Sunday, February 5, 2023

赤い橋★★★★★

それは夏に起きたことなのに、冬になると思い出す。その(いっ)(しゅん)()()(ごと)(わす)れることができずに、ぼくはまた後ろを()(かえ)る。

 

あのとき、ぼくは大学2年生で、夏休みに田舎(いなか)帰省(きせい)すると、母はかわいい息子(むすこ)のためにせっせと世話(せわ)()いてくれた。そのおかげで、ぼくは毎日のんびりと()ごすことができた。いつ寝てもいいし、いつ起きてもいい。本や映画で時間をつぶし、気が()けば、近所(きんじょ)友人(ゆうじん)(さそ)って、海や山へドライブに出かけた。ようするに、イソップ寓話(ぐうわ)のキリギリスみたいな日々(ひび)(おく)っていた。

 ある()し暑い夜のことだ。夕食の後、風呂(ふろ)に入り、くだらないテレビ番組(ばんぐみ)を見てから、(とこ)()いた。

()(なか)()()(ごえ)で目が()めた。(あみ)()(すき)()から入ってきたのだろうか。仕方(しかた)なく、電気をつけて退治(たいじ)した。

(てのひら)には、つぶれた()()(あと)(のこ)った。()されたと思って(たし)かめたが、どこも()されていなかった。自分のならともかく、他人(たにん)()というのは気味(きみ)(わる)い……。ティッシュで()きとり、電気を()して、また(よこ)になった。

長い昼寝(ひるね)をしたせいか、風呂(ふろ)()がりにビールを飲んだせいか、それとも、()(のろ)いのせいか……とにかく(ねむ)れない。

ベッドから起き上がり、電気をつけた。時計は2時を(まわ)ったところだった。

(あせ)湿(しめ)ったTシャツを()()え、(だい)(どころ)に行って石鹸(せっけん)で手を(あら)った。それからコップに水をくんで()()すと、遠くからカエルの()(ごえ)が聞こえてきた。(まど)をのぞくと、(がい)(とう)()かりが(かがや)いていた。ぼくは、その(ひかり)()()せられ、(むし)のようにふらふらと玄関(げんかん)()かい、ドアを開けた。

あたりの家々(いえいえ)、もちろんどこも(くら)かった。近所(きんじょ)にはコンビニはおろか、自動(じどう)販売機(はんばいき)さえない。外に出てみたものの、どこも行く()てなどなかった。——そうだ。子どもの(ころ)によく遊んだ公園がある。あそこに行ってみよう。もしかしたらカブトムシが()れるかもしれない。ぼくは少年(しょうねん)のようにワクワクしながら()()(なか)(さん)()開始(かいし)した。

カエルの声と、ペタッ、ペタッというサンダルの音しか聞こえない。けれど、それは公園が近づくにつれて、川の(なが)れる音にかき()された。公園の手前(てまえ)には細い道がある。その道を左へまっすぐ行くと、(はし)につながる。その(てつ)(はし)は、子どもたちの間では「赤い(はし)」と()ばれていた。けど、今ではすっかり色あせ、()びだらけで、赤というより茶色(ちゃいろ)に近かった。

公園が見えた。手前(てまえ)の道を(わた)ろうとしたとき、(はし)の上にひとりの女性(じょせい)がいるのが目に入った。じっと川を見つめている。三十(さい)くらいで、(かみ)が長く、グレーのコートを着ていた。——こんな時間に何をやっているんだ? と思ったが、それは自分も同じだった。気にせず公園に行こうと目をそらした。けど、(つぎ)瞬間(しゅんかん)ぼくは奇妙(きみょう)なこと気づき、はっとした。

 

グレーのコート……コート? 夏なのに⁉

   

(おそ)(おそ)(はし)の方を()()くと、女性(じょせい)姿(すがた)()えていた……。心臓(しんぞう)がバクバクと音を立てる。長い(はし)の真ん中には(かく)れる場所などどこにもない。もしどこかへ走って行ったのなら、絶対(ぜったい)に気づいたはずだ。川に()()んだか、それとも、ただの()間違(まちが)いか、どちらかしか考えられない。しかし、そのどちらも正しいとは思えなかった。

 

——幽霊(ゆうれい)

 

「う、(うそ)だろ……」背筋(せすじ)がぶるっと(ふる)えた。(はし)の真ん中まで行って、何が起こったか(たし)かめる(ゆう)()などなかった。「()げろ!」とぼくの中の何かが(さけ)んだ。(ぜん)(そく)(りょく)で家に()かって()け出した。()(ちゅう)、サンダルが()げて、(ころ)びそうになった。家に着くや(いな)や、部屋に()()み、()(とん)をかぶって(まる)くなった。身体(からだ)はまだ恐怖(きょうふ)でガクガク(ふる)えていた。

10時ごろになって、ようやく目が()めた。()(がい)とぐっすり(ねむ)れたので、夜中(よなか)に起きたことはすべて(ゆめ)のように思えた。けど、立ち上がると足の小指(こゆび)がずきっと(いた)んだ。そういえば、サンダルが()げたとき、(いし)につまずいた……ということは、やはり現実(げんじつ)だったわけか……

(せん)(めん)(じょ)で顔を(あら)ったが、(ゆう)(うつ)な気分は()れなかった。台所でトーストを()いていると、母が洗濯物(せんたくもの)()し終えて、お茶を飲みにやってきた。ふと、ぼくは母にこの話をしてみようと思った。きっと「馬鹿(ばか)なこと言わないでよ。そんなことあるわけないでしょ!」と一緒(いっしょ)(わら)ってくれるにちがいない。

「あのさ、()(なか)に……」

とトーストにバターを()りながら、話を切り出した。

ところが、()(ちゅう)から聞いていた母の顔が青ざめていった。そして、話が終わると、母は(だま)って(ちゃ)(わん)をテーブル()いた。

「あのね。……去年(きょねん)の冬、あの川の上流(じょうりゅう)で女の人が()くなったのよ。事故(じこ)なのか、自殺(じさつ)なのか、わからないみたい……」

「えっ」

かじりかけのトーストが左手から(すべ)()ちた、と同時(どうじ)に、全身(ぜんしん)(こお)ったように冷たくなった。

 

 図書館へ行って、それについて書かれた新聞(しんぶん)記事(きじ)(さが)そうかと思ったが、そんなことをしても何も()わらない……。結局(けっきょく)、本にも映画にも集中(しゅうちゅう)できないまま、夕方、ぶらぶらと(にわ)に出た。

(みち)沿()いにひまわりが()えられていた。母の好きな花だ。夕日(ゆうひ)()びたひまわりはどこか(かな)しげに見えた。自殺(じさつ)ではないにしても、彼女は、いったいどんな気持ちで、暗く冷たい冬の川へ()かったのだろうか。生きることを(むずか)しく考えず、このひまわりのように、ただまっすぐに生きることはできなかったのだろうか。キリギリスのぼくには分からない……

じっとひまわりを(なが)めているうちに、あることを思いついた。家からハサミを取って来て、一番きれいに()いているひまわりの前に立った。——母さんには後で(あやま)ろう。

 ひまわりを手に歩いていく。(ゆう)()(はし)をオレンジ色に()めていた。ぼくは(はし)真ん中まで行くと、川にひまわりを()げ入れた。それから、手を()わせ、彼女のために(いの)った。

 

どうか彼女が、この()とあの()をつなぐ(はし)(わた)()れますように……

 

そうやってぼくは大人の階段(かいだん)を一つ(のぼ)り、やがてキリギリスを卒業(そつぎょう)し、立派(りっぱ)な働きアリに成長(せいちょう)した。

寒い冬でも仕事に出かける。すると、ときどきグレーのコートを着た長い(かみ)女性(じょせい)とすれ(ちが)う。思わず足を止めて、ぱっと()()くと、彼女はちゃんとそこにいる。ぼくはほっと(むね)をなでおろす。けれど、もし、いなくなっていたら……と想像(そうぞう)すると、また背筋(せすじ)(こお)ったように冷たくなる。そして、ぼくはあの夜の赤い橋を思い出すのだ。

 

トウキョウタワー★★★

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