Sunday, April 5, 2026

幽霊床屋3(ゆうれいとこや3)★★★★★

  店のドアを開け、一歩外に出ると、少し冷たい朝の空気を胸むねいっぱいに吸すい込こんだ。今日は晴はれ。「準備中じゅんびちゅう」の札ふだを「営業中えいぎょうちゅう」に返かえす。

昨晩、東京にいる大樹(ひろき)くんから久しぶりに電話があった。彼は、不思議(ふしぎ)な縁(えん)もあって中学生のときからずっと店に通(かよ)ってくれている特別(とくべつ)なお客さんだ。高校を卒業した後、理容師(りようし)になるため、仙台(せんだい)の理容(りよう)専門(せんもん)学校(がっこう)に入った。そこで理容師(りようし)免許(めんきょ)を取り、2年前からアシスタントとして東京の有名店で働いている。実は、東京に行く前に、この店でアシスタントとして雇(やと)ってくれないかと頼(たの)まれた。しかし、経営的(けいえいてき)にアシスタントを雇(やと)う余(よ)裕(ゆう)がないのと、彼がこの先(さき)、理容師(りようし)としてやっていくなら、まずは大きい店で修業(しゅぎょう)を積(つ)んだほうがいいと思い、断(ことわ)った。大樹(ひろき)くんは「はあ~、やっぱりだめかあ」と大きなため息(いき)をついたと思ったら、すぐににこっと笑(わら)い、

「わかった。でも、約束(やくそく)して。東京で修業(しゅぎょう)して一人前(いちにんまえ)になったら、そのときは、絶対(ぜったい)『優(ゆう)』で働かせてね」と言った。

 うれしかった。大樹(ひろき)くんとこの店でいっしょに働く。その約束(やくそく)を胸(むね)に、わたしは今日もまた髪(かみ)を切るのだ。

「いらっしゃいませ!」

 今日も朝から晩まで予約がぎっしり入っている。10年前、お店を開(ひら)いたときとは大違(おおちが)いだ。コロナ禍(か)で一時はだいぶ経営(けいえい)が苦(くる)しくなったが、最近(さいきん)は絶好調(ぜっこうちょう)。実は、これはうちの夫のおかげだったりする。

平日は、今まではあまり客が入らなかったが、今は、午前中は主婦(しゅふ)やおじいちゃん、おばあちゃん、午後になると、小学生や大学生がやってきて、夕方からは仕事帰りのおじさんたちが次々と来店(らいてん)する。そのわけは「平日カットのみ2,000円」というサービスを始めたからだ。世間(せけん)では「1000円カット」というのが主流(しゅりゅう)になりつつあるが、やはり10分程度(ていど)で切るとなると、雑(ざつ)になって、仕上がりがあまり良くない。それに、そういう店はだいたい4人ぐらいでやっている。わたし一人でやっているこの店で同じようなサービスをするのは無理(むり)がある。だから、わたしは20分で高品質(こうひんしつ)なカットを提供(ていきょう)してみせようと決めたのだ。そして、それが大当たり。ただ、その結果、お客さんを長い時間待たせることになってしまった。どうしたらいいものか家で頭(あたま)を抱(かか)えているとき、夫が、

「じゃ、予約アプリを導入(どうにゅう)してみたら? おじいちゃん、おばあちゃんも使えるような簡単なアプリ。おれ、作ろうか?」と言い出した。

夫の職業(しょくぎょう)はIT系の会社で働くプログラマー。あっという間に予約アプリを作り、わかりやすい使い方のチラシまで準備(じゅんび)してくれた。そのおかげでお客さんを長い時間待たせず、わたしも休憩(きゅうけい)が取りやすくなった。普段(ふだん)うちでは子どもと遊ぶ以外はごろごろしている夫だが、久しぶりに見直した。

それと、もう一つ。お客さんが増(ふ)えた理由は、漫画(まんが)だった。家にあふれていた夫の漫画(まんが)を店に置くことにしたのだ。夫は最初(さいしょ)嫌(いや)がっていたが、捨(す)てられるよりはマシだと思ったらしく、「大切に扱(あつか)ってね……」と大量(たいりょう)の漫画(まんが)を譲(ゆず)ってくれた。これを楽しみにしているお客さんが多いのだ。待ち時間は店の中でゆったり漫画(まんが)を読んでくつろいで、中には散髪(さんぱつ)が終わってから続きを読んで帰るお客さんもいるほどだ。

 ただ、2000円カットが続くと正直(しょうじき)疲(つか)れる。でも、その代(か)わり、夜9時までだった営業時間を7時までに変えた。定休日も増(ふ)やし、月曜日以外に日曜日も隔週(かくしゅう)で休みにした。やっぱり家族と過ごす時間がほしかった。休みの日は、この春から小学校に入る娘の結香(ゆいか)と思いっきり遊(あそ)んであげることにしている。今年で40歳(さい)になったが、まだ体力には自信(じしん)がある。子育ても仕事も手は抜(ぬ)きたくない。

 

「ありがとうございました。またいらしてください」

最後は、初めてのお客さんで、中年(ちゅうねん)の男性だった。おしゃべり好きで、白髪(しらが)染(ぞ)めもしたので、けっこう時間がかかってしまった。

さて、店を閉めて、早く帰ろうと思い、「営業中(えいぎょうちゅう)」の札(ふだ)に手を伸(の)ばしたとき、どこかから視線(しせん)を感(かん)じた。

振(ふ)り返(かえ)ると、通りの向こうの街灯(がいとう)の下に、しゃがんでじっとこっちを見ているツインテールの女の子がいた。思わず駆(か)け寄(よ)っていって「大丈夫?」と聞いたのは、その子が結香(ゆいか)と同じぐらいの年頃(としごろ)だったからだ。もう7時を過(す)ぎている。暗くなっているのに、一人でどうしたのだろう。

女の子は「ねえ、ここはどこ?」と聞いてきた。

「柳之(やなぎの)下町(したまち)っていうんだけど、一人で来たの?」

「う~ん、よくわかんない」

「わかんない? 道がわからなくなっちゃったの?」

「ううん、気づいたら、ここにいたの」

「えっ……おうちはどこ?」

「えーと、あのね……」

女の子が口にしたのは、隣(となり)の市の海沿(うみぞ)いの町名(ちょうめい)だった。そんな遠くからどうやってここまで来たんだろう。とりあえず、近くの交番(こうばん)に連絡(れんらく)しよう。

「ねえ、じゃあ……おばさんがお巡(まわ)りさんに頼(たの)んで、おうちの人に連絡(れんらく)してあげる。それまでおばさんのお店で待ってようか」

自分のことを【おねえさん】とは言えないが、【おばさん】と言うのには、まだ抵抗(ていこう)がある。

 女の子は少し考えてから、小さく首を縦(たて)に振(ふ)った。「はい」と手を差(さ)し出すと、彼女はゆっくり手を重(かさ)ねてきた。その小さな手を温めるように握(にぎ)り、いっしょに店に戻(もど)った。

 

「ねえ、お名前は?」

「ささきゆり」

「ゆりちゃんね。おばさんの名前も教えてあげる」

「何?」

ゆっくり低い声で「楡井(ゆい)麗子(れいこ)」と言った。

「え、幽霊(ゆうれい)? ホント!?」

「うん。だから、この店は幽霊(ゆうれい)床屋(とこや)って言われてるのよ」

「えー!? 幽霊が出るの?」

「さあ、どうかなあ」

交番に何度か電話をかけたが、つながらなかった。パトロール中かもしれない。もう少ししてからかけ直して、それでもだめなら、警察(けいさつ)署(しょ)か110番にかけるしかない。

 女の子はソファーで『ドラえもん』を読んでいて、ときどきクスクス笑っている。さっきは暗い顔をしていたから大人しい子かと思ったけど、本当は明るくて活発(かっぱつ)な子のようだ。ツインテールがよく似合う。

 その後も何度か交番に電話をかけたが、つながらず、仕方なく警察(けいさつ)署(しょ)に連絡(れんらく)すると、すぐには行けないので30分ぐらい預(あず)かっていてほしいと言われた。

 自然(しぜん)とカレンダーに目がいった。外していたエプロンを締(し)め、下ろしていた髪(かみ)を結(ゆ)い直す。

「ゆりちゃん。せっかく幽霊(ゆうれい)床屋(とこや)に来たんだから、記念(きねん)に髪(かみ)、切っていかない? かわいく変身(へんしん)して、お母さんとお父さんをびっくりさせちゃおうよ!」

ゆりちゃんは目を大きく見開(みひら)いて、

「ホント! いいの!?」と立ち上がる。

「いいよ! 特別(とくべつ)サービス!」と言うと、満面(まんめん)の笑(え)みで「やったー!」と漫画(まんが)を片手(かたて)に何度も飛(と)び跳(は)ねた。

 イチゴの飾(かざ)りが付いたゴムをほどき、髪(かみ)をくしでとかす。まずは少しずつ全体を切りそろえていく。

「ゆりちゃんは、お店で切るのは初めてでしょ」

「なんでわかるの?」

「床屋さんは、髪(かみ)のことならなんでもわかるんだよ」

「へえー、すごい!」

おそらくお母さんに切ってもらっていたのだろう。ゆりちゃんの髪(かみ)は丁寧(ていねい)に切られているが、少しバランスが悪い。

「ゆりのママはね。いつも美容院(びよういん)に行くんだよ。きれいになると、元気になるんだって」

「へえー、いいね」

「それで、ゆりとパパは、おうちで留守番(るすばん)してるから、ママは、いつもケーキを買ってきてくれるんだ!」

「わー、いいなあ。どんなケーキ?」

「いろんなケーキを買って来てくれるけど、ゆりが一番好きなのは、イチゴのショートケーキ!」

 ゆりちゃんが楽しそうに足をバタバタすると、頭もそれに合わせて横(よこ)に揺(ゆ)れる。

「こらこら、頭は動かさない」

「はーい」

髪(かみ)も細いし、頭も小さい。それだけではない。小さい子の髪(かみ)を安全に切るのにはコツがいる。大樹(ひろき)くんにもちゃんと教えないと。

「そうかぁ。イチゴが好きなんだね。ゴムにもイチゴ、付(つ)いてるしね」

「うん!」

「じゃ、前髪(まえがみ)を切るので、目をつぶってください」

「はい!」

 少し怖(こわ)がっているようで、ぎゅっと目をつぶっているのが、かわいらしい。

「怖(こわ)がらなくても、大丈夫だよ。何か楽しい話でもして」

「ええと……そうだ! クイズ出すね!」

「いいよ。なになに?」

「ゆりのランドセルは、何色でしょうか?」

 やっぱり娘(むすめ)と同じ年……

「そうだなあ。水色」

「ブッブー」

「ピンク」

「ブッブー」

「紫」

「ブッブー。じゃあ、ヒント出すね。ゆりの好きな果物(くだもの)は……」

「わかった! 赤!」

「ピンポーン! イチゴの赤でしたー!」

「やったー! はい、終わり。目を開けていいよ。どう? 鏡(かがみ)の中のお姫(ひめ)様(さま)はだれ?」

「ゆりー!」

「かわいくなったでしょ?」

「うん! すごい、魔法(まほう)みたい!」

鏡(かがみ)にゆりちゃんのキラキラした目が反射(はんしゃ)する。

「そうだよ。床屋(とこや)さんは魔法(まほう)が使えるの」

「へえー。ゆり、大人になったら、ケーキ屋さんになりたいって思ってたけど、やっぱりやめて、床屋(とこや)さんになろうかなあ」

 年を取ったと思うのは、こういう瞬間(しゅんかん)だ。涙腺(るいせん)がゆるくなって、すぐ泣きそうになる。

「じゃあ、最後に髪を結(ゆ)いますね」

「うん! 髪を切ると、ホントに元気になるんだね。あーあ、ママもパパももっと髪切りにいけばいいのになあ」

「ゆりちゃんのママとパパは元気がないの?」

「うん。ママもパパもゆりに会えないから……」

「……そっか。でも、わたしがゆりちゃんの代わりに『ゆりちゃんは髪を切って元気だったよ』って、ママとパパに伝えたら、二人とも元気になるんじゃない?」

「ホント! ぜったい、ぜったい、ぜえーたいだよ! ぜったい伝えてね」

「うん、約束(やくそく)する」

 私が小指(こゆび)を出すと、すぐにゆりちゃんの小さな小指がからまった。

 

ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のーます、ゆびきった!

 

「ありがとう。幽霊(ゆうれい)床屋(とこや)のおばさん」

ゆりちゃんの体が徐々(じょじょ)に透明(とうめい)になっていく。バイバイと手を振(ふ)り、やがて姿(すがた)を消(け)した。

 こうなる予感(よかん)があった。店の外で握(にぎ)った小さな手は、夜とはいえ、とても冷たかった。

そして、この店は5年ごとに3月になると幽霊(ゆうれい)が現(あらわ)れる。5年前も、10年前も……

この世(よ)に戻(もど)ることができず、あの世(よ)にも行けない人が、何かを抱(かか)え、この店を訪(おとず)れる。わたしが髪を切ることで、彼らはあの世(よ)へと旅立(たびだ)っていく。いや、旅立(たびだ)っていったかどうかは確認(かくにん)できない。だが、そうであってほしいと祈(いの)っている。

さっきまでゆりちゃんが座(すわ)っていた椅子(いす)に向かって、手を合わせた。

 

 そのすぐあとに、警察官(けいさつかん)が訪(たず)ねてきた。幽霊(ゆうれい)が来たと説明(せつめい)して信(しん)じてもらえるか不安だったが、意外なことにその警官(けいかん)は私の話をじっくり聞いてくれた。

「驚(おどろ)きました。電話があった後、調べたら、確(たし)かに『ささきゆり』という女の子がいたんです。東日本(ひがしにほん)大震災(だいしんさい)の津波(つなみ)で行方(ゆくえ)不明(ふめい)になったという届(とど)けが15年前に出されています。住んでいた場所も合っていますし、特徴(とくちょう)もかなり近いです」

だが、その後、本当に今まで何も接点(せってん)がなかったことをしつこく確認(かくにん)された。それはそうだ。もしこれがイタズラだとしたら、かなりひどいイタズラということになる。

「すみません。ゆりちゃんのご両親の連絡先(れんらくさき)を教えていただけませんか。それか、わたしの連絡先(れんらくさき)を教えますので、連絡(れんらく)してもらうよう伝えてもらえませんか。お願いします!」

 

 次の日の昼過ぎ、大樹(ひろき)くんが店にやってきた。

「ただいま」

その声に反応(はんのう)して思わず抱(だ)きついてしまった。大樹(ひろき)くんは少し驚(おどろ)いたようだったが、嫌(いや)がりもせず、がっしりした体で受け止めてくれた。

おかえり。もう自分の息子のようだ。

 今日は定休日。だが店にいるのは、大樹(ひろき)くんがわたしの髪を切ってくれるからだ。修行(しゅぎょう)の成果(せいか)を見せてくれるという。

「これ、お土産(みやげ)。朝、近所の和菓子屋(わがしや)で買って来たんだ」

「ありがとう。じゃ、お茶いれるから、いっしょに食べよ。いろいろ話したいことあるし。髪切るのはそれから」

「OK」

ちょうどお湯(ゆ)が沸(わ)いたとき、スマホが鳴(な)った。知らない番号からだ。

火を止めて、通話(つうわ)ボタンを押す。

「はい、楡井(ゆい)です」

「……佐々木(ささき)と申(もう)します」

 ゆりちゃんのお母さんだ。

「あの、信じてもらえないかもしれませんが、昨日、ゆりちゃんに会ったんです!」

 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、できるだけ丁寧(ていねい)に昨日起きたことを説明(せつめい)した。スピーカーからすすり泣く声が聞こえてきた。

会いに行かなきゃ。

 

 大樹(ひろき)くんを助手席(じょしゅせき)に乗(の)せ、教えてもらった住所に車を走らせた。家の特徴(とくちょう)も聞いていたので、すぐに佐々木(ささき)さんのお宅(たく)は見つかった。

チャイムを押すと、ゆりちゃんの両親が玄関(げんかん)まで出迎(でむか)えてくれた。軽(かる)くあいさつを交(か)わし、中に招(まね)き入れてもらう。案内されたリビングの陽(ひ)の当たる場所に、ゆりちゃんの写真が飾(かざ)られていた。

間違いない。昨日の子だ。

 しかし、それは仏壇(ぶつだん)ではなかった。行方(ゆくえ)不明(ふめい)ということは、遺骨(いこつ)が見つかっていないのだ。ご両親の前で写真に手を合わせるわけにはいかない。両親にとって幽霊(ゆうれい)を認(みと)めることは、亡くなっていることを受け入れるのに等(ひと)しい。わたしがゆりちゃんの幽霊(ゆうれい)に会ったということは、はたして良いことなのか、悪いことなのか……。まだ諦(あきら)めていない人たちに向かってどう話せばいいのだろうか。

 その気持ちを察(さっ)してくれたようで、お母さんが

「ごめんなさい。まだ気持ちの整理(せいり)ができていなくて、本当は少し落ち着いてからお会いしようって思ったんだけど。やっぱり詳(くわ)しく聞きたいって思ったの。ほら、人間って忘れてしまうから」と話を切り出してくれた。

 わたしは電話で話したことをもう一度頭から話した。ゆりちゃんがしたこと、話したこと、つむじの巻(ま)き方や、ほくろの位置まで覚えていること、すべてを伝えた。

途中、ゆりちゃんの夢がケーキ屋になることだったと告(つ)げると、お母さんは涙(なみだ)をこらえることができず、両手を口元(くちもと)に押し当てて泣いた。

 話し終えると、それまでずっと下を向いて黙(だま)っていたお父さんが顔を上げた。

「ほくろの位置(いち)やランドセルの色も知っているというのは本当に驚(おどろ)きました。……実は、だれかの遺骨(いこつ)が見つかったと聞くたびに、複雑(ふくざつ)な気持ちになるんです。それがゆりのじゃなくてよかったとほっとする一方で、ゆりのであってほしかったと思ったりもします。震災(しんさい)の後は、ゆりはきっとどこかで生きていると自分自身に言い聞かせていたんです。だから、いつでも帰って来られるように、またここに家を建てました。……しかし、時間がたつにつれ、どうか生きて戻ってほしいという思いが、どんな形であっても構(かま)わないから戻ってきてほしいと思うようになりました。遺骨(いこつ)じゃなくてもかまわない、遺品(いひん)でもいい。家族にとって何か区切(くぎ)りになるものが見つかればと願っていました。だから、今のお話を信じたい気持ちはあります。ただ、正直(しょうじき)に言うと、幽霊(ゆうれい)になって戻(もど)って来るにしても、なんでうちじゃないんだという思いがあります。ここから遠く離(はな)れた床屋に来たというのは、どうしても納得(なっとく)できない……」

お父さんの肩(かた)が震(ふる)えている。重苦しい空気が部屋を包(つつ)んだ。

わたしはカバンからプラスチックの小さな箱を取り出して、ご両親の前に差し出した。

 お母さんは、まさかという表情(ひょうじょう)を浮(う)かべたあと、恐(おそ)る恐(おそ)る箱に手を伸ばして、箱を開けた。

「これは……ゆりの……」

イチゴの飾りがついた二つの髪ゴム。

ゆりちゃんの姿(すがた)が消えた後も、外してあった髪ゴムが店に残っていたのだ。

お母さんはそれをそっと左手の掌(てのひら)にのせ、むせび泣いた。お父さんはそっとお母さんの肩(かた)に手を回した。こらえていた涙(なみだ)が頬(ほお)を流(なが)れた。

 

ご両親の許可(きょか)をもらい、ゆりちゃんの写真の前に置かれた髪ゴムの隣(となり)に、大樹(ひろき)くんがお土産(みやげ)に買ってきたイチゴ大福(だいふく)を並べた。手は合わせなかった。忘れないように毎日見ていた写真が「遺影(いえい)」に変わるまでには少し時間がかかるかもしれない。いや、時間をかけても、結局、遺影(いえい)にはならないかもしれない。それは家族の問題であって、わたしが立ち入(い)ることはできない。ただ、二人にとって今回のことが未来に向かう一歩になってほしいと願うばかりだ。

 帰り際(ぎわ)、見送ってくれた二人に「今度、ぜひうちの店に髪を切りに来てください」と言い残し、車を発進(はっしん)させた。

道中(どうちゅう)、助手席(じょしゅせき)で眠(ねむ)たそうにしている大樹(ひろき)くんに聞いてみた。

「ねえ、どうしてお土産(みやげ)にイチゴ大福(だいふく)を買ってきたの? すごい偶然(ぐうぜん)じゃない!?」

「うーん。お店には、たくさんお菓子(かし)があってどれにしようか迷(まよ)っててさ。でも、イチゴ大福(だいふく)を見てたとき、隣(となり)にいた女の子が『これ!』って言ったんだ」

「えっ……それ、ホント?」

「ホントだよ! 全然知らない子だったからちょっと驚(おどろ)いたけど、ニコニコしててかわいいし、じゃあ、まあ、これにしようと思って、レジに並んで会計してたら、いつの間にかいなくなっちゃったんだよね。その子。でも、さっき写真見た瞬間(しゅんかん)、わかったよ。あれはゆりちゃんだったんだって。ツインテールじゃないし、ちょっと髪が短くなってたけど」

 大樹(ひろき)くん、君がわたしといっしょに働きたいと思ってくれていること、すごくうれしいんだけど、一つ心配なことがあったんだ。でも、君ならきっと大丈夫。

幽霊(ゆうれい)床屋(とこや)へようこそ。

【完】

 

 

Sunday, March 2, 2025

天使は通勤電車の中にいる★★★★★

  朝の電車ほど孤こ独どくを感じる場所はない。

毎朝、同じ電車の同じ車(しゃ)両(りょう)に乗れば、そこには知っている顔ばかり。髪(かみ)が薄(うす)くなったおじさん、きれいな爪(つめ)のおねえさん、マスクをつけたメガネの少年……。名前も知らなければ、会社や学校も知らない。大勢(おおぜい)の人間が集まっているのに、そこに会話が生まれることはない。だれもいない部屋に一人でいるより孤(こ)独(どく)だ。

でも、今の私にとってそんなことはどうでもいい。名前や会社など知らなくていいし、少々イケメンだろうと恋人(こいびと)がいるかなんて知りたくもない。私が知りたい情報(じょうほう)はただ一つ。その人がどこの駅で降りるかだ。

2カ月ほど前から毎朝電車に乗ると、ある人を探(さが)すようになった。派手(はで)な服を着ているわけではないが、だいたいその女性の服は覚えている。「おばさん」と「おばあさん」の間ぐらいの年齢(ねんれい)で、赤いメガネをかけている。シートに座(すわ)っている彼女は次の駅で必ず降りる。だから、彼女の前に立ってさえいれば、いつも込んでいるこの時間の電車でも次の駅で座れるというわけだ。

家から職場(しょくば)の最寄(もよ)り駅まで快速(かいそく)電車で7駅。別(べつ)に遠(とお)いわけではないが、座れるなら座りたい。なんせ私は仕事の半分は立ちっぱなしの中学校の教師だからだ。それだけじゃない。小柄(こがら)な私は生徒(せいと)になめられないように、内(うち)履(ば)きのパンプスの中にヒールアップの中(なか)敷(じ)きを入れている。実際(じっさい)の身長(しんちょう)より2㎝高くなるだけだが、生徒(せいと)と向(む)かい合ったときの自信(じしん)が違う。というわけで、夕方になると足がつらくなる。ただ、退勤(たいきん)時間は日によって違うし、たいてい込(こ)んでいるので、帰りの電車で座るのはあきらめている。せめて朝の電車は座って過(す)ごし、少しでも足に負担(ふたん)をかけないようにしたい。それで、私は自分だけが知っている貴重(きちょう)な情報(じょうほう)を活(い)かしつつ、戦略的(せんりゃくてき)に席に座ろうと決(き)めたのだ。私は心の中でそのおばさんに【エンジェル】というあだ名(な)を付(つ)けた。

けれど、必勝法(ひっしょうほう)がわかったからといって、必ず座れるわけではない。今週の月曜から木曜までの戦績(せんせき)は3勝(しょう)1(いっ)敗(ぱい)。月、火は座れたが、水曜はエンジェルの前に見かけない太(ふと)った中年(ちゅうねん)サラリーマンが立っていた。しかし、そんなことで怯(ひる)みはしない。前にいなくても斜(なな)めから道を開けるふりをして、すっと席(せき)に滑(すべ)り込(こ)むテクニックを身(み)に着(つ)けている。たいていの人は目の前の席(せき)が空(あ)いても座るまでに一瞬(いっしゅん)の間(ま)がある。そのスキを狙(ねら)うのだ。しかし、エンジェルが立ち上がるや否(いな)や、その中(ちゅう)年(ねん)男(だん)性(せい)は突(つ)き出(で)たお腹(なか)をものともせず素早(すばや)い動きで、空(あ)いた席(せき)にどすんと腰(こし)を下(お)ろした。シートが激(はげ)しく揺(ゆ)れ、隣(となり)の席(せき)で居(い)眠(ねむ)りしていた長髪(ちょうはつ)のお兄さんが飛(と)び起(お)きた。

だが、昨日は楽勝(らくしょう)。そして、今日は金曜日。夜には大学時代(じだい)の友人(ゆうじん)らと飲み会がある。昼間(ひるま)の授業(じゅぎょう)だけではなく、夕方には職員(しょくいん)会議もある。くたくたで夜を迎(むか)えたのでは、週末(しゅうまつ)の女子会(じょしかい)は楽しめない。翌日(よくじつ)が休みなら三次会(さんじかい)のカラオケまで行くのがお決(き)まりのコースだ。今から夜に向(む)けて少しでも体力(たいりょく)を残(のこ)しておかなくては。

「まもなく1番線(ばんせん)に……」というアナウンスが流(なが)れ、電車がホームに入って来た。いつもの場所で列(れつ)に並(なら)んで目を凝(こ)らしていると、ドアが開く前に茶色(ちゃいろ)いコートのエンジェルを見つけた。彼女の前にはだれも立っていない。

ドアが開いて、乗客(じょうきゃく)が降りるのをじっと待ち、中に入ると、一直線(いっちょくせん)に進(すす)んでエンジェルの前をゲットした。よし、これで勝(か)ちは確定(かくてい)。さて、夜の二次会(にじかい)の店(みせ)はどこにしようとスマホをいじり始めた。

ところが、ドアが閉(し)まろうとしたとき、エンジェルが

「どうぞ、座ってください」と立ち上がった。

「えっ」

しかし、それは私に向(む)けた言葉ではなく、私の隣(となり)に立っていた女性(じょせい)に向(む)けたものだった。彼女のかばんには妊娠(にんしん)していることを示(しめ)すマタニティーマークが付(つ)いていた。彼女は「ありがとうございます」と頭(あたま)を下げて、ふくらんだおなかを抱(かか)えるように席(せき)に着(つ)いた。

電車が動き出す。エンジェルは私の隣(となり)に立っていた。私はこれまで自分が続(つづ)けていた席(せき)取(と)り合戦(がっせん)をひどく恥(は)じていた。そして、情(なさ)けなさから冷(つめ)たい闇(やみ)へと落(お)ちていった。

親元(おやもと)でぬくぬくと暮(く)らし、グチをこぼしつつ仕事をこなし、たまに友人と遊(あそ)んだりして年(とし)を重(かさ)ねていく。恋人(こいびと)がいた時期(じき)もあるけど、結婚(けっこん)しようとは思わなかった。先週のバレンタインデーも自分のために高級(こうきゅう)なチョコを買ってきて部屋で一人で食べた。今の時代(じだい)、こんな生き方もアリだと思う。でも、それは、できるだけ周(まわ)りを見ないようにして自分にとって都合(つごう)のいい選択(せんたく)をしているだけではないかとも感(かん)じている。結局(けっきょく)、自分に自信(じしん)がないから変(か)わるのが嫌(いや)で、変化(へんか)のない毎日にしがみつくように生きている。それだけならまだしも、こうやって日常(にちじょう)の中で少しでも他人(たにん)より有利(ゆうり)に生きたいと身勝手(みがって)な行動(こうどう)に出る……

なんだか泣(な)きたくなってきた。でも、こんなところで泣(な)くわけにはいかない。こらえろ。

手で目元(めもと)をぬぐったら、目の前にハンカチが現(あらわ)れた。白い花柄(はながら)のハンカチ。差(さ)し出したエンジェルが心(しん)配(ぱい)そうな顔(かお)で言った。

「やっぱり。鈴木(すずき)さんよね? 鈴木(すずき)貴子(たかこ)さん」

「相羽(あいば)先生……」

中学2年生のとき、私はクラスでいじめを受(う)け、不登校(ふとうこう)になった。そのとき、救(すく)ってくれたのが相羽(あいば)孝子(たかこ)先生だった。1年生のときの担任(たんにん)で、国語の先生。どこにでもいる地味(じみ)なおばさん教師(きょうし)。そう思って1年過(す)ごすと、2年生になって担任(たんにん)が変わった。

先生は学校に行かなくなった私宛(あて)に毎週手紙を書いてくれた。最初(さいしょ)は何だろうと驚(おどろ)いたが、特(とく)にすることがない毎日の中で、その手紙はいつしか楽しみに変(か)わっていった。手紙の内容(ないよう)は、学校であった出来事(できごと)や先生の家族のこと、日々(ひび)の他愛(たあい)もない発見(はっけん)などいろいろだった。そして、国語の先生らしく、手紙の最後(さいご)に詩(し)や短歌(たんか)を引用(いんよう)することもあった。それは家に閉(と)じこもる私に外の世界を感(かん)じさせてくれるものだった。先生は手紙を通(とお)して私の心に光(ひかり)を運(はこ)んでくれた。

結局(けっきょく)、卒業(そつぎょう)するまで中学校には行けなかった。けれど、その後、通信制(つうしんせい)の高校に通(かよ)い、大学では文(ぶん)学部(がくぶ)に入り、国語の教師(きょうし)になる道(みち)を選(えら)んだ。相羽(あいば)先生は間違(まちが)いなく私の人生(じんせい)に大きな影(えい)響(きょう)を与(あた)えた人(じん)物(ぶつ)だった。

その先生が目の前にいる。いや、半年前から目の前にいたのに気づかなかった。当時(とうじ)はメガネをかけていなかったとはいえ、わからなかったのが悔(くや)しい。

「大丈夫? ごめんね。もっと早く気づいてあげればよかったんだけど、自信(じしん)がなくて。私の知ってる鈴木(すずき)さんは中学生の頃(ころ)の鈴木さんだったから」

受(う)け取(と)ったハンカチを目元(めもと)に当(あ)てたまま、首(くび)を左右(さゆう)に振(ふ)った。——違う、私が気づかなきゃいけなかったのに……

「鈴木さんが卒業(そつぎょう)するときに手紙、書いてくれたでしょ? あれ、私の宝物(たからもの) 。今でもちゃんととってあって、たまに読み返(かえ)すのよ。」

 私が書いた手紙? そうだ。会いに行く勇気(ゆうき)はなかったけど、感謝(かんしゃ)の気持ちを伝(つた)えるために手紙を書いた。でも、内容(ないよう)は覚(おぼ)えていない……

そのとき、急(きゅう)に電車が止まった。先生がバランスを崩(くず)して倒(たお)れそうになり、思わず先生の腕(うで)をつかんだ。

「停止(ていし)信号(しんごう)です。しばらくお待ちください」というアナウンスが車内に流(なが)れた。

「ありがとう」

しわは増(ふ)えたけど、笑(わら)うと目(め)尻(じり)が下(さ)がる優(やさ)しい顔(かお)はあの頃(ころ)のままだ。思い出した。たしか、

 

『貴子(たかこ)』と『孝子(たかこ)』で漢字は違いますが、先生と同じ名前でうれしいです。

 

と書いた。それから……

先生に続きを聞こうと口を開(ひら)きかけたが、思いとどまった。

あの日の私が降りて来た。

「先生、次の駅で私も降ります」

「え、どうしたの? お仕事に間に合わなくならない?」

「大丈夫です。私、先生に話したいことがあるんです。連絡(れんらく)先(さき)も知りたいし。あ、でも、先生はお時間ありますか?」

 相羽先生はちらっと腕(うで)時計(どけい)を確認(かくにん)して、

「ええ、大丈夫よ。せっかくかわいい教(おし)え子(ご)と再(さい)会(かい)できたんですもの。ゆっくり話さなくちゃ」と微笑(ほほえ)んだ。

 春の日差(ひざ)しが積(つ)もった雪(ゆき)を溶(と)かすように、私の孤独(こどく)を溶(と)けていく。

またしても相羽先生に救(すく)われた。私はやっぱりあの頃(ころ)からあまり成長(せいちょう)していないみたいだ。それにしても……

急(きゅう)に私がくすくす笑(わら)い出したものだから、先生は「え、どうしたの?」と不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)をした。

「すみません。何でもありません」

さっきまで心の中で先生のことを【エンジェル】というあだ名(な)で呼(よ)んでいたことを思い出し、つい口元(くちもと)が緩(ゆる)んでしまったのだ。まあ、いいか。先生は私にとって本当に天使(てんし)なのだから。

アナウンスが流(なが)れ、停(てい)止(し)信(しん)号(ごう)が解(かい)除(じょ)されたと告(つ)げた。私たちを乗せた電車はいつもの駅へ向(む)かった。

 《完》

 

 

 

トウキョウタワー★★★

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