Thursday, August 12, 2021

死神(しにがみ)★★★★

 ()(なか)にはありがたい神様(かみさま)がたくさんおりますが、(なか)にはありがたくない神様(かみさま)というのもおります。(たと)えば、「貧乏(びんぼう)(がみ)」に()かれると、家が貧乏(びんぼう)になってしまいます。「(やく)(びょう)(がみ)」に()かれると、その家の人々(ひとびと)病気(びょうき)になったり、家の中で()くないことが()きたりします。それから、「死神(しにがみ)」という(おそ)ろしい神様(かみさま)がおりまして……

 

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「ただいま……」

「おかえり。金はできたかい?」

「だめだ。どこも()してくれねえ」

「できなかったの!? ほんの少しのお金も()りられないで、あきらめて(かえ)ってきたのかい」

「だって、みんな『金がない』って言うんだから、しょうがないだろ」

「それは『あなたに()す金はない』って意味(いみ)よ。ないわけないでしょ。もうやだ! あんたなんか(とう)()(かど)(あたま)をぶつけて()んだらいい!」

(とう)()(かど)(あたま)ぶつけて()ねるか」

「あんたなら()ねるわよ。もういい。()てけ!」

 男は(つま)に家を()()されてしまった。

 

「ああ、あんな(つよ)い女はいないね。『(とう)()(かど)(あたま)をぶつけて()ね』だって。家にいれば金がないってギャーギャー言われるし、どこに行っても金は()してくれないし、もう生きてるのが(いや)になっちゃった……()のう」

ぶつぶつ言いながら(ある)いていると、男はいつの()にか(はし)の上までやってきた。

「川に()()むのは(いや)だなぁ。おれは(およ)げねえんだ。七つの時に井戸(いど)()ちたことがあるが、あんな(くる)しい思いは二()としたくねえ。生きてるほうがまだいいや……どうしようかなあ」

それからまた少し(ある)くと、(ふる)い大きな木があった。

「大きな木だねえ……そうだ。この木の(えだ)(くび)()って()のう。けど、(くび)()るのは(はじ)めてだ。どうやるんだ?」

(おし)えてやろうか」

「えっ……だれだ!?」

(おれ)だよ」

 木の(かげ)から、やせた老人(ろうじん)がすっと(あらわ)れた。(あたま)には(うす)い白い()がぼやっと()え、灰色(はいいろ)着物(きもの)()て、(わら)草履(ぞうり)をはき、(たけ)(つえ)()いていた。

(おし)えてやろう」

「だれだよ! おまえは……」

死神(しにがみ)だよ」

「し、死神(しにがみ)……ああ、(いや)だ。おれは今まで()のうなんて思ったこと()もなかったんだ。それなのに、(きゅう)()にたくなったんだ。おまえのせいだな。あっち行け!」

「ヘッヘヘ、そう言うな。おまえと(おれ)とは(むかし)からの(ふか)いつながりがあるんだ。そんなこと言っても、おまえにはわからないだろうが……。おまえにはまだ寿(じゅ)(みょう)(のこ)ってる。そういう(にん)(げん)()のうとしても()ねないようになってるんだ。それよりいい(はなし)がある……」

(いや)だよ! 死神(しにがみ)(はな)すことなんか何もねえよ」

 男はその()から()()ろうとした。

「おい、()ちな。()げようとしたって無駄(むだ)だ。おまえは(あし)(ある)いて()げるが、(おれ)(かぜ)()って()べるんだ。まあ、(こわ)がるな。ずいぶん(こま)っているようじゃないか。(おれ)がいい仕事(しごと)世話(せわ)してやるよ」

「え、仕事(しごと)?」

「ああ……おまえ、医者(いしゃ)になれ」

医者(いしゃ)!? おれは病気(びょうき)(なお)(かた)(くすり)(つく)(かた)()らねえし、医者(いしゃ)なんて無理(むり)だよ」

「そんなのはどうでもいいんだ。(おれ)がやり(かた)(おし)えてやる。いいか。長い(あいだ)寝込(ねこ)んでいる病人(びょうにん)には死神(しにがみ)()いているんだ。枕元(まくらもと)足元(あしもと)のどっちかに死神(しにがみ)(かなら)ずいる。(あたま)(ほう)死神(しにがみ)(すわ)ってる()(あい)はもうダメだ。寿命(じゅみょう)が終わってるんだから、絶対(ぜったい)に手をつけちゃいけない。(ぎゃく)に、死神(しにがみ)足元(あしもと)(すわ)っている()(あい)はまだ()きられる。呪文(じゅもん)(とな)えると、死神(しにがみ)()えて、(びょう)(にん)はあっという()に元気になる」

「わ、わかったよ。その呪文(じゅもん)ってのは何だ?」

「いいか。(けっ)して人に言うなよ。『アジャラカモクレン、テケレッツノパ』と(とな)えて、ポンポンと手を二つ(たた)くんだ。こうされると、死神(しにがみ)はどうしても(かえ)らなきゃいけない()まりがあるんだ」

「ふーん、『アジャラカモクレン、テケレッツノパ』で、手をポンポン。これでいいのかい? 死神(しにがみ)さん? あれ、どこ行った? あ、そうか。呪文(じゅもん)(とな)えたから(かえ)ったのか。これはいいことを(おし)えてもらった」

 

 男は家に(かえ)ると、昨日食べたカマボコの(いた)に下手な()で「医者(いしゃ)」と書いた。そして、(おもて)に出ると、外からよく見えるところにそれをかけた。すると、すぐに人が(たず)ねてきた。

「ごめんください」

「はい、何か(よう)ですか?」

「こちらはお医者(いしゃ)(さま)でいらっしゃいますか?」

「はい、わたしが医者(いしゃ)ですけど、何でしょう?」

「先生でしたか。失礼(しつれい)しました。私は日本橋(にほんばし)越前屋(えちぜんや)使用人(しようにん)でございます。(じつ)は、主人(しゅじん)(おも)病気(びょうき)にかかっておりまして、いろいろな先生に()ていただいたんですが、なかなか()くならないのです。(さき)ほど、この家の前を(とお)った(さい)に「医者(いしゃ)」という()が目に入りましたもので、こちらへ(うかが)った()(だい)です。ぜひ先生に一()()ていただくことはできませんでしょうか」

「なるほど。いいですよ。じゃあ、行きましょう」

(へん)医者(いしゃ)だと思ったが、使()(よう)(にん)は男を(みせ)()れて行った。使用人(しようにん)番頭(ばんとう)に話をすると、番頭(ばんとう)は「まあ、()せるだけなら()(ちが)いもないだろう」と男を主人(しゅじん)部屋(へや)まで案内(あんない)した。

部屋(へや)に入ってみると、死神(しにがみ)病人(びょうにん)足元(あしもと)の方に(すわ)っていた。

「おっ、これはご主人(しゅじん)(なお)りますね」

本当(ほんとう)ですか!? しかし、どの先生も(むずか)しいと…」

(なお)ります。……ところで、(なお)したら、お(れい)はいただけますよね?」

「それは、もちろん」

「そうですか。ちょっとお()ちください」

 男はそう言うと、死神(しにがみ)を見て、

「アジャラカモクレン、テケレッツノパー」

(とな)えて手をパンパンと二()()った。すると、死神(しにがみ)がすっといなくなった。()(さお)だった病人(びょうにん)顔色(かおいろ)()わり、ぱっと()()がると、

「おい、お(ちゃ)一杯(いっぱい)()ってきてくれ。なんだか(あたま)から(くも)がすっと()れたようだ。(ひさ)しぶりに気分(きぶん)がいい。……(はら)()ったなあ。何か食べるものはないか?」

と言ったので、みんな(おどろ)いた。

越前屋(えちぜんや)主人(しゅじん)はすっかり元気になって、男はたっぷりお(れい)をもらった。すると、あっちこっちで「あの先生はすばらしい医者(いしゃ)だ」と言われるようになり、次々(つぎつぎ)(たす)けてほしいと人がやってきた。しかも、都合(つごう)がいいことにみんな足元(あしもと)死神(しにがみ)がいた。呪文(じゅもん)(とな)えて手を()つだけで、死神(しにがみ)はすっと()えていく。病人(びょうにん)はすぐに元気になる。

 貧乏(びんぼう)()らしをしていた男が、立派(りっぱ)な家を()て、いい着物(きもの)()て、うまいものを()う。外に女をつくって家に(かえ)らなくなる。それに(もん)()を言う(つま)に金と子どもを(わた)して(わか)れてしまう。

「ねえ、先生……」

「何だい?」

「わたしねえ、一()関西(かんさい)の方に旅行(りょこう)に行ってみたいなあって思ってるの」

関西(かんさい)かあ。いいねえ、おれも行きたいと思ってたんだ。よし、じゃあ、行こう。……そうだ。留守(るす)にするのは面倒(めんどう)だから、家も()ろう」

そして、男は女を()れて関西(かんさい)へ。あっちこっちで贅沢(ぜいたく)をして毎日(たの)しく()ごしていたが、金というのは使(つか)えばなくなってしまうもの。金がなくなれば、女もすっといなくなる。仕方(しかた)がないと男は一人で江戸(えど)(もど)って、(のこ)りの金で家を買った。医者(いしゃ)仕事(しごと)(はじ)めれば、また(もう)かるに(ちが)いないと思っていた。ところが、どうしたことか病人(びょうにん)が来ない。たまに(こえ)がかかって行ってみると、みんな枕元(まくらもと)死神(しにがみ)(すわ)っている。

 

 しばらくすると、麹町(こうじまち)三丁目(さんちょうめ)伊勢谷伝右衛門(いせやでんえもん)という(かね)()ちの使用人(しようにん)がやってきた。主人(しゅじん)()てほしいと言うので、「よし、きた!」と行ってみると、死神(しにがみ)枕元(まくらもと)(すわ)っていた。

「あぁ、これはだめだ。この病人(びょうにん)(たす)からないね。(あきら)めなさい」

「そこを何とか一つ、先生、お(ねが)いします」

番頭(ばんとう)(あたま)を下げた。

「お(ねが)いされても、(なお)らないものはしょうがないよ」

「お(れい)は三千(りょう)でいかがでしょうか」

「お金をもらっても(たす)からないものはしょうがないんだよ。寿命(じゅみょう)だ。(あきら)めてくれ」

「それでは、二、三カ月でも寿命(じゅみょう)()ばしていただけたなら、一万(りょう)のお(れい)をいたします」

「えっ!? 一万(りょう)? うーん、そうなると何とか(たす)けたいけど……

 男はしばらく(かんが)えた。そして、あることを思いついた。

番頭(ばんとう)耳元(みみもと)()(ごえ)で言った。

「いいかい。気が()いて力のある(わか)い男を四人そろえてくれ。その四人を病人(びょうにん)()ている布団(ふとん)四隅(よすみ)に一人ずつ(すわ)らせておくんだ。それで、わたしがポンと(ひざ)(たた)いたら、いっせいに布団(ふとん)()ち上げて、くるっと(まわ)すんだ。病人(びょうにん)(あし)(あたま)場所(ばしょ)()()えてほしいんだよ。それができれば、ご主人(しゅじん)(たす)かるかもしれない。ただし、一回(いっかい)きりの勝負(しょうぶ)だ。失敗(しっぱい)したら、それまでだ」

 番頭(ばんとう)はそれで病気(びょうき)(なお)るならと、言われたとおりに四人の男を()れてきて、病人(びょうにん)布団(ふとん)()(すみ)(すわ)らせた。

 ()()けて(くら)くなると、死神(しにがみ)の目がギラギラ(かがや)いてくる。病人(びょうにん)が「うーん、うーん……」と(くる)しんだ。ところが、()(あか)けてくると、死神(しにがみ)(つか)れてきたのか、こっくりこっくり()(ねむ)(はじ)めた。

 それを見て、男は四隅(よすみ)にいる四人に目で合図(あいず)をして、「ここだ!」と思うところでポンと(ひざ)()った。()(たん)布団(ふとん)がくるっと(まわ)って(じょう)()()()わる。

「アジャラカモクレン、テケレッツノパー」

早口(はやくち)(とな)えて、手を二(かい)パンパンと()った。

 死神(しにがみ)は「うわーっ!」と()()って(おどろ)いた。そして、そのまま()てしまった。

「もう大丈夫だ……」

病人(びょうにん)はたちまち具合(ぐあい)()くなり、「ありがとうございました」と金が(とど)いた。

 

 男はもらった金で(さけ)を飲み、いい気分(きぶん)夜道(よみち)(ある)いていた。

「ああ、やっぱり人間(にんげん)ってものは(こま)った時にこそいい知恵(ちえ)()るもんだねぇ。それにしても、あの死神(しにがみ)(おどろ)いた(かお)と言ったら……はっははは……」

 (うし)ろから(ひく)(こえ)()こえた。

「なぜあんなバカなことをした」

()()くと、そこにはあの死神(しにがみ)がいた。

「お、おぉ、死神(しにがみ)さん、どうもお(ひさ)しぶりです」

「何が(ひさ)しぶりだ。まさかおまえ、(おれ)のことを(わす)れてはいないだろうな」

「ええ、もちろん(わす)れたりしませんよ。最初(さいしょ)に会った死神(しにがみ)さんですよね? あんたのおかげで、ずいぶん(もう)かりました」

「そうか、ちゃんと(おぼ)えていたか。それなのにあんなバカなことをやるなんて……」

 どうもさっきあそこにいたのは、このじいさんの死神(しにがみ)だったらしい。ところが、死神(しにがみ)というのはみんな(おな)姿(すがた)をしているから、男もそうだとは気付(きづ)かなかった。

「えっ、それじゃ、さっきあそこにいたのは、あんただったんですか? それは(もう)(わけ)ないことをしました。まさかあんただとは思いませんでした。じゃ、わたしがもらった金を半分(はんぶん)あんたにあげるから、それで(ゆる)してください」

「何言ってるんだ……まあ、やってしまったことは仕方(しかた)がない。(おれ)といっしょに来い」

「こ、来いって、どこへ行くんですか?」

 死神(しにがみ)(たけ)(つえ)()(めん)()くと、そこにぽっかり大きな(あな)()いた。(あな)の中には下へ()かう(かい)(だん)(つづ)いていた。

「さあ、ここを()りろ」

(いや)だよ。こんな()()(わる)いところへ()りるなんて……ねえ、(ゆる)してくださいよ。あんたとは()らずにやったことなんだからさ」

「いいから()りろ!」

()りろって……中は()(くら)じゃねえか」

大丈夫(だいじょうぶ)だ。(おれ)(つえ)につかまれ。()りて来い」

「え、(つえ)に? ちょ、ちょっと()って……そんなに()っぱったら(あぶ)ない、(あぶ)ないよ!」

(はや)()りろ」

階段(かいだん)()りていくと、ぱっと(あか)るくなった。(ひろ)部屋(へや)にたくさんのロウソクが(なら)んでいた。

「ずいぶんたくさんロウソクがあるんですねえ。何ですか、これは?」

「このロウソクは人の寿命(じゅみょう)だ」

「はあ~、(むかし)から、人の寿命(じゅみょう)はロウソクの火みたいだって言いますが、ずいぶんたくさんあるものですね。長いのや(みじか)いのやいろいろなのが……、あ、ここにロウがたまって(くら)くなっているのがありますね」

「そういうのは病気(びょうき)になっているんだ。ロウを()(のぞ)いて、火がまっすぐに立てば病気(びょうき)(なお)る」

「ふーん、そうですか。お、ここにずいぶん長くて(あか)るく()えてるのがありますね」

「それはおまえの息子(むすこ)だ」

「へえー、息子(むすこ)ですか。あいつはずいぶん(なが)()きするんですね。そのとなりの半分(はんぶん)ぐらいでよく()えてるのは?」

「おまえの(もと)(おく)さんだよ」

「ああ、あいつですか。やっぱりあいつも(なが)()きなんですねえ。ここにずいぶん(みじか)くなって今にも()えそうなのがありますが……」

「おまえだ」

「え?」

「それがおまえの寿命(じゅみょう)だよ」

「い、今にも()えそうじゃねえか!」

()えそうだね。()えた途端(とたん)(いのち)はなくなる。もうすぐ()ぬよ」

「う、(うそ)だ! だって、あんた、(はじ)めて会った時に『おまえにはまだ寿命(じゅみょう)がある』って言ったじゃねえか! あれは(うそ)か!?」

(うそ)じゃない。おまえの本来(ほんらい)寿命(じゅみょう)はあのロウソクだ。あの半分(はんぶん)より長く(あか)るく()えているのが、おまえの寿命(じゅみょう)だ。それなのに、おまえは金のために寿命(じゅみょう)()()えたんだ」

「そ、そんな……」

「フッフフ。おまえはもうすぐ()ぬよ」

(いや)だ! なあ、(たす)けてくれよ。寿命(じゅみょう)(もと)(もど)してくれよ」

「もうダメだ」

「そんなこと言わないでさ。なあ、(たの)むよ、死神(しにがみ)さん、死神(しにがみ)(さま)!」

「ダメだ。一()()()えたものは二()(もと)(もど)せない。(あきら)めろ」

(たの)む。もう一()だけ!」

 そう言うと、男は死神(しにがみ)()かって手を()わせた。

 死神(しにがみ)(あき)れたような(かお)をして、足元(あしもと)(ころ)がっているロウソクを(ひろ)い上げた。

「しょうがない男だ。ほら、ここに半分(はんぶん)ぐらいのロウソクがある。()(ちゅう)()えてしまったロウソクだが、これにその(みじか)いロウソクの火をうつしてみろ。うまく火がつけば、おまえの(いのち)(たす)かる」

「ありがとう……ありがとう…」

男は死神(しにがみ)からロウソクを()()ると、()えかけのロウソクを手に()ろうとした。だが、(みじか)くてなかなか()れない。

(はや)くしないと()えるよ」

(はや)くしろって……おまえ…」

「どうした、手が(ふる)えてるぞ。(ふる)えると()えるよ」

「そ、そんなこと言ったって、身体(からだ)勝手(かって)(ふる)えるんだからしょうがないだろ」

(はや)くしな。(はや)くしないと()えるよ」

(だま)っててくれよ」

「ほら、今にも()えそうだ。フフフ、(はや)くしな。()ぬよ」

「う、うるさい。(だま)ってろ!」

「ほら、(はや)く。(はや)くしないと()えるよ。()えると(いのち)はないよ。ヒッヒヒヒ……」

「やめてくれ! つけ! つけ! つけよ!」

()えるよ。()えるよ。()えると()ぬよ。()ぬよ。クッククク……」

「あ、あああぁ、()える、()え……

「ほら、()えた」

(完)

   

Wednesday, April 28, 2021

幽霊床屋2(ゆうれいとこや2)★★★★

  2021320日、ようゆうがたしんきた。10ねんまえしんおもさせるつよれだった。わたしはそのときみせにいた。うりあげけいさんかたけもわり、これからうちへかえるところだった。

()れが(おさ)まると、すぐに()(たく)(でん)()をかけた。

「もしもし、(だい)(じょう)()だった? (ゆい)()は?」

「ああ、(だい)(じょう)()だよ。(ゆい)()もびっくりしたみたいだけど、(いま)(へい)()(れい)()はまだ(みせ)?」

「うん。でも、もう()るよ。(みせ)(なか)はめちゃくちゃだけど、(かた)()けは明日(あした)にする」

「わかった。()()けて、(かえ)ってきて」

 (おっと)(こえ)()いて、ほっとした。この10(ねん)(わたし)には(たい)(せつ)なものが(ふた)つできた。(ひと)つが5(ねん)(まえ)(ひら)いたこの(とこ)()(ゆう)」。もう(ひと)つが()(ぶん)()(ぞく)だ。(おっと)とは4(ねん)(まえ)()()い、(つぎ)(とし)(けっ)(こん)した。そして一昨年(おととし)(むすめ)()まれた。(ゆい)()という()(まえ)()けた。1(さい)になってからは、(へい)(じつ)()(いく)(えん)(あず)け、()(にち)(おっと)(ちか)くに()んでいる(おっと)(りょう)(しん)(めん)(どう)()てもらっている。

 (でん)()()ると、(いそ)いで()(たく)()かった。()()だとわかっていても、(はや)()(ぞく)()いたい。(ゆい)()をぎゅっと()きしめたい。

 

 (よく)(じつ)()(あん)だったが、(みせ)はいつも(どお)()けることにした。()(やく)もたくさん(はい)っているし、まず(みせ)(かた)()けなければならない。いつもより(はや)()きて(いえ)()た。だが、(おも)っていたほど(こわ)れたり()れたりしたものは(すく)なく、(かた)()けは30(ぷん)ほどですんだ。

 (かい)(てん)()(かん)になると(つぎ)(つぎ)とお(きゃく)さんがやってきた。(みせ)()(ごと)はすべて一人(ひとり)でこなしているので、()(にち)はとても(いそが)しい。まだ34(さい)(たい)(りょく)もあるから(だい)(じょう)()だが、(しょう)(らい)はだれか(やと)おうかと(かんが)(はじ)めている。

 10()()ぎに(でん)()()て、(ゆう)(がた)()(やく)が1(けん)キャンセルになった。昨日(きのう)()(しん)(しん)(かん)(せん)()まり、(とう)(きょう)から(もど)れなくなった(ひと)がいたため、()わりに()(ごと)()なければならなくなったそうだ。(こん)(かい)()(しん)()くなったりした(ひと)はほとんどいないようだが、いろいろなところに(えい)(きょう)()ている。(さき)ほどの(じょ)(せい)(きゃく)は、(きゅう)(しょく)センターの(れい)(ぞう)()()(しん)(こわ)れたせいで、明日(あした)から(まい)(あさ)()どものお(べん)(とう)(づく)りだと()っていた。

キャンセルしたのは今日(きょう)(さい)()のお(きゃく)さんだったので、(はや)めに(みせ)()めようかと(おも)った。売上(うりあげ)(たい)(せつ)だが、たまにはゆっくり()(ぞく)()ごしたい。

 ところが、(ゆう)(がた)()(やく)なしのお(きゃく)さんが(みせ)()てしまった。小畑(おばた)のおじいちゃんだ。

「あら、小畑(おばた)さん。ひさしぶり。こんな()(かん)()るなんてめずらしいですね」

「ああ、ちょっとね。()(やく)していないけど、大丈夫(だいじょうぶ)かい?」

「ええ。大丈夫(だいじょうぶ)です。どうぞ」

 小畑(おばた)さんなら、カットとシャンプーだけだから、そんなに()(かん)はかからない。だが、わりとおしゃべり()きなのでたまに(なが)()くこともある。

これ()(じょう)(きゃく)()ると(こま)るので、()(ばや)(そと)()てドアにかけてある「(えい)(ぎょう)(ちゅう)」の(ふだ)を「(じゅん)()(ちゅう)」にひっくり(かえ)した。

「はい、じゃあ、こちらにマスクを()れてくだ……。あれ? 小畑(おばた)さん。マスクしてないじゃないですか。だめですよ」

「ああ、ごめんごめん。ついうっかりしてた」

「もう()()けてくださいね。あとで、マスクあげますから」

 ()(だん)しっかりしている小畑(おばた)さんにしてはめずらしいことだと(おも)った。

小畑(おばた)さんは(のう)()だった。(おく)さんと二人(ふたり)でお(こめ)()(さい)(つく)っていた。()どもはいなかったが、(ふう)()二人(ふたり)(しあわ)せに()らしていた。だが、(いえ)があったのは(うみ)(ちか)くだった。10(ねん)(まえ)()(なみ)(いえ)()んぼを(うしな)った。そして、7(ねん)(まえ)、この(やなぎ)()(した)(まち)()てられた(ふっ)(こう)(だん)()()()してきた。3年前(ねんまえ)(おく)さんを()くした。それからずっと(ひと)()らしだが、いつもきちんとした(かっ)(こう)をしているし、80(さい)()ぎた(いま)でも(けん)(こう)で、(あし)(こし)もしっかりしている。(かみ)(しろ)いが、(りょう)(おお)いほうだ。

「いつもどおりで、いいですか?」

「うん。いつもどおりで」

 タオルとケープを(くび)()くと、いつものようにハサミを(うご)かしていく。(はや)(かえ)りたいけど、(いそ)ぐわけにはいかない。(きゃく)(はなし)()くのも(とこ)()()(ごと)だ。お(きゃく)さんには(かみ)(がた)だけじゃなく、(こころ)もすっきりして(かえ)って()ってほしい。

小畑(おばた)さんのように()(しん)()(なみ)()(がい)()けて(ふっ)(こう)(だん)()(うつ)ってきた(ひと)は、ここでつらい経験(けいけん)(かた)っていくことがある。けど、小畑(おばた)さんはいつも(まえ)()きで、()(なみ)(いえ)()んぼを(うしな)っても、「うちには(あと)()いでくれる()どももいないし、これでよかった。()()()()ってくれて、(たす)ったよ」と(はな)す。(おく)さんが()くなったときも、「もしおれが(さき)()んでしまったら、あいつは一人(ひとり)になってさびしがるから。(さき)()ってくれて、()っててくれているって(おも)ったほうが()(らく)でいい。おれはひとりで大丈夫(だいじょうぶ)だから」と()っていた。(つよ)(ひと)だと(おも)った。

でも、今日(きょう)小畑(おばた)さんは、(ぜん)(ぜん)(くち)(ひら)かない。どこか()(だん)(よう)()(ちが)う。(すこ)(なに)(はな)しかけてみよう。

今年(ことし)(あたた)かいから、(さくら)()くのは(はや)いみたいですね。チューリップも順調(じゅんちょう)ですか?」

「あ、うん、そうだね。(にゅう)(がく)(しき)までには()くんじゃないかなあ」

「わあ、(たの)しみ。今年(ことし)(ゆき)もたくさん()ったし、(つち)(なか)のチューリップの(きゅう)(こん)大丈夫(だいじょうぶ)かなって心配(しんぱい)してたんです」

「いやいや、そうじゃない。チューリップの(きゅう)(こん)には(ふゆ)(さむ)さが(ひつ)(よう)なんだ。(あたた)かいと、ちゃんと(そだ)たなかったり、(はな)がきれいに()かなかったりするんだよ」

「へえー、そうなんですか」

「そう。それから(ふゆ)でもしっかり(みず)をあげること。(つち)(なか)()(がい)(かん)(そう)しているからね。人間(にんげん)(おな)じさ」

小畑(おばた)さんが()んでいる(ふっ)(こう)(だん)()には(おお)きな(にわ)がある。小畑(おばた)さんはそこに()(だん)(つく)り、いろいろな(はな)(そだ)てていた。小畑(おばた)さんはまるで(まご)のことを(はな)すようにうれしそうに(はな)について(かた)っていく。それで、こちらも()(ぜん)(おぼ)えてしまった。たとえば、チューリップは(あき)球根(きゅうこん)()え、(はる)(はな)()かせるそうだ。()えてから()くまでにそんなに()(かん)がかかるとは(おも)わなかった。

こういう(はなし)をすると、小畑(おばた)さんはいつも(かなら)ず「(なが)(あいだ)(のう)(ぎょう)をしてたから、(いま)でも(まい)(にち)(つち)()れていないと()()かないんだ」と()う。しかし、今日(きょう)はそこで(かい)()()わってしまった。(なに)(なや)みでもあるのだろうか。一人(ひとり)()()をこなし、(さけ)もたばこもやらない。そのうえ、このコロナ()だ。ストレスがたまっているのかもしれない……

 カットが()わり、シャンプーと(かお)()りの(あと)、マッサージをしながら、ふと()いてみた。

昨日(きのう)()(しん)(たい)(へん)でしたね」

「えっ、()(しん)?」

 小畑(おばた)さんは(おど)いた(かお)をしている。

「ああ、()ていたから()づかなかったよ。ははは」

(うそ)だ。あれだけ(おお)きな()(しん)だ。()ていたとしても()づかないわけがない。どこへ()っていたのだろう?

「ねえ、小畑(おばた)さん。なんか今日(きょう)(げん)()がないようですが、(なに)かあったんですか? (わたし)でよければ()きますよ」

「ああ。……(じつ)は、(さい)(きん)、……()きる()()って(なん)だろうって(かんが)えているんだよ」

()きる()()ですか……」

震災(しんさい)のあと、毎年(まいとし)3(がつ)になると、(いえ)があったところに一人(ひとり)()ってみるんだ。バスと(でん)(しゃ)(ちか)くの(えき)まで()って、そこからタクシーに(たの)んで、そのあたりをぐるっと(まわ)ってもらうんだ。ちょっと()(ちゅう)(くるま)()めてもらったりして。(いち)(ねん)()()(ねん)()は、()(ぜん)(おも)(かげ)があちこちに(のこ)っていたからよかったよ。(むね)(いた)むが、『()(ぶん)はここで()まれて、ここに()んでいた』って(おも)えたからね。でも、(ねん)(ねん)、その(おも)(かげ)()えていって、()らない()()()わっていくんだ。()わらないのは、(うみ)だけさ……」

 (かがみ)(うつ)小畑(おばた)さんの(かお)には(かな)しみがあふれていた。

「それでも、あそこに()けば、(なに)(たい)(せつ)なものを(おも)()せるんじゃないかって毎年(まいとし)(かよ)ってたんだ。けど、去年(きょねん)今年(ことし)もコロナ()()けなかった。こんな(とし)()りが(でん)(しゃ)やバスに()って()かけたら、それこそ()(けん)(さま)(めい)(わく)がかかるからね。そうしている(あいだ)に、もう(じゅう)(ねん)だ……。(けっ)(きょく)、あそこに()ったところで、もう(なに)大切(たいせつ)なものなんか()つからないのさ。……おれの人生(じんせい)、いったい(なん)だったんだろう? ただ()まれて()んでいくだけなら、()まれた()()なんかないじゃないか。それなら、もう……()わりにしたい……あいつのいるところへ()きたい……って……(おも)ったんだ……」

 そこで不思議(ふしぎ)なことが()きた。小畑(おばた)さんの身体(からだ)がだんだん透明(とうめい)になっていくのだ。そして、ついに()えてしまった。

 どこかでそんな()がしていた。5年前(ねんまえ)の3月10日、(よる)にひとりの(じょ)(せい)(かみ)()りに(みせ)()た。()(なみ)()くなった(ゆう)(れい)だった。息子(むすこ)(しょう)(がっ)(こう)(そつ)(ぎょう)(しき)()るためにあの()からやってきたのだ。今日(きょう)小畑(おばた)さんは、その(じょ)(せい)とどこか()ている(かん)じがあった。ただ、その女性(じょせい)(はだ)(こおり)のように(つめ)たかったが、小畑(おばた)さんの(はだ)はそれほどでもなかった。そこで、はっとして(ちょう)(ない)(かい)(かい)(ちょう)さんに(でん)()をかけた。

(かい)(ちょう)さん、(ふっ)(こう)(だん)()(かん)()(にん)さんの(でん)()(ばん)(ごう)(おし)えていただけませんか。(いそ)いでいるんです!」

 (かい)(ちょう)さんから()いた(ばん)(ごう)(でん)()をかけると、すぐに(かん)()(にん)さんが()た。小畑(おばた)さんのことをたずねると、(おも)った(とお)りだった。()(たく)(でん)()をかけ、(おっと)に「ごめん! (きゅう)(よう)()ができたの。(かえ)(おそ)なる」と(つた)えると、(いそ)いで病院(びょういん)()かった。

 

 (びょう)(いん)()いて、(かん)()(にん)さんに(おし)えてもらった(びょう)(しつ)()こうとすると、(ろう)()(かん)()()()められた。

「ご()(ぞく)()(がい)(めん)(かい)できないことになっているんです」

(めい)です。(むかし)、すごく()()になっていたんです。(さい)()になるかもしれないなら、(ひと)()でいいから()わせてください! お(ねが)いします!」

 (ひっ)()(たの)むと、(こま)った(かお)をしながら、()()(とお)してくれた。(じん)(こう)()(きゅう)()()けた小畑(おばた)さんがベッドに(よこ)たわっていた。

(かん)()(にん)さんの(はなし)によると、昨日(きのう)小畑(おばた)さんは()()(すい)(みん)(やく)(たい)(りょう)()んで()(さつ)しようとしたらしい。しかし、そのあと、()(しん)()きた。()れがおさまったあと、(かん)()(にん)さんが(たず)ねてきた。(じゅう)(にん)()()かどうか確認(かくにん)するためだ。そこで、(たお)れている小畑(おばた)さんを(はっ)(けん)した。すぐに(きゅう)(きゅう)(しゃ)()んで(びょう)(いん)()(りょう)()けた。だが、まだ()(しき)(もど)らず、いつ()くなってもおかしくない(じょう)(たい)だという。

ベッドの(よこ)から(ねむ)ったままの小畑(おばた)さんに(はな)しかけた。

小畑(おばた)さん、()こえますか。()いに()ましたよ。(とこ)()()()です」

 ()(ばた)さんの(ひだり)()()(ぶん)()(かさ)ねた。

小畑(おばた)さん、ひとりでさびしかったんですね。だから、わざわざ(みせ)まで()いに()てくれたんでしょう? (わたし)、さっき小畑(おばた)さんが()ってたこと、まだちゃんとわかっていないかもしれないけど、こう(おも)うんです。(わたし)()(ごと)はお(きゃく)さんの(かみ)()ることで、(いま)までたくさんのお(きゃく)さんの(かみ)()ってきました。でも、どんなに上手(じょうず)()っても、(かみ)()びるからまた()らなきゃいけなくて、(けっ)(きょく)いつまでたっても(かん)(せい)しない()(ごと)なんです。けど、ちゃんと()れば、お(きゃく)さんは(よろこ)んでくれます。その(よろこ)びは(いっ)(しゅん)かもしれないけど、きっとだれかにつながっていくと(おも)うんです。そのお(きゃく)さんがまた(みせ)()てくれれば、(わたし)もうれしくなります。それに、(かみ)()って、だれかに()められたりしたら、その(ひと)(なに)かしてあげたくなるじゃないですか。そうやって(よろこ)びはずっと(つづ)いていくと(おも)うんです」

 ()()くと、(なみだ)がこぼれそうになっていた。

「それと(おな)じで、小畑(おばた)さんが(そだ)てたお(こめ)()(さい)をおいしいって()べてくれた(ひと)は、きっとまた(べつ)のだれかを(ちが)(かたち)(よろこ)ばせているはずです。それに、(いま)でも小畑(おばた)さんの(そだ)てた(はな)()るのを(たの)しみにしている(ひと)がたくさんいますよ。だから……だから、絶対(ぜったい)小畑(おばた)さんの人生(じんせい)意味(いみ)がないなんてことありません! ……(わたし)小畑(おばた)さんに()えてよかったです」

 そのとき、小畑(おばた)さんの()がぴくっと(うご)いた。

小畑(おばた)さん」

 かすかに()()いた。(なに)()おうとしている。ゆっくりと(くち)(うご)く。(こえ)はほとんど()こえない。けど、(くち)(うご)きでわかった。

―ありがとう―

うんうんと(おお)きくうなずいてみせる。小畑(おばた)さんの(ほほ)がほんの(すこ)()がった。ほほえんでいるのだ。だんだんまぶたが()がってきた。()(きゅう)(すこ)しずつ(よわ)くなっていく。(いき)()きとる(しゅん)(かん)小畑(おばた)さんの(からだ)から(なに)かが()けていくのがわかった。

 

 4(がつ)()今日(きょう)近所(きんじょ)小学校(しょうがっこう)入学式(にゅうがくしき)だ。通勤(つうきん)途中(とちゅう)(あし)()め、(ふっ)(こう)(だん)()()(だん)(まえ)でチューリップを(なが)めていた。すると、(うし)ろから()(てん)(しゃ)のブレーキの(おと)()こえた。

「おはようございます! ゆうれいさん!」

 (とこ)()の「(ゆう)」の「(れい)()さん」だから、「ゆうれいさん」だそうだ。(わたし)のことをこう()ぶのは(いま)一人(ひとり)しかない。

大希(ひろき)くん、おはよう。今日(きょう)から(がっ)(こう)?」

「はい、と()っても、(はる)(やす)(まい)(にち)()(かつ)(がっ)(こう)()ってますけど」

(こん)()()(ねん)(せい)だよね?」

「イエス!」

あの大希(ひろき)くんがもう(こう)(こう)(せい)()(ねん)(せい)か。()()った(ころ)は、(わたし)より(ちい)さかったのに、(いま)では()()げるほど()(たか)くなってたくましくなった。大希(ひろき)くんは5(ねん)(まえ)(みせ)()(ゆう)(れい)(じょ)(せい)息子(むすこ)だ。この(きん)(じょ)()んでいて、うちの(みせ)のお(きゃく)さんでもある。(くろ)いマスクなんかしてかっこつけているが、(なか)()はまだまだ()どもだ。

そんな大希(ひろき)くんが(きゅう)にまじめな(かお)をして

()きました。この()(だん)()()をしてたおじいさん、()くなったって……」

()った。

「うん。そうなの……。小畑(おばた)さんっていうおじいちゃんで、うちのお(きゃく)さんだったの」

「すごく(ざん)(ねん)です。いつかお(れい)()いたいって(おも)ってたから」

「お(れい)?」

「うん。ぼく、この(まち)()()してきたとき、まだお(かあ)さんのことで()()んでいて、(あたら)しい(しょう)(がっ)(こう)にもなじめなくて、なにかも(いや)になっていたんです。でも、(あさ)(しょう)(がっ)(こう)()くとき、このチューリップを()て、(はっ)(けん)したんです。ほら、この()(だん)のチューリップ、()(まえ)から(あか)(しろ)()(いろ)(じゅん)(なら)んでるでしょ?」

「えっ?」

大希(ひろき)くんはちょっと()ずかしそうに(うた)()した。

 

  さいた さいた チューリップのはなが

  ならんだ ならんだ あか しろ きいろ 

  どのはな みても きれいだな

 

(しょう)(がっ)(こう)(おん)(がく)(じゅ)(ぎょう)(なら)うあの「チューリップ」の(うた)だ。

「この()(だん)にチューリップを()えた(ひと)は、この(みち)(とお)()どものことを(かんが)えて、ちゃんと(うた)()わせて、(あか)(しろ)()(いろ)(じゅん)にしてくれたんだって()づいたんです。そうしたら、このチューリップが()(ぶん)のために()いてくれているような()がして、なんだかぼくもがんばろうって(おも)ったんです。そのあと、(なん)(かい)かあのおじいさんが()(だん)()()をしているのを()かけたんですけど、なかなか(こえ)をかける(ゆう)()がなくて……」

大希(ひろき)くんは()(てん)(しゃ)()め、()(きゅう)バッグとバットを()(めん)()いた。そして(わたし)のとなりにしゃがむと、チューリップに()かって()()わせた。

チューリップが(かぜ)()れる。(わたし)()いた。

小畑(おばた)さんは()っていた。チューリップがちゃんと(そだ)ってきれいに(はな)()かすには(ふゆ)(さむ)さと(みず)(ひつ)(よう)なんだと。それは(にん)(げん)(おな)じだと……。

 

(わたし)()きやむまで、大希(ひろき)くんはそばにいてくれた。「ありがとう」と(つた)えると、大希(ひろき)くんは(だま)ってうなずき、(やさ)しく()でほほえんだ。

——こいつ、(なか)()もちゃんと(せい)(ちょう)してる。

(おお)きく(いき)()()んだ。この(あし)(かん)()(にん)さんのところへ()こう。()(だん)()()(だん)()のみんなで()()けしてすることになったそうだが、(わたし)()(つだ)わせてもらおう。

どこからか(しろ)いちょうちょが()んできた。ちょうちょはしばらくチューリップの(うえ)をひらひら()って、(わたし)大希(ひろき)くんの(あいだ)(とお)って、またどこかへ()んでいった。

 

(完)

 

<引用> 唱歌『チューリップ』作詞:近藤宮子

 

トウキョウタワー★★★

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