それは夏に起きたことなのに、冬になると思い出す。その一瞬の出来事を忘れることができずに、ぼくはまた後ろを振り返る。
あのとき、ぼくは大学2年生で、夏休みに田舎に帰省すると、母はかわいい息子のためにせっせと世話を焼いてくれた。そのおかげで、ぼくは毎日のんびりと過ごすことができた。いつ寝てもいいし、いつ起きてもいい。本や映画で時間をつぶし、気が向けば、近所の友人を誘って、海や山へドライブに出かけた。ようするに、イソップ寓話のキリギリスみたいな日々を送っていた。
ある蒸し暑い夜のことだ。夕食の後、風呂に入り、くだらないテレビ番組を見てから、床に就いた。
夜中、蚊の鳴き声で目が覚めた。網戸の隙間から入ってきたのだろうか。仕方なく、電気をつけて退治した。
掌には、つぶれた蚊と血の跡が残った。刺されたと思って確かめたが、どこも刺されていなかった。自分のならともかく、他人の血というのは気味が悪い……。ティッシュで拭きとり、電気を消して、また横になった。
長い昼寝をしたせいか、風呂上がりにビールを飲んだせいか、それとも、蚊の呪いのせいか……とにかく眠れない。
ベッドから起き上がり、電気をつけた。時計は2時を回ったところだった。
汗で湿ったTシャツを着替え、台所に行って石鹸で手を洗った。それからコップに水をくんで飲み干すと、遠くからカエルの鳴き声が聞こえてきた。窓をのぞくと、街灯の明かりが輝いていた。ぼくは、その光に引き寄せられ、虫のようにふらふらと玄関に向かい、ドアを開けた。
あたりの家々は、もちろんどこも暗かった。近所にはコンビニはおろか、自動販売機さえない。外に出てみたものの、どこも行く当てなどなかった。——そうだ。子どもの頃によく遊んだ公園がある。あそこに行ってみよう。もしかしたらカブトムシが捕れるかもしれない。ぼくは少年のようにワクワクしながら真夜中の散歩を開始した。
カエルの声と、ペタッ、ペタッというサンダルの音しか聞こえない。けれど、それは公園が近づくにつれて、川の流れる音にかき消された。公園の手前には細い道がある。その道を左へまっすぐ行くと、橋につながる。その鉄の橋は、子どもたちの間では「赤い橋」と呼ばれていた。けど、今ではすっかり色あせ、錆びだらけで、赤というより茶色に近かった。
公園が見えた。手前の道を渡ろうとしたとき、橋の上にひとりの女性がいるのが目に入った。じっと川を見つめている。三十歳くらいで、髪が長く、グレーのコートを着ていた。——こんな時間に何をやっているんだ? と思ったが、それは自分も同じだった。気にせず公園に行こうと目をそらした。けど、次の瞬間、ぼくは奇妙なことに気づき、はっとした。
グレーのコート……コート? 夏なのに⁉
恐る恐る橋の方を振り向くと、女性の姿は消えていた……。心臓がバクバクと音を立てる。長い橋の真ん中には隠れる場所などどこにもない。もしどこかへ走って行ったのなら、絶対に気づいたはずだ。川に飛び込んだか、それとも、ただの見間違いか、どちらかしか考えられない。しかし、そのどちらも正しいとは思えなかった。
——幽霊だ
「う、嘘だろ……」背筋がぶるっと震えた。橋の真ん中まで行って、何が起こったか確かめる勇気などなかった。「逃げろ!」とぼくの中の何かが叫んだ。全速力で家に向かって駆け出した。途中、サンダルが脱げて、転びそうになった。家に着くや否や、部屋に飛び込み、布団をかぶって丸くなった。身体はまだ恐怖でガクガク震えていた。
10時ごろになって、ようやく目が覚めた。意外とぐっすり眠れたので、夜中に起きたことはすべて夢のように思えた。けど、立ち上がると足の小指がずきっと痛んだ。そういえば、サンダルが脱げたとき、石につまずいた……ということは、やはり現実だったわけか……
洗面所で顔を洗ったが、憂鬱な気分は晴れなかった。台所でトーストを焼いていると、母が洗濯物を干し終えて、お茶を飲みにやってきた。ふと、ぼくは母にこの話をしてみようと思った。きっと「馬鹿なこと言わないでよ。そんなことあるわけないでしょ!」と一緒に笑ってくれるにちがいない。
「あのさ、夜中に……」
とトーストにバターを塗りながら、話を切り出した。
ところが、途中から聞いていた母の顔が青ざめていった。そして、話が終わると、母は黙って茶碗をテーブルに置いた。
「あのね。……去年の冬、あの川の上流で女の人が亡くなったのよ。事故なのか、自殺なのか、わからないみたい……」
「えっ」
かじりかけのトーストが左手から滑り落ちた、と同時に、全身が凍ったように冷たくなった。
図書館へ行って、それについて書かれた新聞記事を探そうかと思ったが、そんなことをしても何も変わらない……。結局、本にも映画にも集中できないまま、夕方、ぶらぶらと庭に出た。
道沿いにひまわりが植えられていた。母の好きな花だ。夕日を浴びたひまわりはどこか悲しげに見えた。自殺ではないにしても、彼女は、いったいどんな気持ちで、暗く冷たい冬の川へ向かったのだろうか。生きることを難しく考えず、このひまわりのように、ただまっすぐに生きることはできなかったのだろうか。キリギリスのぼくには分からない……
じっとひまわりを眺めているうちに、あることを思いついた。家からハサミを取って来て、一番きれいに咲いているひまわりの前に立った。——母さんには後で謝ろう。
ひまわりを手に歩いていく。夕焼けが橋をオレンジ色に染めていた。ぼくは橋の真ん中まで行くと、川にひまわりを投げ入れた。それから、手を合わせ、彼女のために祈った。
どうか彼女が、この世とあの世をつなぐ橋を渡り切れますように……
そうやってぼくは大人の階段を一つ上り、やがてキリギリスを卒業し、立派な働きアリに成長した。
寒い冬でも仕事に出かける。すると、ときどきグレーのコートを着た長い髪の女性とすれ違う。思わず足を止めて、ぱっと振り向くと、彼女はちゃんとそこにいる。ぼくはほっと胸をなでおろす。けれど、もし、いなくなっていたら……と想像すると、また背筋が凍ったように冷たくなる。そして、ぼくはあの夜の赤い橋を思い出すのだ。