(こま)ったことがあった。本(ほん)がいっぱいで、もう本(ほん)棚(だな)に入(はい)り切(き)らなくなってしまったのだ。

今(いま)までは、本(ほん)がいっぱいになると、ゴリじいさんは自(じ)分(ぶん)で新(あたら)しい本(ほん)棚(だな)を作(つく)った。それで、今(いま)ではうちの中(なか)に33個(こ)も本棚(ほんだな)がある。でも、34個(こ)目(め)の本(ほん)棚(だな)を作(つく)ろうとは思(おも)わなかった。もう若(わか)くないし、新(あたら)しい本(ほん)棚(だな)を作(つく)っても置(お)く場(ば)所(しょ)がないからだ。

古(ふる)い本(ほん)を捨(す)てようかと思(おも)った。けど、それもできなかった。どの本(ほん)にも思(おも)い出(で)があって、ずっと大(たい)切(せつ)にしてきたからだ。それに、島(しま)のだれかがその本(ほん)を借(か)りていくかもしれない。

しかたがないので、ゴリじいさんは息子(むすこ)に手(て)紙(がみ)を書(か)いた。

――もう本(ほん)は送(おく)らなくてもいいよ――

だが、その手(て)紙(がみ)は、結(けっ)局(きょく)送(おく)ることができなかった。

 何(なに)かいい方(ほう)法(ほう)がないかと何(なん)日(にち)も何(なん)日(にち)も悩(なや)んで考(かんが)えた。

「そうだ。島(しま)のみんなにあげよう!」

 ゴリじいさんは、さっそく島(しま)のみんなに手(て)紙(がみ)を書(か)いた。

――わたしの家(いえ)の本(ほん)をみなさんにあげることにしました。どうぞ好(す)きなだけ持(も)って行(い)ってください――

 数(すう)日(じつ)後(ご)、手(て)紙(がみ)を読(よ)んだ島(しま)の動(どう)物(ぶつ)たちが、ゴリじいさんの家(いえ)にやってきた。

 トラの親(おや)分(ぶん)が、

「おい! ゴリじい。ひどいじゃないか! おれたちはもうここに来(き)ちゃいけないっていうのかい!? おれはここで紅茶(こうちゃ)を飲(の)みながら、ゴリじいとあれこれ話(はな)すのが好(す)きなんだ! それなのに、もうそれができなくなるっていうのかい!?」

と言(い)うと、みんなも「そうだ、そうだ!」と口(くち)をそろえた。

 ゴリじいさんは困(こま)った顔(かお)で、

「いやいや、そうじゃないんだ。もう本(ほん)棚(だな)に本(ほん)が入(はい)らなくて……」

と説(せつ)明(めい)した。すると、みんなも困(こま)った顔(かお)になった。

 雨(あめ)がぽつぽつ降(ふ)ってきた。ゴリじいさんは席(せき)を立(た)つと、お湯(ゆ)を沸(わ)かして、紅(こう)茶(ちゃ)を入(い)れた。

ヒツジのメイばあさんは一(ひと)口(くち)飲(の)んで、

「ああ、おいしい。でも、……もうこの紅茶(こうちゃ)も飲(の)めなくなるのね」

と言(い)った。

 ゴリじいさんはみんなに向(む)かって頭(あたま)を下(さ)げた。

「すまない。……けど、もう……」

そのとき、カンガルーの女(おんな)の子(こ)が言(い)った。

「あきらめちゃだめ! 『最(さい)後(ご)まであきらめてはいけない』んでしょ?」

「ルウ……。よく覚(おぼ)えていたね。それは、ルウがここから借(か)りていった本(ほん)に書(か)いてある言葉(ことば)だ」

ルウは、にこっと笑(わら)って

「そう。ゴリじいさんがすすめてくれた本(ほん)よ」

と言(い)った。

「ぼくも思(おも)い出(だ)したよ! 『答(こた)えはすべて本(ほん)の中(なか)にある』って、何(なに)かの本(ほん)に書(か)いてあった。こんなにたくさん本(ほん)があるんだ。きっとこの家(いえ)のどこかに、何(なに)かいい方法(ほうほう)が書(か)かれた本(ほん)があるはずだよ!」

とメガネザルのコイルが言(い)った。

オオカミのリリーおばさんが立(た)ち上(あ)がった。 

「みんなで探(さが)しましょう!」

トラの親(おや)分(ぶん)も立(た)ち上(あ)がって大(おお)声(ごえ)で

「よし! 探(さが)すぞー!」

と言(い)うと、みんな「おぉー!」と続(つづ)いた。

 すぐにみんなで家(いえ)中(じゅう)の本(ほん)を調(しら)べ始(はじ)めた。そして、夕(ゆう)方(がた)、暗(くら)くなるころ、ルウがその本(ほん)を見(み)つけた。

 

 次(つぎ)の日(ひ)は、気(き)持(も)ちのいい青(あお)空(ぞら)。みんなゴリじいさんの家(いえ)に集(あつ)まって、本(ほん)を片(かた)付(づ)け、本(ほん)棚(だな)を外(そと)に出(だ)した。それから、家(いえ)の中(なか)を掃(そう)除(じ)したり、本(ほん)棚(だな)を磨(みが)いたりした。

 その次(つぎ)の日(ひ)は、森(もり)へ行(い)き、木(き)を切(き)り倒(たお)して、家(いえ)の庭(にわ)まで運(はこ)んできた。

 その次(つぎ)の日(ひ)は、運(はこ)んできた木(き)を、切(き)って、削(けず)って、組(く)み立(た)てた。

 その次(つぎ)の日(ひ)は、壁(かべ)や屋(や)根(ね)にペンキを塗(ぬ)った。

 その次(つぎ)の日(ひ)は、本(ほん)棚(だな)と本(ほん)を運(はこ)び入(い)れ、入(いり)口(ぐち)に看(かん)板(ばん)を付(つ)けた。

 最(さい)後(ご)の日(ひ)は、新(あたら)しい本(ほん)棚(だな)を作(つく)ったり、本(ほん)を並(なら)べたり、受(うけ)付(つけ)カウンターや貸(かし)出(だし)カード、お祝(いわ)いパーティーの準(じゅん)備(び)をしたりと大(おお)忙(いそが)しの一(いち)日(にち)だった。

その日(ひ)の朝(あさ)、ゴリじいさんは、いつもより少(すこ)し早(はや)起(お)きして、食(しょく)事(じ)をすませ、しばらくぶりにスーツを着(き)ると、玄(げん)関(かん)を出(で)た。そして、うちのとなりに建(た)った新(あたら)しい建(たて)物(もの)に入(はい)っていった。

34個目(こめ)の本棚(ほんだな)の前(まえ)。ゴリじいさんの大(おお)きな手(て)には、ゆうべ読(よ)み返(かえ)した『島(しま)の図(と)書(しょ)館(かん)』という本(ほん)があった。

(つづく)

Sunday, August 9, 2020

藤田 嗣治 ー 世界の画家 フジタの一生 ー★★★★★

藤(ふじ)田(た)嗣(つぐ)治(はる)は、20世(せい)紀(き)に活躍(かつやく)した日本人の画家(がか)である。それまでの日本人の画家(がか)は、留(りゅう)学(がく)生(せい)として短(たん)期(き)間(かん)現(げん)地(ち)で過(す)ごし、そこで学(まな)んだ文(ぶん)化(か)をただ日本に持ち帰るだけだった。しかし、彼は長い年(ねん)月(げつ)をフランスで過(す)ごし、現(げん)地(ち)でその実(じつ)力(りょく)を認(みと)められた。これはアジアの画家(がか)として初(はじ)めてのことだった。

 しかし、藤(ふじ)田(た)は、長い間、日本では評(ひょう)価(か)されなかった。それは、彼が戦(せん)争(そう)に深(ふか)く関(かか)わっていた人物(じんぶつ)だとされてきたからだ。

戦(せん)後(ご)、再(ふたた)び彼(かれ)はフランスに渡(わた)る。その後(ご)、日本国(こく)籍(せき)を捨(す)て、フランス人になった。さらに、晩年(ばんねん)にはキリスト教(きょう)の洗礼(せんれい)を受(う)け、「レオナール・フジタ」と名前も変(か)えた。

藤(ふじ)田(た)は、なぜフランス人になったのか。彼(かれ)の81年にわたる人生(じんせい)の旅(たび)を振(ふ)り返(かえ)ろう。


[Ⅰ 藤(ふじ)田(た)少(しょう)年(ねん)]

1886年(明(めい)治(じ)時(じ)代(だい))、フジタは東(とう)京(きょう)の大(おお)曲(まがり)で生(う)まれた。四人兄弟の末(すえ)っ子だった。父の嗣(つぐ)章(あきら)は陸軍(りくぐん)の医者(いしゃ)だった。そのおかげで、藤(ふじ)田(た)家(け)は経(けい)済(ざい)的(てき)に不(ふ)自(じ)由(ゆう)のない生(せい)活(かつ)を送(おく)ることができた。

 4歳(さい)のとき、父の仕(し)事(ごと)の都(つ)合(ごう)で熊(くま)本(もと)へ引(ひ)っ越(こ)した。そこで母を病気で亡(な)くした。まだ幼(おさな)いフジタにとっては、非(ひ)常(じょう)にショックな出(で)来(き)事(ごと)だった。

少(しょう)年(ねん)時(じ)代(だい)は自(し)然(ぜん)豊(ゆた)かな熊(くま)本(もと)で過(す)ごした。しかし、子どもの頃(ころ)のフジタは、どちらかと言えば、おとなしい性格(せいかく)だった。外で遊(あそ)ぶより、姉たちと人(にん)形(ぎょう)遊(あそ)びをするほうが好きだった。

本を読むのも好きだった。特(とく)に江(え)戸(ど)時(じ)代(だい)の版(はん)画(が)が好きで、葛(かつ)飾(しか)北(ほく)斎(さい)の絵(え)本(ほん)を夢(む)中(ちゅう)になって読んだりした。また、父や親(しん)戚(せき)からお土産(みやげ)に外国のクッキーをもらうことがよくあった。そんなときはクッキーの箱(はこ)に描(か)かれた美(うつく)しい絵(え)をじっと眺(なが)めて過(す)ごした。

 小学校では、算(さん)数(すう)は苦(にが)手(て)だったが、図(ず)画(が)はいつもクラスで一番だった。絵(え)を描(か)くのは、やはり得(とく)意(い)だった。

 12歳(さい)のとき、東(とう)京(きょう)の四谷(よつや)に戻(もど)ってきた。小学校を卒(そつ)業(ぎょう)すると、フジタは御(お)茶(ちゃ)ノ(の)水(みず)にある中学校に入学した。

中学校では柔道(じゅうどう)を習(なら)い始(はじ)めた。毎朝四時に起きて、眠い目をこすりながら、柔道場(じゅうどうじょう)に通(かよ)った。クラスメイトは野(や)球(きゅう)やテニスを楽しんでいたが、目の悪(わる)いフジタは自分には無(む)理(り)だと思い、地味(じみ)な柔道(じゅうどう)を選(えら)んだのだ。

 14歳(さい)のとき、フジタにとって重(じゅう)大(だい)な出(で)来(き)事(ごと)が起(お)きた。フジタの描(か)いた絵(え)が、なんとパリで開(ひら)かれた万国(ばんこく)博覧会(はくらんかい)に出展(しゅってん)されたのだ。フジタは飛(と)び上(あ)がって喜(よろこ)んだ。日本の中学生の代表(だいひょう)作品(さくひん)に選(えら)ばれ、このことで自(じ)信(しん)がついたフジタは、あることを決(けつ)意(い)した。

フジタは幼(おさな)い頃(ころ)から、ずっと画家(がか)になりたいと思っていた。だが、それを尊敬(そんけい)する父の前で口にしたことはなかった。父には、どこか近(ちか)づきがたいものがあった。それに、父はフジタも自分と同じ医者(いしゃ)になってほしいと思っていたようで、言い出すのが怖(こわ)かった。だが、これを機(き)会(かい)に、父に画家(がか)になる夢(ゆめ)を認(みと)めてもらいたいと思ったわけだ。

ただ、直接(ちょくせつ)口で伝(つた)えるのは軽(かる)い感(かん)じがした。そこで、フジタは自分が本(ほん)気(き)だということを伝(つた)えるために、長い手紙を書いた。その手紙を近所(きんじょ)のポストに入れると、夜にはもう自(じ)宅(たく)に届(とど)いていた。

手紙を読んだ父は、フジタを呼(よ)んだ。フジタは叱(しか)られるに違いないと思い、びくびくしながら部屋に入った。すると、父は黙ったまま財(さい)布(ふ)からすっと50円を取り出して、フジタにわたした(当(とう)時(じ)50円は大金(たいきん)だった)。それから、フジタの目をじっと見つめて、ゆっくり首(くび)を縦(たて)に振(ふ)った。それは「自分の選(えら)んだ道を生きなさい」という意味だった。

翌(よく)日(じつ)、フジタは画(が)材(ざい)店(てん)に出かけ、ずっとほしかった油(あぶら)絵(え)の道(どう)具(ぐ)を手に入れた。

 次(つぎ)に、フジタは、フランス語を習い始めた。別(べつ)の中学校の夜(や)間(かん)部(ぶ)に通(かよ)い、フランス語の授(じゅ)業(ぎょう)を受(う)けた。

そのことはクラスメイトに秘(ひ)密(みつ)にしていたが、ある日みんなにばれてしまった。英語の授(じゅ)業(ぎょう)で、イギリス人の先生がフランス語でフジタに質問してきた

「きみの英語の発音(はつおん)はフランス語みたいだ。きみはフランス語ができるのか?」

それに、フジタもついフランス語で返してしまった。

「はい。いつかフランスに行くために勉強しているんです」

それ以(い)来(らい)、フジタはまわりのクラスメイトから尊敬(そんけい)の目で見られるようになった。

藤(ふじ)田(た)少年は、夢(ゆめ)に向(む)かってまっすぐに進(すす)んでいった。

 

[Ⅱ 芸術(げいじゅつ)の都(みやこ)パリへ]

 1905年、19歳(さい)になったフジタは、父の勧(すす)めで東(とう)京(きょう)美(び)術(じゅつ)学(がっ)校(こう)西(せい)洋(よう)画(が)科(か)に入学した。この学校で日本(にほん)画(が)と西(せい)洋(よう)画(が)、それから彫(ちょう)刻(こく)の基(き)礎(そ)も学(まな)んだ。

この学校には地(ち)方(ほう)から来た学生も大勢(おおぜい)いた。フジタはいわゆる都(と)会(かい)っ子だったが、彼(かれ)らとはすぐに仲(なか)良(よ)くなった。東(とう)京(きょう)中(じゅう)を遊(あそ)んでまわり、仲(なか)間(ま)とともに楽(たの)しい青(せい)春(しゅん)時(じ)代(だい)を送(おく)った。

一方(いっぽう)、学校の成績(せいせき)は、あまり良(よ)くなかった。展(てん)覧(らん)会(かい)に入(にゅう)選(せん)したのも一(いち)度(ど)だけだった。

西(せい)洋(よう)画(が)の先生からは「きみの絵(え)は風景(ふうけい)がよくない」と言われ、日本画(にほんが)の先生からは「きみの描(か)く日本(にほん)画(が)は西(せい)洋(よう)画(が)のようだ」と言われた。

さらに、卒業(そつぎょう)制作(せいさく)では、フジタの描(か)いた自(じ)画(が)像(ぞう)が、みんなの前で先生から「悪(わる)い例(れい)だ」と批(ひ)評(ひょう)された。その先生は黒い色を使うのが嫌(きら)いだったのに、フジタはその自(じ)画(が)像(ぞう)を黒をたくさん使って描(か)いたのだ。

だが、フジタは黒こそ日本の色だと信(しん)じていた。それに、日本(にほん)画(が)と西(せい)洋(よう)画(が)を区(く)別(べつ)して扱(あつか)うのはおかしいと心の中で思っていた。このことが、後にフジタが海外(かいがい)で成功(せいこう)できた理(り)由(ゆう)かもしれない。

 この頃(ころ)、フジタは旅行(りょこう)で房総(ぼうそう)を訪(おとず)れた。そして、そこで出会った鴇田(ときた)登美子(とみこ)と恋(こい)に落(お)ちた。彼女は女子(じょし)美術(びじゅつ)学校(がっこう)を卒業(そつぎょう)した後、女学校(じょがっこう)の教師(きょうし)をしていた。それから二年後、二人は結婚(けっこん)し、東京の小さな家で暮(く)らし始めた。

私(し)生(せい)活(かつ)は満(み)たされていた。しかし、画家(がか)としての将来(しょうらい)はまだ何も見えていなかった。卒業後(そつぎょうご)も展覧会(てんらんかい)に出品(しゅっぴん)していたが、すべて落選(らくせん)だった。

そんなフジタを、父は心配(しんぱい)していた。しかし、応援(おうえん)してあげたい気持ちは変(か)わらなかった。そこで、フジタにフランス留学(りゅうがく)を勧(すす)め、フジタが30歳(さい)になるまで援(えん)助(じょ)を続(つづ)けると約(やく)束(そく)してくれた。

 1913年、27歳(さい)のフジタは、ついにあこがれのフランスへ行くことになった。横浜港(よこはまこう)から船(ふね)でフランスのマルセイユに向(む)けて出(しゅっ)発(ぱつ)した。登(と)美(み)子(こ)は日本に残(のこ)していった。寂(さび)しい思いをさせてしまうが、いずれフランスへ呼(よ)び寄(よ)せるつもりでいた。

 マルセイユに船(ふね)が到(とう)着(ちゃく)したのは、出(しゅっ)発(ぱつ)してから45日後のことだった。そこから列(れっ)車(しゃ)を乗(の)り継(つ)いで、ようやくパリにたどりついた。フジタは大きく息(いき)を吸(す)い込(こ)んだ。真(ま)夏(なつ)のパリは、芸術(げいじゅつ)の香(かお)りがした。

 この頃(ころ)、芸(げい)術(じゅつ)の中(ちゅう)心(しん)地(ち)と言えば、パリのモンパルナスという地区(ちく)だった。そこに世(せ)界(かい)中(じゅう)から若(わか)い画(が)家(か)が集(あつ)まってきた。モディリアーニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、リベラ(メキシコ)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)……。後(のち)に彼(かれ)らは「エコール・ド・パリ」と呼(よ)ばれるようになる。

 パリに着(つ)いたフジタは、はじめはホテルに泊(と)まっていたが、すぐに、そのモンパルナスにアトリエ付(つ)きのアパートを見つけて引(ひ)っ越(こ)した。

 まもなく川島(かわしま)という日本人の画(が)家(か)と知(し)り合(あ)った。川島(かわしま)はフジタよりも先にフランスに住んでいた。川島(かわしま)に連(つ)れられ、フジタはパリ市(し)内(ない)の美(び)術(じゅつ)館(かん)や劇(げき)場(じょう)を巡(めぐ)った。日本では見たことがない最(さい)新(しん)のアートに触(ふ)れ、多くの刺(し)激(げき)を受(う)けた。

さらに、幸運(こううん)なことに、知(し)り合(あ)いのスペイン人の画家(がか)に呼(よ)ばれ、ピカソのアトリエを訪(おとず)れることになった。フジタは、そこでピカソやアンリ・ルソーの絵(え)を目にして、口から心臓(しんぞう)が飛(と)び出(で)そうになった。自分が日本で学(まな)んだ印(いん)象(しょう)派(は)の絵(え)はもう古い。パリではもう次(つぎ)の時(じ)代(だい)に入っていると感(かん)じた。

 1914年の夏、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアとの間に戦争(せんそう)が起(お)きた。第(だい)一(いち)次(じ)世(せ)界(かい)大(たい)戦(せん)である。

パリの街(まち)からも多くの青年(せいねん)が戦場(せんじょう)へ向(む)かった。フランスにいた日本人は続(ぞく)々(ぞく)と帰(き)国(こく)していったが、フジタは帰ろうとしなかった。まだフランスに来て一年しか経(た)っていない。このまま何もできずに日本に帰るのは嫌だ。

 やがて日本からの通信(つうしん)や送金(そうきん)も難(むずか)しくなり、生活(せいかつ)が苦(くる)しくなった。パンを買うお金もなくなり、家にあったベッドや食(しょっ)器(き)まで売(う)り払(はら)った。

ある日、フジタは何もない部屋(へや)で床(ゆか)に座(すわ)ってリンゴをかじり、その残(のこ)りの半分を鏡(かがみ)の前に置(お)いて静(せい)物(ぶつ)画(が)を描(か)いた。フジタは貧(まず)しさと孤(こ)独(どく)と戦(たたか)いながら、新しい絵(え)を模(も)索(さく)していた。おれは画家(がか)として成功(せいこう)するために、ここにいるのだ。

 この頃(ころ)、フジタのオカッパ頭(あたま)が生まれた。床(とこ)屋(や)に行くお金がなかったので、自分で髪(かみ)を切ったのだ。前髪(まえがみ)をまっすぐ切(き)りそろえたヘアスタイルは、丸(まる)メガネとともにフジタのトレードマークになった。まわりからは「自分を宣伝(せんでん)するために、わざと目立つ髪型(かみがた)にしているんだろう」と言われた。だが、フジタがずっとこの髪(かみ)型(がた)だったのは、この頃(ころ)の気持ちを忘(わす)れないようにしていたからかもしれない。

 だが、さらに戦(せん)争(そう)が激(はげ)しくなると、ついにパリにはいられなくなった。仕(し)方(かた)なく、フジタはパリを離(はな)れ、ロンドンへ疎(そ)開(かい)し、そこで一年を過(す)ごした。

 1916年、フジタは30歳(さい)になった。父との約(やく)束(そく)では日本へ帰ることになっていた。しかし、フジタの決(けっ)心(しん)は固(かた)かった。父に「自分は死んだと思ってあきらめてください。もう日本には帰りません。送(そう)金(きん)も必(ひつ)要(よう)ありません」という手紙を書いた。妻(つま)の登美子(とみこ)には離(り)婚(こん)のための書(しょ)類(るい)を送った。フジタは何かを掴(つか)みかけていた。

翌(よく)年(とし)、パリに戻(もど)ると、フジタは初(はじ)めての個(こ)展(てん)を開(ひら)いた。描(か)いたのは、風(ふう)景(けい)画(が)だった。

―—ほかの画家たちは、みんな、にぎやかなパリの中(ちゅう)心(しん)部(ぶ)を描(か)きたがる。だから、私は逆(ぎゃく)に郊(こう)外(がい)の街(まち)並(な)みや人々(ひとびと)を描(か)こう――これが評(ひょう)判(ばん)を呼(よ)び、絵は次々(つぎつぎ)と売れていった。

また、個(こ)展(てん)が成功(せいこう)したのは、フェルナンド・バレーという女性(じょせい)のおかげでもあった。彼女も画家(がか)で、貧(まず)しいフジタの生活(せいかつ)を支(ささ)えてくれた。やがて二人は結(けっ)婚(こん)した。

だが、結(けっ)婚(こん)生(せい)活(かつ)はうまくいかなかった。7年後にはフェルナンドが別(べつ)の男性(だんせい)と恋(こい)に落(お)ち、二人は別(わか)れることになる。

 1918年、第(だい)一(いち)次(じ)世(せ)界(かい)大(たい)戦(せん)が終わった。翌年(よくとし)、5年ぶりに「サロン・ドートンヌ」という毎年パリで開(かい)催(さい)されていた展(てん)覧(らん)会(かい)が行われた。そこで驚(おどろ)くべきことが起きた。なんとフジタの出(しゅっ)品(ぴん)した6作品(さくひん)がすべて入(にゅう)選(せん)したのだ。フジタの名(な)は一(いっ)気(き)にフランス画(が)壇(だん)に知れわたった。

その作品のほとんどがキリスト教(きょう)の宗(しゅう)教(きょう)画(が)だった。大(たい)戦(せん)中(ちゅう)に、フジタはフェルナンドとブルターニュ地(ち)方(ほう)にある古い教(きょう)会(かい)を取(しゅ)材(ざい)してまわっていたのだ。この頃(ころ)から、フジタはキリスト教や教会に興味(きょうみ)を抱(いだ)くようになったのだろう。

 

  

 そして、フジタの画家としての運命(うんめい)を決定(けってい)づけたのが、1921年のサロン・ドートンヌだった。会(かい)場(じょう)では、フジタが出品(しゅっぴん)した3作(さく)品(ひん)に熱(あつ)い視(し)線(せん)が注(そそ)がれていた。

一つは自(じ)画(が)像(ぞう)で、もう一つは静(せい)物(ぶつ)画(が)だった。そして、最(もっと)も人々(ひとびと)の関(かん)心(しん)を集(あつ)めたのが、キキという女性(じょせい)モデルを描(か)いた裸(ら)婦(ふ)像(ぞう)だった。その美(うつく)しい肌(はだ)は「乳(にゅう)白(はく)色(しょく)の肌(はだ)」と呼(よ)ばれ、多くの人々から絶賛(ぜっさん)された。

これを機(き)に、フジタのもとには絵を描(か)いてほしいという注文(ちゅうもん)が殺(さっ)到(とう)した。

実(じつ)は、フジタはこの「乳(にゅう)白(はく)色(しょく)の肌(はだ)」を描(か)くのに、日本(にほん)画(が)の技(ぎ)術(じゅつ)を使っていた。細(ほそ)い筆(ふで)に黒い墨(すみ)をつけて体の線(せん)を描(か)いたのだ。これによって白い肌(はだ)をさらにきれいに見せることができた。ついに、フジタは西(せい)洋(よう)画(が)でも日本(にほん)画(が)でもない、自分だけの絵を完成(かんせい)させたのであった。

1925年、フジタは「レジオン・ドヌール勲(くん)章(しょう)」というフランスで最(もっと)も権(けん)威(い)のある賞(しょう)を授(さず)かった。フジタの絵は、それまでの西(せい)洋(よう)にはない不(ふ)思(し)議(ぎ)な魅(み)力(りょく)があり、フランス国内(こくない)で高い評(ひょう)価(か)を受(う)けることになった。

 また、この頃(ころ)からパリに続々(ぞくぞく)と日本人(にほんじん)画家(がか)が留学(りゅうがく)してきた。そんな若者(わかもの)たちに、世話好(せわず)きのフジタは料(りょう)理(り)をふるまい、いろいろと親切にしてあげた。そんなことをしているうちに、いつの間(ま)にかフジタはフランスの日本人コミュニティにおける中(ちゅう)心(しん)人(じん)物(ぶつ)の一人になっていた。今でもパリの「日本館(にほんかん)」という日本人留(りゅう)学(がく)生(せい)の寮(りょう)には、当(とう)時(じ)のフジタが描(か)いた巨(きょ)大(だい)な壁(へき)画(が)が残(のこ)されている。 

 1928年、フェルナンドと正(せい)式(しき)に離(り)婚(こん)したフジタは、リューシー・バドゥーという女(じょ)性(せい)と暮(く)らし始めた。彼女の肌(はだ)が雪のように白かったことから、フジタは彼女を「ユキ」と呼(よ)んだ。またか、と思うかもしれないが、やがてフジタは三(さん)度(ど)目(め)の結(けっ)婚(こん)をする。

戦(せん)後(ご)に訪(おとず)れた平(へい)和(わ)の中、美(び)術(じゅつ)市(し)場(じょう)は盛況(せいきょう)だった。フジタは広い家を買い、最(さい)高(こう)級(きゅう)の家(か)具(ぐ)をそろえた。高(こう)級(きゅう)車(しゃ)を手に入れ、派(は)手(で)な格(かっ)好(こう)で毎晩パーティーに出かけていった。どこへ行っても人(にん)気(き)者(もの)だった。あっという間(ま)に、フジタの名(な)はパリ中(じゅう)に知れることとなった。

その頃(ころ)、日本人がパリの街(まち)を歩いていると、あちこちで「フジタ!」と子どもたちに呼(よ)ばれたそうだ。そして、タクシーに乗(の)ると運(うん)転(てん)手(しゅ)に「フジタを知っているか?」と必(かなら)ず聞かれたらしい。

フジタはフランスで成(せい)功(こう)をつかんだ。しかし、努(ど)力(りょく)を忘(わす)れたわけではなかった。フジタはパーティーに行っても、決(き)まった時間になると、うちへ帰って絵を描(か)いた。実(じつ)は、フジタは一(いっ)滴(てき)もお酒が飲めなかったのだ。

 

[Ⅲ 帰(き)国(こく)。そして、新(あら)たな世(せ)界(かい)へ]

 1929年、パリに来てから17年が経(た)っていた。フジタは日本へ一(いち)時(じ)帰(き)国(こく)しようと思っていた。理(り)由(ゆう)は二つある。一つは、父に会いたくなったからだ。父とは6年間も全(まった)く連(れん)絡(らく)を取っていなかった。もう一つは経済的(けいざいてき)な理(り)由(ゆう)である。フジタはお金の管(かん)理(り)にだらしないところがあり、税(ぜい)金(きん)をきちんと納(おさ)めていなかった。それで、あるとき税(ぜい)務(む)署(しょ)から莫(ばく)大(だい)な税(ぜい)金(きん)を課(か)せられた。そこで、困(こま)ったフジタは日本で展(てん)覧(らん)会(かい)を開(ひら)いて一(ひと)稼(かせ)ぎしようと考(かんが)えたのだ。

 8月、ユキを連(つ)れ、マルセイユから日本へ向(む)けて船(ふね)で出(しゅっ)発(ぱつ)した。ナポリ、コロンボ、シンガポールを経(けい)由(ゆ)して、香港(ほんこん)に着(つ)いた。そこで泊(と)まった日(に)本(ほん)旅(りょ)館(かん)で、フジタは悪(わる)いニュースを知(し)らされた。日本ではフジタ帰(き)国(こく)に関(かん)する新(しん)聞(ぶん)記(き)事(じ)が出ていて、「フジタはわがまますぎて、パリで良(よ)く思われていない」、「フランス人の妻(つま)を連(つ)れて来るらしいが、これもフジタの宣伝(せんでん)だ」などと、フジタが批(ひ)判(はん)されているというのだ。フジタは、きっと海外(かいがい)で成功(せいこう)した日本人として自分は歓迎(かんげい)されるだろうと思っていた。それだけに、このことはショックが大きかった。

 しかし、日本で開(ひら)かれた新(しん)聞(ぶん)社(しゃ)主(しゅ)催(さい)の展(てん)覧(らん)会(かい)でも、デパートで開(ひら)かれた個(こ)展(てん)でも、連日(れんじつ)多くの入(にゅう)場(じょう)者(しゃ)が訪(おとず)れ、大成功(だいせいこう)を収(おさ)めた。

展(てん)覧(らん)会(かい)以(い)外(がい)にも、フジタは母(ぼ)校(こう)の東(とう)京(きょう)美(び)術(じゅつ)学(がっ)校(こう)で講演(こうえん)をしたり、本の原稿(げんこう)を書いたりした。夜もあちこちからパーティーに招(まね)かれ、忙しい毎日だった。

だが、それも一段落(いちだんらく)すると、父とユキを連(つ)れて旅(りょ)行(こう)に出かけた。向(む)かった先(さき)は、少(しょう)年(ねん)時(じ)代(だい)を過(す)ごし、母との思い出が残(のこ)る熊本(くまもと)、父が以(い)前(ぜん)住(す)んでいた広(ひろ)島(しま)、京(けい)城(じょう)(ソウル)だった。フジタは、これが自分にできる最(さい)後(ご)の親(おや)孝(こう)行(こう)だと思っていた。

年末(ねんまつ)に、フジタは日本を離(はな)れた。もう二度(にど)と日本へは帰らないと決(き)めていた。

 1930年、フジタたちはアメリカ経(けい)由(ゆ)でパリに戻(もど)ってきた。この頃(ころ)、世(せ)界(かい)では大(だい)恐(きょう)慌(こう)が起(お)こり、世(せ)界(かい)経(けい)済(ざい)は大きな打(だ)撃(げき)を受(う)けていた。パリの美(び)術(じゅつ)市(し)場(じょう)でも絵(かい)画(が)の値(ね)段(だん)が暴(ぼう)落(らく)した。

 そんな中、フジタは個(こ)展(てん)を開(ひら)いた。けれど、半分以(い)上(じょう)の絵が売れ残(のこ)った。再(ふたた)び生(せい)活(かつ)が苦(くる)しくなり、フジタは家や車を手(て)離(ばな)した。そして、ユキとも別(わか)れた。さらに、親友(しんゆう)のパスキンを自(じ)殺(さつ)で失(うしな)った。

 落(お)ち込(こ)んだフジタはパリから逃(に)げるように旅(たび)に出た。向(む)かった先(さき)は中(ちゅう)南(なん)米(べい)だった。ブラジル、アルゼンチン、ボリヴィア、ペルー、キューバ、メキシコ。2年にわたる長い旅(たび)だった。その間、フジタは現(げん)地(ち)で取(しゅ)材(ざい)し、様々(さまざま)な絵を描(か)いた。それらの絵は、現(げん)地(ち)で展(てん)覧(らん)会(かい)を開(ひら)いて販(はん)売(ばい)した。

この旅(たび)の間、彼のそばには一人のフランス人女性(じょせい)がいた。赤(あか)毛(げ)のダンサー、マドレーヌ・ルクー。またか……思っただろう。新しい妻(つま)ができたのだ。彼女が傷(きず)ついたフジタの心の穴(あな)を埋(う)めてくれた。

中(ちゅう)南(なん)米(べい)の旅(たび)の途(と)中(ちゅう)、メキシコでは友人(ゆうじん)の画家(がか)リベラが描(か)いた絵を見に行った。壁(かべ)に描かれた巨(きょ)大(だい)な壁(へき)画(が)を前にして、フジタは「いつか自分もこんな壁(へき)画(が)を描(か)いてみたい」と思った。

 メキシコからアメリカに渡(わた)ると、サンフランシスコとロサンゼルスで展(てん)覧(らん)会(かい)を開(ひら)き、中(ちゅう)南(なん)米(べい)の旅(りょ)行(こう)中(ちゅう)に描(か)いた絵を発(はっ)表(ぴょう)した。それらの絵はどれも以(い)前(ぜん)のフジタの絵とは違(ちが)っていた。フジタは日本でもフランスでもない場(ば)所(しょ)で、画(が)家(か)として新(あら)たな成(せい)長(ちょう)を遂(と)げたのだ。そして、どこでもやっていけるという自(じ)信(しん)を手に入れた。

フジタは、マドレーヌと太平洋(たいへいよう)をわたり、再(ふたた)び日本に向(む)かった。47歳(さい)だった。

 1933年、日本に戻(もど)ったフジタは、様々(さまざま)なところで絵を描(か)くようになった。この頃(ころ)のフジタがもっとも力を注(そそ)いだのが壁(へき)画(が)だった。東京の店、大阪や京都のデパート、秋(あき)田(た)でも巨(きょ)大(だい)な壁(へき)画(が)を描(か)いてみせた。フジタは東北(とうほく)から沖縄(おきなわ)まで日本中を飛(と)び回(まわ)った。中国の北京(ペキン)にも取材(しゅざい)に行った。また、海外(かいがい)での生(せい)活(かつ)や旅(たび)の経(けい)験(けん)を生(い)かして、新(しん)聞(ぶん)や雑(ざっ)誌(し)にエッセイを書いた。フジタは次(し)第(だい)に文(ぶん)化(か)人(じん)として日本でも認(みと)められるようになった。

 1936年、妻(つま)マドレーヌが29歳(さい)の若(わか)さで急(きゅう)死(し)した。フジタは、母(ぼ)国(こく)フランスから遠(とお)く離(はな)れた場(ば)所(しょ)で亡(な)くなった彼女のことを想(おも)って、「一九〇〇年」という絵にマドレーヌの姿(すがた)を描(か)いた。1900年は、パリで万(ばん)国(こく)博(はく)覧(らん)会(かい)が開(ひら)かれた年である。

 それから、二年後、フジタは堀(ほり)内(うち)君(きみ)代(よ)と結婚(けっこん)した。またか……と思ったに違いない。君(きみ)代(よ)はフジタより24歳(さい)も年下だった。料(りょう)亭(てい)で働(はたら)いており、そこでフジタと知(し)り合(あ)った。フジタにとっては5回目の結婚(けっこん)である。まわりからは「どうせまたすぐに別(わか)れるだろう」と言われたが、君(きみ)代(よ)はフジタが亡(な)くなるまでずっとそばにいた。

 

[Ⅳ 戦(せん)争(そう)の時(じ)代(だい)]

 1938年、フジタは戦(せん)争(そう)画(が)を描(か)くために、戦(せん)場(じょう)へ行くことになった。戦(せん)争(そう)画(が)を描(か)く目(もく)的(てき)は、その戦(せん)争(そう)を記(き)録(ろく)し、国(こく)民(みん)を鼓舞(こぶ)するためである。これは東(とう)洋(よう)でも西(せい)洋(よう)でも昔(むかし)から行(おこな)われてきたことで、当(とう)時(じ)、日本では200人以(い)上(じょう)の画(が)家(か)が戦(せん)争(そう)画(が)を描(か)いていた。フジタは、一か月ほど戦(せん)場(じょう)で取(しゅ)材(ざい)し、日本へ戻(もど)ると、2点の戦(せん)争(そう)画(が)を描(か)いた。

 翌年(よくとし)、フジタは君(きみ)代(よ)を連(つ)れ、フランスに渡(わた)った。モンマルトルに家を見つけ、動物の絵を描(か)いたりして過(す)ごした。だが、それはわずか一年足(た)らずの滞在(たいざい)となった。その秋に第(だい)二(に)次(じ)世(せ)界(かい)大(たい)戦(せん)が始まったのだ。ドイツ軍(ぐん)が侵攻(しんこう)して来ると聞き、フジタ夫(ふ)妻(さい)は慌(あわ)ててパリから逃(に)げ出した。結(けっ)局(きょく)日本に戻(もど)ってきたフジタは、また戦(せん)争(そう)画(が)と向(む)き合(あ)うことになる。

 1941年1月、フジタを支(ささ)え続(つづ)けた父が亡(な)くなった。

同年7月、フジタは帝(てい)国(こく)芸(げい)術(じゅつ)院(いん)の会(かい)員(いん)に推(すい)薦(せん)された。当(とう)時(じ)の会(かい)員(いん)は日本画(が)壇(だん)の大(おお)物(もの)ばかりであった。このときになって、ようやく日本画(が)壇(だん)からもフジタは認(みと)められたのだ。

ちょうどその頃(ころ)、フジタは戦(せん)場(じょう)で取(しゅ)材(ざい)したことをもとに、「哈(は)爾(る)哈(は)河(か)畔(はん)戦(せん)闘(とう)図(ず)」という巨(きょ)大(だい)な絵を完成(かんせい)させた。日本人の兵(へい)士(し)が敵(てき)の戦(せん)車(しゃ)に上(のぼ)り、中にいる兵(へい)士(し)を攻(こう)撃(げき)するという場(ば)面(めん)を描(か)いたものだ。だが、日本軍(ぐん)の活(かつ)躍(やく)を描(か)いたこの戦(たたか)いは、実(じっ)際(さい)には日(に)本(ほん)軍(ぐん)が負(ま)けた戦(たたか)いであった。しかし、「哈(は)爾(る)哈(は)河(か)畔(はん)戦(せん)闘(とう)図(ず)」は高い評(ひょう)価(か)を受(う)け、フジタ自(じ)身(しん)の評(ひょう)価(か)も高まることになった。

 10月、帝(てい)国(こく)芸(げい)術(じゅつ)院(いん)の文(ぶん)化(か)使(し)節(せつ)としてフジタはハノイやサイゴンを訪(おとず)れた。この頃(ころ)、ベトナムはフランス領(りょう)だったため、駅(えき)やレストランではフランス語が使われていた。しかし、フランス語を耳にしても、フジタはもう懐(なつ)かしいとは思わなかった。すっかり日本人の藤(ふじ)田(た)になっていた。

 

 

 12月、日本の真(しん)珠(じゅ)湾(わん)攻(こう)撃(げき)により、太(たい)平(へい)洋(よう)戦(せん)争(そう)が始(はじ)まった。フジタはシンガポールを皮(かわ)切(き)りにアジア中(じゅう)を取(しゅ)材(ざい)して回(まわ)った。冬に開(ひら)かれた美(び)術(じゅつ)展(てん)には戦(せん)争(そう)画(が)を3点出(しゅっ)品(ぴん)した。それらの絵は、軍(ぐん)によって全(ぜん)国(こく)で展(てん)示(じ)され、多くの人々の目に触(ふ)れた。

 しかし、1942年6月、日本がミッドウェー海(かい)戦(せん)で敗(やぶ)れると、戦(せん)況(きょう)は悪(あっ)化(か)した。画(が)家(か)たちは次(し)第(だい)に戦(せん)地(ち)へ取(しゅ)材(ざい)に行くことができなくなった。そんな中、フジタは想像(そうぞう)だけで戦(せん)争(そう)画(が)を描(か)き続(つづ)けた。倒(たお)れた兵(へい)士(し)、泣(な)き叫(さけ)ぶ女(じょ)性(せい)や子ども……。それらは、もはや記(き)録(ろく)でも、国民(こくみん)を鼓舞(こぶ)するようなものでもなかった。フジタは戦(せん)争(そう)画(が)を通(とお)して戦争(せんそう)の真実(しんじつ)を描(えが)こうとしたのだ。

 1944年、日本本(ほん)土(ど)はアメリカ軍(ぐん)の攻撃(こうげき)を受(う)けるようになった。フジタ夫(ふ)妻(さい)は東京を離(はな)れ、神(か)奈(な)川(がわ)にある村(むら)に疎(そ)開(かい)した。

 ある日、フジタが疎(そ)開(かい)した村(むら)の若(わか)者(もの)が戦(せん)争(そう)に行かなければならなくなった。村(むら)のみんなで日(ひ)の丸(まる)(国(こっ)旗(き))に寄(よ)せ書(が)きをした。当(とう)時(じ)、日本では戦争(せんそう)に行く若者(わかもの)に向(む)かって「帰ってこい」とは言えなかった。多くの人が「国のために最(さい)後(ご)まで戦(たたか)え」という言葉を書いた。だが、フジタはそこに小さな蛙(かえる)と二つの空豆(そらまめ)の絵(え)を描(か)いた。蛙(かえる)は、おそらく「カエル=帰る」という意味だ。(ここからは私の想像(そうぞう)だが、)豆(まめ)が入っている袋(ふくろ)の部(ぶ)分(ぶん)を「さや」と呼(よ)ぶ。これは刀(かたな)を収(おさ)める「鞘(さや)」のこと。空豆(そらまめ)にしたのは、豆(まめ)の中でも特(とく)に大きくて立(りっ)派(ぱ)なさやを持っているからだ。二つの空豆(そらまめ)が意味するものは「二本の刀(かたな)を鞘(さや)に収(おさ)める」ということ。これはきっと「死(し)ぬな」、「殺(ころ)すな」という意味だろう。「だれも殺(ころ)さず、生きて帰ってきてほしい」。フジタはそんな願(ねが)いを込(こ)めて蛙(かえる)と空豆(そらまめ)を描(か)いたのではないだろうか。ただ、その絵をもらった若者(わかもの)は少し違(ちが)う意味に理(り)解(かい)したようだ。だが、無事(ぶじ)に生きて村(むら)に帰ってきた。空豆(そらまめ)については私の考(かんが)えすぎかもしれない。

 

[Ⅴ 戦(せん)争(そう)画(が)の責(せき)任(にん)]

 1945年8月15日、戦争(せんそう)が終わった。まもなくGHQ(General Headquarters,連(れん)合(ごう)国(こく)軍(ぐん)最(さい)高(こう)司(し)令(れい)官(かん)司(し)令(れい)部(ぶ))の人間(にんげん)がフジタのいる村(むら)へやってきた。彼はフジタに「アメリカで日本占(せん)領(りょう)をテーマにした展(てん)覧(らん)会(かい)を開(ひら)く計(けい)画(かく)があるので、いっしょに戦(せん)争(そう)画(が)を集(あつ)めるのを手(て)伝(つだ)ってほしい」と言った。フジタは迷(まよ)わず引(ひ)き受(う)けることにした。フジタは自分が描(か)いた戦(せん)争(そう)画(が)には美(び)術(じゅつ)的(てき)な価(か)値(ち)があると信(しん)じていたし、より多くの人に見てほしいと思っていた。

戦(せん)争(そう)画(が)の収(しゅう)集(しゅう)は1946年の夏に完了(かんりょう)し、GHQの内(ない)部(ぶ)で展(てん)覧(らん)会(かい)が開(ひら)かれた。ところが、このときには担(たん)当(とう)者(しゃ)が代(か)わっており、「これらの戦(せん)争(そう)画(が)に文(ぶん)化(か)的(てき)な価(か)値(ち)はない」と判(はん)断(だん)されてしまった。結(けっ)局(きょく)、アメリカでの展覧会(てんらんかい)は行われず、それらの絵(え)は1951年にアメリカに運(はこ)ばれ、長い間だれの目にも触(ふ)れることなく保(ほ)管(かん)された。しかし、現在(げんざい)、東(とう)京(きょう)国(こく)立(りつ)近(きん)代(だい)美(び)術(じゅつ)館(かん)でそれらの絵を目にすることができる。1970年になってから「無(む)期(き)限(げん)貸(たい)与(よ)」という形で東(とう)京(きょう)国(こく)立(りつ)近(きん)代(だい)美(び)術(じゅつ)館(かん)に返(かえ)ってきたからだ。こうして、長い時を経(へ)て、フジタの想(おも)いは実(みの)った。

一(いっ)方(ぽう)で、日本(にほん)美術会(びじゅつかい)からはフジタの戦(せん)争(そう)責(せき)任(にん)を問(と)う声(こえ)が挙(あ)がっていた。日本(にほん)美術会(びじゅつかい)は、積(せっ)極(きょく)的(てき)に戦(せん)争(そう)に協(きょう)力(りょく)していた画(が)家(か)を戦(せん)争(そう)責(せき)任(にん)者(しゃ)としてリストにまとめた。そのリストをGHQに提(てい)出(しゅつ)するというのである。リストの一番上にフジタの名前が書かれていた。フジタは怒(いか)った。なぜ私に一番責任(せきにん)があるというのだ! 私はただ一人の兵士として、戦争に向き合い、絵を描いただけなのに……

しかし、ついに戦(せん)争(そう)画(が)を描(か)いた画(が)家(か)たちがGHQから戦(せん)争(そう)責(せき)任(にん)を問(と)われることはなかった。ただ、このことで、今まで親(した)しくしていた画家(がか)たちがフジタのもとを離(はな)れていき、フジタは心を痛めた。

やがて、フジタは日本を出ていく決(けつ)意(い)をする。

1946年にフランスのビザを申請(しんせい)するが、なかなか下(お)りずに待たされた。そこで、フジタはアメリカのビザを申請(しんせい)することにした。一(いっ)旦(たん)アメリカへ入国(にゅうこく)し、そこからフランスへ行こうと考(かんが)えたのだ。アメリカにいた友人(ゆうじん)やGHQで働いていたフランク・シャーマンが手伝(てつだ)ってくれた。そのおかげもあって、1年後にアメリカ入国(にゅうこく)のビザが下(お)りた。ただ、手(て)違(ちが)いで君(きみ)代(よ)のビザが下(お)りなかった。君(きみ)代(よ)のビザは3カ月後になるという。悩(なや)んだ末(すえ)に、先にフジタが一人でアメリカへ行くことにした。

 そのことを知(し)った画(が)家(か)たちは、「フジタは戦(せん)争(そう)責(せき)任(にん)を問(と)われるのを恐(おそ)れて、日本を捨(す)てて海(かい)外(がい)へ逃(に)げ出す」と噂(うわさ)した。マスコミも「今の妻(つま)もまた捨(す)てて一人で外国へ行く」、「再(ふたた)びパリに行っても今(こん)度(ど)は成(せい)功(こう)できるかあやしいものだ」という記事(きじ)を書いた。

 1949年3月、羽(はね)田(だ)空(くう)港(こう)からニューヨークへ向(む)かうとき、フジタは見送りに来てくれた人たちにこう言い残(のこ)したという。

「画家(がか)は絵だけ描(か)いてください。仲(なか)間(ま)同(どう)士(し)でけんかをしないでください。日本画(が)壇(だん)は早く世(せ)界(かい)的(てき)水(すい)準(じゅん)になってください」

 

[Ⅵ 再(ふたた)びパリへ] 

  ニューヨークへ着いたフジタは、ここで君きみ代よのビザが下おりるまで一人で待つことになった。この期き間かんにフジタは二ヶ月で25通つうも手紙を書いた。手紙はGHQのフランク・シャーマン宛あてに送られた。その封ふう筒とうの中に君きみ代よ宛あての手て紙がみも入れた。

フランク・シャーマンは、日本に来る前からフジタのファンだった。戦(せん)後(ご)GHQの仕事で来日(らいにち)すると、すぐにフジタに会いに来た。それ以(い)来(らい)、二人は親(した)しくなり、フジタはシャーマンのために絵を描(か)いてあげたりした。

以下(いか)の英文(えいぶん)は、アメリカで生活(せいかつ)を始めたばかりのフジタが、シャーマンに送った手紙の一(いち)部(ぶ)である。慣(な)れない英語で素(す)直(なお)に自分の気持ちを伝(つた)えようとしている。

 

  I feel free, I can enjoy my life so much.  Every day I discover many wonderful stimulus. I want to have many hands not only two. My moral is so good.

(私は自(じ)由(ゆう)だ。こちらの生活(せいかつ)をとても楽しんでいる。毎日多くのすばらしい刺(し)激(げき)がある。二本だけじゃなくて、もっとたくさん手がほしい。わたしはやる気にあふれている。)

 ※おそらく“moral”は“morale”の誤(あやま)り

 

 ニューヨークでフジタはよく美(び)術(じゅつ)館(かん)を訪(おとず)れた。メトロポリタン美(び)術(じゅつ)館(かん)ではレオナルド・ダ・ヴィンチなど西(せい)洋(よう)の偉(い)大(だい)な画(が)家(か)の作(さく)品(ひん)を、ニューヨーク近(きん)代(だい)美(び)術(じゅつ)館(かん)ではパリに住んでいた頃(ころ)の仲(なか)間(ま)の作(さく)品(ひん)を眺(なが)めて過(す)ごした。

 この時(じ)期(き)にフジタが描(か)いた絵の中に「カフェ」という作品がある。パリの街角(まちかど)のカフェで一人の女性(じょせい)がたたずんでいる。その女性の肌(はだ)は、かつてフランス画(が)壇(だん)で絶(ぜっ)賛(さん)された「乳(にゅう)白(はく)色(しょく)の肌(はだ)」だった。アメリカでの生活(せいかつ)を楽しんでいたものの、やはりフジタの心はフランスを向(む)いていたのだ。

 1949年5月、君(きみ)代(よ)が予(よ)定(てい)通(どお)りニューヨークに着(つ)いた。その後、11月に個(こ)展(てん)を開(ひら)いて成(せい)功(こう)を収(おさ)めると、翌年(よくとし)1月にはフランスへ出(しゅっ)発(ぱつ)した。最(さい)後(ご)にシャーマンへ男女のかわいらしい版(はん)画(が)を送(おく)った。そこには「グッバイ・ニューヨーク。パリへ行きます」と書かれてあった。

 10年ぶりのパリでフジタを待っていたのは現(げん)地(ち)のマスコミだった。到(とう)着(ちゃく)すると、すぐにマスコミが押(お)しかけてきて、戦(せん)争(そう)中(ちゅう)のことをしつこく聞いてきた。フジタは、ここまで来てもマスコミかと、うんざりした。

 フジタ夫(ふ)妻(さい)は、かつてフジタが住んでいたモンパルナスのアパートに部屋(へや)を借(か)りた。だが、ともに過(す)ごした仲(なか)の良(よ)い画(が)家(か)たちは、もうほとんどパリにいなかった。すでに亡(な)くなっていたり、どこか別(べつ)のところへ行ってしまっていた。フジタはパリの懐(なつ)かしい街(まち)並(な)みを絵に描(か)いた。やっと落ち着いて暮(く)らせる場所に戻(もど)ってきた。

 1950年3月、パリで久(ひさ)しぶりの個(こ)展(てん)を開(ひら)いた。不(ふ)安(あん)だったが、好(こう)評(ひょう)で絵もよく売れた。さらに、うれしいことがあった。あのピカソが見に来てくれたのだ。ピカソは戦前(せんぜん)もフジタの個(こ)展(てん)によく足を運(はこ)んでくれていた。

 この頃(ころ)、個(こ)展(てん)や宗(しゅう)教(きょう)画(が)の取(しゅ)材(ざい)のために、よく旅行(りょこう)に出かけた。ヨーロッパだけでなく、アフリカにわたって、アルジェリアでも個(こ)展(てん)を開(ひら)いた。

また、ときどき友人たちがアトリエを訪(おとず)れてきた。その中には、かつての妻(つま)フェルナンドやユキもいた。彼女たちに優(やさ)しく接(せっ)するフジタを見て、君(きみ)代(よ)はやきもちを焼(や)いたとか。

 1955年、フジタ夫(ふ)妻(さい)はフランス国籍(こくせき)を取得(しゅとく)し、フランス人になった。このときフジタは68歳(さい)だった。このことは日本でもニュースになった。なぜフジタは日本国籍(こくせき)を捨(す)てフランス人になったのか、現在(げんざい)でもこれは大きな謎(なぞ)である。ただ、フジタは晩(ばん)年(ねん)、妻(つま)の君(きみ)代(よ)に「私が日本を捨(す)てたのではない。捨(す)てられたのだ」と何度も言ったという。

 フジタの代(だい)表(ひょう)作(さく)に「私の部屋、目(め)覚(ざ)まし時(ど)計(けい)のある静(せい)物(ぶつ)」という絵がある。1921年のサロン・ドートンヌで高い評(ひょう)価(か)を受(う)け、フジタも非(ひ)常(じょう)に気に入っていた作品だ。ずっとフジタの手(て)元(もと)に置(お)いてあったが、手(て)離(ばな)そうと思ったことがある。戦(せん)後(ご)、日本を離(はな)れる前に、東京のある美(び)術(じゅつ)館(かん)にこの作(さく)品(ひん)を寄(き)贈(ぞう)したいという手紙を書いた。日本に自分の代(だい)表(ひょう)作(さく)を残(のこ)しておこうと思ったからだ。しかし、美(び)術(じゅつ)館(かん)に断(ことわ)られてしまう。おそらく作品そのものではなく、戦(せん)争(そう)画(が)に関(かか)わったフジタの評(ひょう)判(ばん)が良(よ)くなかったからであろう。フジタはフランスにわたった後、この絵を他(た)の作品(さくひん)とともにフランス国(こく)立(りつ)近(きん)代(だい)美(び)術(じゅつ)館(かん)に寄(き)贈(ぞう)した。なんと、もったいないことをしたものだ。

 

[Ⅶ 最(さい)後(ご)の大(おお)仕(し)事(ごと)]

 1959年、フジタ夫(ふ)妻(さい)はシャンパーニュ地(ち)方(ほう)にあるランスの大聖堂(だいせいどう)でカトリックの洗礼(せんれい)を受(う)けた。フジタは自分が亡(な)くなったら、フランスに骨(ほね)を埋(う)めるつもりでいたので、カトリックに改(かい)宗(しゅう)することは自(し)然(ぜん)なことだったのかもしれない。

洗礼(せんれい)にあたって、「レオナール(Léonard)」という名を授(さず)かった。「レオナール」は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」から借(か)りたものだ。フジタは、レオナルド・ダ・ヴィンチを心から尊敬(そんけい)していたのである。

これ以(い)降(こう)、フジタは宗(しゅう)教(きょう)画(が)を多く描(か)くようになる。

 1961年、パリの南(なん)部(ぶ)にあるヴィリエ・ル・バクルに引(ひ)っ越(こ)した。フジタ夫(ふ)妻(さい)はにぎやかな街(まち)を離(はな)れ、静(しず)かな村(むら)で暮(く)らし始めた。

 近所(きんじょ)の子どもたちがアトリエへよく遊(あそ)びに来た。フジタはいつもたくさん飴(あめ)を用(よう)意(い)して、子どもたちが学校から帰ってくるのを楽しみに待っていた。フジタには子どもがいなかったが、子どもの絵はよく描(か)いた。ただ、決(き)まったモデルがいたわけではない。フジタは想像(そうぞう)で自分が愛(あい)する理(り)想(そう)の子どもを描(か)いた。子どもは、大人の世(せ)界(かい)に疲(つか)れたフジタの心に安(やす)らぎを与(あた)えてくれる大切な存在(そんざい)だったのかもしれない。

 1965年、79歳(さい)のフジタはいよいよ人生(じんせい)最後(さいご)の仕事に挑(いど)もうとしていた。ランスに自分で設計(せっけい)した礼(れい)拝(はい)堂(どう)を建(た)てたい。それだけでなく、礼(れい)拝(はい)堂(どう)の中にフレスコ画(が)を描(か)こうというのだ。

フレスコ画(が)とは中世(ちゅうせい)にはよく使われた技(ぎ)法(ほう)である。壁(かべ)に漆(しっ)喰(くい)を塗(ぬ)り、乾(かわ)かないうちに、すばやく上から水(すい)性(せい)の絵(え)の具(ぐ)で絵(え)を描(か)くのだ。フレスコ画(が)を描(か)くのは非(ひ)常(じょう)に難(むずか)しく、体(たい)力(りょく)が要(い)る。

高齢(こうれい)のフジタに、はたしてそれができるのか。しかも、フジタはそれまでフレスコ画(が)を描(か)いたことがなかった。フジタはアトリエの壁(かべ)を使ってフレスコ画(が)の練習(れんしゅう)をした。

 1966年の暑い夏、フジタは君(きみ)代(よ)夫(ふ)人(じん)に支(ささ)えられながら、90日かけて、この大(おお)仕(し)事(ごと)をやりとげた。

子(こ)羊(ひつじ)をひざにのせた神(かみ)と天(てん)使(し)たち。少(しょう)女(じょ)たちに礼(れい)拝(はい)される聖(せい)母(ぼ)子(し)。そして、十(じゅう)字(じ)架(か)にかけられたキリスト。フジタは、キリスト教(きょう)の世(せ)界(かい)を全(ぜん)力(りょく)で描(か)き切(き)った。

 この仕事をやり終えると、フジタは体(たい)調(ちょう)を崩(くず)し、入(にゅう)院(いん)した。

1968年1月、スイス、チューリッヒの病院で亡(な)くなる。

ランスの大(だい)聖(せい)堂(どう)で葬(そう)儀(ぎ)が行われた後、遺(い)体(たい)は本人の希(き)望(ぼう)通(どお)り、この礼(れい)拝(はい)堂(どう)に埋(まい)葬(そう)された。墓(ぼ)石(せき)には“Leonard Foujita”という名が刻(きざ)まれた。しばらくして、日本政(せい)府(ふ)から勲(くん)一(いっ)等(とう)瑞(ずい)宝(ほう)章(しょう)が贈(おく)られた。

  

Gérald Garitan(2010) Chapelle créée et décorée par Léonard Foujita à Reims en 1966.- CC BY-SA2.5


日当(ひあ)たりの良(よ)い、緑(みどり)に囲(かこ)まれたこの小さな礼(れい)拝(はい)堂(どう)の名前は、「ノートル・ダム・ド・ラ・ペ(平(へい)和(わ)の聖(せい)母(ぼ))」という。フレスコ画(が)だけでなく、彫刻(ちょうこく)やステンドグラス、細(こま)かい装(そう)飾(しょく)にいたるまで、すべてフジタがデザインしたものだ。フジタの美(び)へのこだわりがつまっている。君(きみ)代(よ)夫(ふ)人(じん)も亡(な)くなると、この礼(れい)拝(はい)堂(どう)に埋葬(まいそう)された。

この礼(れい)拝(はい)堂(どう)にはもう一つの名前がある。「シャペル・フジタ(フジタ礼(れい)拝(はい)堂(どう))」。ここがフジタの長い旅(たび)のゴールだった。

(完)

 

<参考>

YouTube東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」

https://youtu.be/6uVvpJ8J_wM

 

《参考資料》

近藤史人(2006)『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社

近藤史人(編)(2005)『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』講談社

佐藤幸宏(監)(2019)『別冊太陽 藤田嗣治 腕一本で世界に挑む』平凡社

清水敏男(2018)『藤田嗣治作品集』東京美術

林洋子(監)(2018)『旅する画家 藤田嗣治』新潮社

林洋子(2013)『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい藤田嗣治  生涯と作品』東京美術

林洋子(2018)『藤田嗣治 手紙の森へ』集英社

布施英利(2018)『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』NHK出版

 

 

トウキョウタワー★★★

Created By ondoku3.com 「 東 ( とう ) 京 ( きょう ) タワー」   私 ( わたし ) の 家 ( いえ ) の 居 ( い ) 間 ( ま ) の 壁 ( かべ ) には、 大 ( おお ) きな 東 ( とう ) 京 ( きょう )...