Wednesday, February 23, 2022

コーヒーでも飲みながら★★★★

 毎朝(まいあさ)、ある女性(じょせい)(おお)(どお)りの交差点(こうさてん)ですれちがう。たぶん(とし)はぼくと(おな)くらいだろう。(とく)美人(びじん)というわけではないけれど、はじめて()かけたときから、どこか(こころ)ひかれるものがあった。

(はな)しかけてみたいと(おも)うが(つう)(きん)途中(とちゅう)(こえ)をかけて、そのせいで遅刻(ちこく)させてしまったら(もう)(わけ)ない。(かの)(じょ)はいつも(いそ)いでいるようだし、ぼくもときどき()ぐせがついていたりする。けど、実際(じっさい)は、彼女(かのじょ)(つぎ)信号(しんごう)()まらないように(いそ)いでいるだけかもしれないし、()ぐせ完全(かんぜん)にぼくの責任(せきにん)だ。つまり、ぼくには勇気(ゆうき)がないのだ。

毎朝(まいあさ)(こう)()(てん)(しん)(ごう)()ちながら、(とお)りの()こうにいる彼女(かのじょ)(なが)めている。すれちがうときにハンカチでも()としてくれないかなんて(ねが)いながら。ただ、もしそんなことが()きたとしても、「()としましたよ」、「あっ、ありがとうございます」というやりとりだけで、それ()(じょう)(かい)()(つづ)かず()わってしまうだろう。

だから、とりあえず(いま)は、そんなふうに(おも)える(ひと)がぼくの日々(ひび)生活(せいかつ)(なか)存在(そんざい)するだけで十分(じゅうぶん)だ。ぼくは交差点(こうさてん)神様(かみさま)(いの)る。「明日(あす)もまた彼女(かのじょ)()えますように」と。

 

その()、ぼくは寝坊(ねぼう)して、()ぐせ(あたま)のまま、あわてて(いえ)()た。その交差点(こうさてん)までは(ある)いて15(ふん)。いつもの時間(じかん)には()()いそうにない。

ところが、交差点(こうさてん)()くと、その()(かぎ)って彼女(かのじょ)信号機(しんごうき)(まえ)にある自動(じどう)販売機(はんばいき)(なに)()(もの)()っていた。(とお)くて(なに)()っているかはわからなかったが、(うし)姿(すがた)(かの)(じょ)だとわかった。

信号(しんごう)(あお)になり、いつものように(こう)()(てん)(ある)()す。(いっ)(しゅん)彼女(かのじょ)()()ったような()がした。

 (わた)()えてちらっと()(かえ)ると、彼女(かのじょ)何事(なにごと)もなかったかのように(とお)ざかっていく。実際(じっさい)自動(じどう)販売機(はんばいき)()(もの)()って、いつもより(すこ)(おそ)()(かん)にぼくとすれちがっただけで、彼女(かのじょ)には(とく)(なに)()きていない。そのとき、

「おめでとうございます!」と(こえ)をかけられて、どきっとした。

自動(じどう)販売機(はんばいき)だった。「777」という数字(すうじ)表示(ひょうじ)されている。どうやらこの()(どう)(はん)(ばい)()()(もの)()とルーレットが(まわ)って、「777」のように数字(すうじ)が3つそろうと()たりで、()()(もの)がもう1(ぽん)もらえるらしい。

ということは、これは彼女(かのじょ)()ったときに()たったものだ。でも、彼女(かのじょ)はそれには()づかずに交差点(こうさてん)(わた)って()ってしまったのだ。もう信号(しんごう)(あか)だ。(いま)さら()()わけにはいかない。この自動(じどう)販売機(はんばいき)()たりもそのうち()えてしまうだろう。仕方(しかた)がない。ぼくは一番(した)(だん)(みぎ)から2番目(ばんめ)にあった水色(みずいろ)(かん)コーヒーのボタンを()した。

 

今日(きょう)金曜日(きんようび)だから、(つぎ)(かの)(じょ)()うのは月曜日(げつようび)だ。けど、月曜(げつよう)(あさ)にこの(かん)コーヒーを(わた)したとしても(かの)(じょ)(よろこ)んではくれないだろう。むしろ、(あや)しい(おとこ)だと(きら)われてしまうかもしれない。しかも、あまり(かんが)えずに()したから、それは砂糖(さとう)とミルクの(はい)った(あま)いコーヒーだった。ぼくは、コーヒーはブラックで()(あま)いコーヒーはあまり()きじゃない。

そんなことを(かんが)えながら(ある)いていたら会社(かいしゃ)()いた入口(いりぐち)(まえ)警備員(けいびいん)のおじさんが(ねむ)そう(かお)で「おはようございます」とあいさつをしてきた。

ぼくはカバンから(かん)コーヒーを()()した。

「おはようございます。あのう、もしよかったら、これ、どうぞ。お()(ごと)、お(つか)(さま)です」

「え、いいんですか?」

「ええ、なんか(ねむ)そうだし」

「すみません。ありがとうございます」

警備員(けいびいん)のおじさんはうれしそうに()()った。どうせ(ぐう)(ぜん)()()れたものだ。だれかの(やく)()つなら、そのほうがいい。

 

 タイムカードを()して、トイレで()ぐせを(なお)すと、()(ごと)(はじ)めた。メールをチェックした(あと)30(ぷん)ほど()()わせをした。それから()(ぜん)(ちゅう)(とり)(ひき)(さき)()()(てい)(はい)っていたので、(がい)(しゅつ)することにした。すると、エレベーターを()りたところで、さきほどの警備員(けいびいん)のおじさんに(こえ)をかけられた。

(さき)ほどはコーヒー、ごちそうさまでした」

「いえいえ、()にしないでください」

「お(れい)()ってはなんですけど、これ、もらってくれませんか?」

()って、チケットを2(まい)()()してきた。

「えっ、これは?」

「クラシックのコンサートのチケットです。本当(ほんとう)は、今晩(こんばん)家内(かない)()()()(てい)だったんですが、ゆうべ家内(かない)がぎっくり(ごし)になって()けなくなってしまって……」

「そうだったんですか」

今朝(けさ)(ねむ)そうにしていたのは、そういうわけか。

(わたし)一人(ひとり)()くわけにもいかないし……。今晩(こんばん)(なに)用事(ようじ)がありますか?」

「いえ、(とく)に」

「じゃあ、ぜひ()ってみてください。すばらしいですよ」

「そうですか。じゃあ、遠慮(えんりょ)なくいただきます。ありがとうございます」

 クラシックにはあまり興味(きょうみ)はないけど、せっかくだから()ってみようかと(おも)った。

 

 (ひる)(やす)みに(せん)(ぱい)小田島(おだじま)さんと(かい)(しゃ)(ちか)のトンカツ()()った。二人(ふたり)ともカツ(どん)注文(ちゅうもん)して()っている(あいだ)小田島(おだじま)さんがこんなことを()()した。

「なあ、長谷川(はせがわ)。おれ、今晩(こんばん)彼女(かのじょ)食事(しょくじ)()くんだけど、どこかどおしゃれな(みせ)()らない?」

小田島(おだじま)さん、彼女(かのじょ)がいないぼくがおしゃれな(みせ)()ってると(おも)いますか?」

「そうだよなあ。()ってるわけないか。あーあ、もう彼女(かのじょ)とは(なが)()()だから、デートで()くところなんてだいたい()まってて、いちいち(かんが)えたりしないんだよね。なのに、突然(とつぜん)()たまに(ちが)ところに()きたい()なんて()から(こま)っちゃうよ」

「ふうん、つまり、先輩(せんぱい)とのデートに()きたってことですか?」

「そう。それか、おれに()きたってことかも」

 小田島(おだじま)さんは本気(ほんき)なのか冗談(じょうだん)なのかわからない(かお)でため(いき)をついた。ふとさっきのチケットのことを(おも)()した。

「ねえ、小田島(おだじま)さん。クラシックのコンサートって()ったことありますか?」

「クラシック? ないよ。クラシックなんか学校(がっこう)音楽(おんがく)授業(じゅぎょう)()いて()(らい)

「じゃあ、もちろんデートで()ったこともありませんよね?」

「もちろん」

 ぼくはスーツの(うち)ポケットからチケットを()()した。

(なん)だよ。それ?」

今晩(こんばん)、このクラシックのコンサートに()ってください! すばらしいですよ。(かの)(じょ)もきっと(よろこ)ぶはずです」

「え、いいの? でも……()ちゃうかも」

「ダメです。(いま)すぐメールで(さそ)ってください」

「……わかったよ。でも(たか)いだろ?」

「タダでいいです」

「ほんと? じゃ、遠慮(えんりょ)なく」

 そう()うと、小田島(おだじま)さんはチケットを受け取り、すぐにケータイでメールを()った。そして、ちょうどカツ(どん)()()えたとき、小田島(おだじま)さんのケータイが()った。(かの)(じょ)からの(へん)(しん)だ。

「おお、なんかすごく(よろこ)んでるぞ! ハートマークとか絵文字(えもじ)がたくさんついてる。長谷川(はせがわ)、ありがとう!」

「よかったですね。でも、小田島(おだじま)さん絶対(ぜったい)にコンサート(ちゅう)()(ねむ)りしないでくださいよ」

 

 夕方(ゆうがた)(きゅう)(あめ)()()した(あさ)(あわ)てて()てきたので、天気(てんき)予報(よほう)()ていなかった。

()(かた)ない(ちか)くのコンビニまで(はし)って()って、ビニール(かさ)でも()うか。

ため(いき)をつくと、(まど)(ちか)くに()っていた小田島(おだじま)さんが(ちか)づいて()た。

長谷川(はせがわ)、どうした? ため(いき)なんかついて。そんなにデートできるおれがうらやましいのか? おまえも(はや)(かの)(じょ)()つけろよ」

「そんなんじゃないですよ。ただ(かさ)(わす)れただけですから」

「なんだ。(かさ)か……あっ、そうだ!」

 小田島(おだじま)さんはロッカーのほうに()き、(なに)やらがさがさ(さが)(はじ)めた。そしてしばらくすると、()紫色(むらさきいろ)(かさ)()って(もど)ってきた。

「ほら、さっきのチケットのお(れい)だ。やるよ」

「いいんですか?」

「ああ。去年(きょねん)忘年会(ぼうねんかい)のときにビンゴゲームやっただろ。そのときに、もらった(かさ)だ。ちょっと派手(はで)だから、()(がさ)にしてたんだ。でも新品(しんぴん)だぞ」

「いいんですか。ありがとうございます」

 小田島(おだじま)さんは(こし)()()て、満足(まんぞく)そうに「うんうん」とうなずいた。

 

終業(しゅうぎょう)時間(じかん)になると、小田島(おだじま)さんはすぐに会社(かいしゃ)()ていった。ぼくは(あめ)()っていても、いつもなら(ある)いて(かえ)が、今日(きょう)はバスで(かえ)ことにした。というのも、()()(じま)さんにもらった(かさ)をさしてみると、()どもに人気(にんき)のゲームキャラクターが(おお)きくプリントされていたからだ。(おも)わずつぶやいた。

小田島(おだじま)さん、ちょっとどころかド派手(はで)じゃないですか……」

()ずかしくて、ずっとこの(かさ)をさして(かえ)()にはなれなかった。

 バスはけっこう()んでいたが、なんとか(すわ)れた。ただ、途中(とちゅう)から(おとこ)()()れたおばあさんが()ってきたので(せき)(ゆず)ってあげた。おばあさんは丁寧(ていねい)にお(れい)()って(おとこ)()(すわ)らせた。まだ(あめ)()まなかった

近所(きんじょ)のバス(てい)()くと、おばあさんと(おとこ)()もいっしょに()りた。バス(てい)には屋根(やね)がついている。ぼくはド派手(はで)(かさ)()られたくなくて、そこでみんながいなくなるのを(すこ)()つことにした。すると、おばあさんがだれかに電話(でんわ)をかけはじめた。だが、なかなかつながらないらしく、となりで(おとこ)()(しん)(ぱい)そうにしている。どうやら(かさ)()っていないので、(むか)()ぼうとしているようだ。

ぼくは握手(あくしゅ)をするように(みじか)(あいだ)世話(せわ)になった(かさ)()をぎゅっと(にぎ)った。

「ねえ、ぼく。この(かさ)()て」

()って、(おとこ)()(まえ)でかがむと、(かさ)(ひら)いた

「わあー、パケモン!」

 (おとこ)()はうれしそうにさけんだ。

「これ、あげる」

 すると、おばあさんが「え、そんな……」と()った。

「いいんです。ぼくの()んでるアパートはすぐそこなので、(はし)っていけば大丈夫(だいじょうぶ)です」

本当(ほんとう)にいいんですか」

「ええ」

 (おとこ)()(かさ)()(わた)すと、どしゃぶりの(あめ)(なか)()()した。

本当(ほんとう)は、アパートは「すぐそこ」というほど(ちか)くはなかった。だから、部屋(へや)()いた(とき)(ふく)(くつ)もぐしゃぐしゃに()れてしまった。けど、(わる)気分(きぶん)ではなかった。

 

 翌朝(よくあさ)()()ますと、すっかり(あめ)()がっていた。(あさ)(はん)()べようと(おも)ったが、冷蔵庫(れいぞうこ)(なか)(から)っぽだったので、近所(きんじょ)のコンビニへ()くことにした。

 おにぎり2()とインスタント味噌汁(みそしる)()って(みせ)()た。すると、駐車場(ちゅうしゃじょう)

「あー! 昨日(きのう)のおにいちゃんだ!」

(ゆび)をさされた。

 昨日(きのう)(かさ)をあげた(おとこ)()だった。そのとなりにはスーツを()女性(じょせい)()っていた。

ぼくが「どうも」と(かる)くお辞儀(じぎ)をすると、その女性(じょせい)(ちか)づいて()深々(ふかぶか)(あたま)()げた。

昨日(きのう)(はは)息子(むすこ)大変(たいへん)世話(せわ)になりました。バスの(なか)(せき)(ゆず)っていただいただけでなく、(かさ)までいただいて、(なん)とお(れい)(もう)したらいいか」

「いえいえ、そんな(たい)したことはしてません」

昨日(きのう)(きゅう)仕事(しごと)(はい)ってしまって、田舎(いなか)から()ていた(はは)にこの()世話(せわ)(たの)んだんですが、この()が『チョコレートパフェが()べたい』ってわがまま()ったみたいで、二人(ふたり)(かさ)()たずに(まち)まで()かけ()って……。(むか)えにも()けなくて、(こま)っていたらしいので、本当(ほんとう)(たす)かりました」

「そうでしたか」

(はは)もこんな親切(しんせつ)(ひと)がいるのかって感心(かんしん)していました。それに、この()(かさ)をすっかり()()ったようで……あの(かさ)本当(ほんとう)にいただいてもよろしいんですか?」

「ええ、もちろんかまいません」

「そうですか。では、ありがたく頂戴(ちょうだい)します。ですが、(なに)かお(かえ)しさせてください。いつでもけっこうですので、ここにいらしてください」と名刺(めいし)をくれた。

それからおじぎをすると、息子(むすこ)()れてコンビニへ入っていった。

名刺(めいし)には彼女(かのじょ)名前(なまえ)とドイツ()のような()店名(てんめい)()かれていた。(なん)(みせ)かわからないが、彼女(かのじょ)肩書(かたがき)は「支店長(してんちょう)」となっている。たしかに(しごと)ができそうな(ひと)だった。

 おにぎりを()べて、掃除機(そうじき)をかけ、たまっていた洗濯物(せんたくもの)()す。スーパーに()って一週間(いっしゅうかん)(ぶん)(しょく)(りょう)()って()ると、(とく)にすることがなくなった。いつもなら、(ほん)()んだり(えい)()()たりするのだが、天気(てんき)もいいし、散歩(さんぽ)がてらその(みせ)()ってみることにした。

 

 その(みせ)繁華街(はんかがい)中心(ちゅうしん)にあった。ずいぶん立派(りっぱ)(みせ)(がま)えだったので、(すこ)緊張(きんちょう)しながら(みせ)(はい)った。

ショーケースに高級(こうきゅう)そうな(うで)時計(どけい)がずらりと(なら)んでいた。どうやらドイツ(せい)(うで)時計(どけい)(みせ)のようだ。もう(すこ)しちゃんとした格好(かっこう)()ればよかったと後悔(こうかい)したが、もう(おそ)い。とりあえず(しろ)手袋(てぶくろ)をした店員(てんいん)(あさ)もらった名刺(めいし)()せ、彼女(かのじょ)がいるかどうか()いてみた。

失礼(しつれい)ですが、アポイントはお()りになっていらっしゃいますか」

「あ、いえ」

承知(しょうち)しました。ただいま、確認(かくにん)いたします。失礼(しつれい)ですが、お名前(なまえ)は……」

長谷川(はせがわ)です」

少々(しょうしょう)()ください」

 ぼくはずいぶん失礼(しつれい)なことをしているような()がしてきた。()まずい空気(くうき)(なか)店内(てんない)をうろうろしていると、彼女(かのじょ)がヒールを()らしてやってきた。

(さっ)(そく)()くださったんですね。ありがとうございます」

「ちょうど(ひま)だったもので」

「そう。(なに)()()った時計(とけい)がありましたか?」

「あ、いや」

「ぜひお(れい)一本(いっぽん)プレゼントさせてください」

「えっ!」

彼女(かのじょ)(ちか)いた店員(てんいん)()と、(なに)指示(しじ)をして、(うで)時計(どけい)(いっ)(ぽん)()ってこさせた。

「こちらの(あたら)しいタイプなんかいかがですか。(わか)(かた)()()し、仕事(しごと)でもプライベートでも使(つか)えていいと(おも)いますよ。それに……

彼女(かのじょ)説明(せつめい)延々(えんえん)(つづ)いた。(おな)(いっ)(ぽん)でも、(かさ)一本(いっぽん)(うで)時計(どけい)一本(いっぽん)では()()わないだろうと(おも)ったが、ぼくは(ことわ)るタイミングをすっかり(うしな)っていた。()()くと、ぼくは彼女(かのじょ)(さい)(しょ)におすすめしてくれた()(けい)(うで)()いて(みせ)()ていた。

 

 (よくじつ)日曜日(にちようび)昨日(きのう)もらった(うで)時計(どけい)をして()かけた大学(だいがく)時代(じだい)後輩(こうはい)から、(つと)めていた事務所(じむしょ)()め、独立(どくりつ)して自分(じぶん)会計(かいけい)事務所(じむしょ)(ひら)いたという葉書(はがき)(とど)いていた。それで、お(いわ)いかたがた、のぞきに()くことにしたのだ。

 事務所(じむしょ)はオフィス(がい)のビルの2(かい)にあった。

「おう、小林(こばやし)。おめでとう」

()ってきたお菓子(かし)(わた)した。

「わざわざすみません。ご(らん)(とお)り、まだ全然(ぜんぜん)片付(かたづ)いていませんが、ゆっくりしていってください」

 たしかに部屋(へや)(なか)(だん)ボールであふれていた。もう(すこ)時間(じかん)()いてから()ればよかったかもしれない。

(おく)さんは元気(げんき)?」

()いてみると、

「いやあ、(じつ)(いま)妊娠中(にんしんちゅう)でして。本当(ほんとう)はいろいろ手伝(てつだ)ってもらいたかったんですが」

(にが)(わら)いで(かえ)した。

「へえー、おめでたいね」

「ええ。ところが、そう単純(たんじゅん)(よろこ)んでいられなくて……。双子(ふたご)なんですよ」

「へえー、じゃあ、ますますおめでたいじゃない」

「とんでもない。双子(ふたご)()(そだ)てが大変(たいへん)だって()いたことありませんか。独立(どくりつ)したばかりで仕事(しごと)もがんばらなきゃいけない(とき)なのに……本当(ほんとう)にタイミングが(わる)くて……」

 結婚(けっこん)()(そだ)もぼくには当分(とうぶん)(えん)がなさそうな(はなし)だが、小林(こばやし)()()んでいるのはよくわかった。

「あまり(くら)(かお)するなよ。(きゃく)()なくなるぞ」

「はい。……ところで、先輩(せんぱい)仕事(しごと)うまくいってるんですか。ずいぶん高級(こうきゅう)そうな時計(とけい)してますが」

 ぼくが昨日(きのう)(おぼ)えたばかりのドイツ()店名(てんめい)()うと、(かれ)()(まる)くした。そのブランドを()っているようだ。

「ほしい?」

「ええ。でも、とても()えませんよ……」と苦笑(にがわら)いした。

 ぼくは時計(とけい)(はず)して、()(ばやし)にわたした。

「これ、やるよ。小林(こばやし)、おまえ、社長(しゃちょう)になったんだから、いい時計(とけい)をしないと。それに、もし(かね)(こま)ったときは、これを質屋(しちや)()ればいい。中古(ちゅうこ)だけど3万円(まんえん)ぐらいになるだろ?」

長谷川(はせがわ)先輩(せんぱい)(なに)()ってるんですか。これ、3(まん)どころか、30(まん)はしますよ。そんな(たか)いもの、もらえませんよ。お(かえ)しします」

「えっ!? そんなにするの? ……いいから、もらっとけ! それに、それ、もらいものなんだ」

「もらいもの? じゃ、なおさら、あげちゃまずいじゃないですか」

「う~ん。そうじゃないんだ。あげる運命(うんめい)なんだよ。きっと。」

運命(うんめい)?」

「そう。そして、おれは()わりに(なに)かをもらう運命(うんめい)……」

 (だん)ボールだらけの部屋(へや)()(まわ)すと、(すみ)(ほう)野球(やきゅう)のバットが()いてあった。ソファーから()()がって、そのバットをつかんでみる。(ふる)()のバットだ。

「なあ、小林(こばやし)。このバット、もらってもいいか?」

「え、はい。泥棒(どろぼう)()たときのためにって実家(じっか)()いてあったのを()ってきただけですから、(べつ)にほしかったら、どうぞ」

「よし。じゃあ、このバットとその(うで)時計(どけい)交換(こうかん)だ」

「えっ!?」

「おれ、高校(こうこう)時代(じだい)野球部(やきゅうぶ)だったんだ。最近(さいきん)、なんか運動(うんどう)不足(ぶそく)で、ちょうどバットがほしいなあって(おも)ってたんだよ」

「うそだー! (まえ)高校(こうこう)じゃサッカー()だったって()ってたじゃないですか!」

 小林(こばやし)(たの)しそうに(こえ)をあげて(わら)た。それから、大学(だいがく)時代(じだい)(おも)()(はなし)や、その(ころ)仲間(なかま)(はなし)をしたりした。(くら)(かお)をしていた小林(こばやし)が、すっかりいつもの(あか)るい小林(こばやし)(もど)っていた。

(かえ)るとき、(うで)()(けい)をテーブルの(うえ)()いたままバットを()って()こうとすると、

本気(ほんき)だったんですか!?」

(おどろ)かれた。

 

 事務所(じむしょ)()たあと、ラーメンを()べ、そのままバッティングセンターに()かった。

200(えん)20(きゅう)機械(きかい)()げるボール()つだけだが、(あん)(がい)(たの)しくて、ストレス解消(かいしょう)になる。それに、100km/h()える(たま)()のはなかなか(むずか)しく、うまく()たったときは爽快(そうかい)だ。バッティングセンターに()たのは(ひさ)しぶりだが、以前(いぜん)毎週(まいしゅう)のように(かよ)っていた。

 コインを()れ、バッターボックスで(もく)(せい)バットを(かま)えた。けっこう(おも)いので、()れるのに(すこ)()(かん)がかかったが、だんだん(しん)()たるようになった。(つづ)けて1000円分(えんぶん)バットを()ると、さすがにくたびれた。(すこ)しベンチに(すわ)って(やす)むことにした。

(すず)しい(かぜ)()いてきた。しばらくぼうっとしていると、となりに(すわ)っていたおじいさんが(はな)しかけてきた。

「さっきのホームラン、見事(みごと)でしたよ」

「あ、(おそ)()ります

(さい)()()った(いっ)(ぱつ)は、自分(じぶん)でもびっくりするぐらいの()たりで、ずいぶん(とお)くまでボールが()んでいった。

「わたしはとなりのゴルフの練習場(れんしゅうじょう)(かよ)ってるんですが、(つか)れるとこっちに()て、こうやってだれかのバッティングをぼんやり(なが)めてるんですよ」

「ああ、そうでしたか。野球(やきゅう)がお()きなんですか?」

「ええ。わしらの少年(しょうねん)時代(じだい)はみんな野球(やきゅう)()(ちゅう)でした。(とく)中島(なかじま)(あきら)大活躍(だいかつやく)した時代(じだい)ですからね」

中島(なかじま)(あきら)()えば、あのホームラン(おう)ですね」

 サッカー()のぼくでももちろん()っている(ちょう)(ゆう)(めい)()(きゅう)(せん)(しゅ)だ。

「そう。試合(しあい)()()ったときのことは、(いま)でもよく(おぼ)えていますよ」

 おじいさんは本当(ほんとう)中島(なかじま)(あきら)()なようで、(はなし)()まらなかった

「そうそう。中島(なかじま)もそんな(かん)じのバットを使(つか)っていました」

()って、ぼくの()っていたバットに()をやった。ぼくも(あらた)てバットを()てみると、()(なか)のあたりが(くろ)(よご)れていた。

「よかったら、()ってみますか」

とバットを()(わた)すと、おじいさんはすっと()ってバッティングの(かま)えをした。そして、(おお)きくバットを()った。(とし)のわりにはしっかりしたスイングだ。

「ははは、これじゃ、ホームランは()てませんねえ」

「いやいや、なかなかいいスイングでしたよ」

 そのとき、おじいさんは()っていたバットを(かえ)そうとして、(うご)きを()めた。

「ん? これは……」

「え、どうかしましたか?」

 おじいさんは()()(ひら)いた。

「こ、これは中島(なかじま)のサインじゃないか!」

「えっ!?」

 バットの(くろ)(よご)れていると(おも)ったところは、(じつ)はサインが()かれていたのだ。

「まさか本人(ほんにん)使(つか)っていたバット…… きみ! だめじゃないか! こんなありがたいバットをバッティングセンターで使(つか)うなんて!」

 さっきまで上品(じょうひん)(はな)(かた)をしていた(おだ)やかなおじいさんが、(きゅう)(おこ)()した

「すみません! ()らなかったんです。そんな貴重(きちょう)なものだとは……」

 それから、しばらくおじいさんはじっとバットを()つめていた。()()くと、おじいさんの()には(なみだ)()んでいた。きっと少年(しょうねん)のころを(おも)()しているのだろう。ぼくの(こころ)はもう()まっていた。

「おじいさん、そのバットさしあげます」

「い、いいんですか。ゆずっていただけるなら、お(かね)()しますが」

「いえ、お(かね)はけっこうです」

「しかし、タダでもらうというわけにはいきません。ただ、(いま)現金(げんきん)はあまり()っていなくて……(こま)ったなあ……」

 おじいさんは(かんが)()んだ。その(あいだ)にぼくも(かんが)えた。

ぼくは(なに)(のぞ)んでいるんだろう。(かん)コーヒーから(はじ)まって、コンサートチケット、(かさ)時計(とけい)、バット。もらったものをあげただけで、(たい)したことはしていないのに、みんな(よろこ)んでくれた。ぼくはその(あいだ)にたくさんの(おも)いがけない経験(けいけん)ができて、(たの)しい(しゅう)(まつ)()ごせた。これで、もう(じゅう)(ぶん)なんじゃないか。

 ベンチのとなりに自動(じどう)販売機(はんばいき)があった。ぼくは、おじいさんに

(かん)コーヒーをおごってくれませんか?」

()った。

(かん)コーヒー?」

「ええ、この自動(じどう)販売機(はんばいき)でコーヒーを1(ぽん)ごちそうしてくれれば、それで十分(じゅうぶん)です」

 おじいさんはしばらく不思議(ふしぎ)そうな(かお)をしていたが、

(なが)()きていると、こういうこともあるのか……。では、神様(かみさま)からのプレゼントだと(おも)って、ありがたくいただくことにするよ」

最後(さいご)はにっこり(わら)って、(かん)コーヒーを()ってくれた。

 ぼくは(こころ)(なか)で「その神様(かみさま)はきっと交差点(こうさてん)神様(かみさま)ですよ」とつぶやいた。

おじいさんは自分(じぶん)(ぶん)もコーヒーを()うと、記念(きねん)写真(しゃしん)()ろうと()()した。ただ、おじいさんはケータイの使(つか)(かた)がよくわからないようで、結局(けっきょく)、ぼくのケータイで写真(しゃしん)()っておじいさんに(おく)ることになった。

(よる)、ベッドで水色(みずいろ)(かん)コーヒーで乾杯(かんぱい)しているふたりの写真(しゃしん)(なが)めた。やっぱり()ぐせを(なお)しておけばよかったと後悔(こうかい)した。

 

月曜日(げつようび)(あさ)は、いつもより(はや)()()めた。(ちょう)(しょく)(たまご)()いて、コーヒーを()れた。それを、テレビを()ながら、ゆっくり()べた。(しょっ)()(あら)うと、丁寧(ていねい)にひげをそり、()ぐせを(なお)した。いつもの時間(じかん)交差点(こうさてん)()くように、いつもの時間(じかん)(いえ)()た。

交差点(こうさてん)()こうにスーツ姿(すがた)彼女(かのじょ)がいた。(いま)のぼくは偶然(ぐうぜん)彼女(かのじょ)がハンカチを()とすことを()(たい)しなくてもいい。今日(きょう)なら彼女(かのじょ)(はな)しかけられる()がした。

 信号(しんごう)(あお)()わる。彼女(かのじょ)がこちらに()かって(ある)いてくる。心臓(しんぞう)(おと)(おお)きく()る。

信号(しんごう)(わた)らずにいるぼくを()たら、彼女(かのじょ)はちょっと(へん)(おも)うかもしれない。でも、きっと大丈夫(だいじょうぶ)。もらったものを(かえ)すだけだ。

あと5mのところまで(ちか)づいてきた。(ゆう)()()(しぼ)って

「あのう。ちょっといいですか」

(こえ)をかけた。

彼女(かのじょ)は、ぼくの()(まえ)()ちどまり、にこっと(わら)って

長谷川(はせがわ)さん、ですよね?」と()った。

(しん)じられない。(いち)()()をつぶってみたが、それは現実(げんじつ)だった。

「どうしてぼくの名前(なまえ)を?」

祖父(そふ)(おし)えてもらいました。昨日(きのう)(ばん)祖父(そふ)()せてくれたんです。ふたりが(かん)コーヒーで乾杯(かんぱい)している写真(しゃしん)を」

「もしかして、あのおじいさんのお(まご)さん?」

「はい。びっくりしました。まさか毎日(まいにち)この交差点(こうさてん)ですれちがう(ひと)が、祖父(そふ)といっしょに写真(しゃしん)(うつ)っているなんて」

(おぼ)えていてくれたんですか。ぼくのこと?」

「ええ。すぐわかりました。()ぐせの(ひと)だって。あ、すみません。今日(きょう)(ちが)いますね」

「……」

うれしいやら()ずかしいやら複雑(ふくざつ)気分(きぶん)だ。

「おじいちゃん、バットをもらってすごく(よろこ)んでいました。まるで()どもみたいに。本当(ほんとう)にありがとうございました」

「いや、本当(ほんとう)(たい)したことはしてないんです。それに、もともとはきみのおかげだから」

「えっ、わたしのおかげ?」

「うん。でも、これはちょっと(なが)くて複雑(ふくざつ)(はなし)になるから、よかったら今度(こんど)どこかでゆっくり(はな)しませんか。コーヒーでも()みながら」

 

(かん)


5 comments:

  1. いつも面白い話を書いてくれてありがとうございます。この話も楽しんで読ませていただきました。昔話の「わらしべ長者」に似ていますね!ブログで英語のブックレビューを書きました。
    https://dokushoclub.com/2022/07/11/n2-koohii-nominagara/

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    1. Arineさん、コメントをありがとうございます。たしかに、この作品は「わらしべ長者」をもとにして書きました。ただ、昔と違って物があふれる現代で、本当にうれしい贈り物とは何か考えるのが大変でした。ブックレビューも読みましたよ。同じ人物の話し方が相手によっていろいろ変わるというのは、自分では意識していなかったので、おもしろい発見でした。

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  2. 「巡り往くもの、 また巡り還る」 と言われています。このフィクションは、カナダで起こった実話に似ている。しかし、この語は、受け取る欲よりも、与える喜びについて語られているので、より楽しめました。長谷川さんが最後に100万円をもらうと思っていました。しかし、遠藤先生の''財''という概念は、遠藤先生の悟りの境地で、賢明な思想の証明です。

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    1. 楽しんで読んでくれてうれしいです。カナダの赤いクリップの話ですね。わたしもこの話を書いた後に知りました。この話は「わらしべ長者」という話をもとにしていますが、もともとはインドの方から伝わったとか。私はまだまだ悟りの境地には達していませんが、長谷川君はきっと何かを学んだのだと思います。

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    2. あ!この話、半年ぐらい前に読みました。ここでも、不要な持ち物を他人と交換するという一つところで3つの物語が会うのだが、赤いクリップもわらしべ長者も、大きな家に大きな価値を与え、紙クリップやわらしべを過小評価する一点突破の視点を持っているのだ。例えるなら、主人公が金髪の女の子と結婚することになるような話だ。主人公はみんな美人でなければならないとか、肌の色が決まっていなければならないとか、美の視点は一つです。遠藤先生のお話で私が好きなのは、社会で一般的に価値があるものでなく、本当に必要なものを手に入れるという発想にひねりを加えているところです。

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