毎朝、ある女性と大通りの交差点ですれちがう。たぶん年はぼくと同じくらいだろう。特に美人というわけではないけれど、はじめて見かけたときから、どこか心ひかれるものがあった。
話しかけてみたいと思うが、通勤途中に声をかけて、そのせいで遅刻させてしまったら申し訳ない。彼女はいつも急いでいるようだし、ぼくもときどき寝ぐせがついていたりする。けど、実際は、彼女は次の信号で止まらないように急いでいるだけかもしれないし、寝ぐせは完全にぼくの責任だ。つまり、ぼくには勇気がないのだ。
毎朝、交差点で信号を待ちながら、通りの向こうにいる彼女を眺めている。すれちがうときにハンカチでも落としてくれないかなんて願いながら。ただ、もしそんなことが起きたとしても、「落としましたよ」、「あっ、ありがとうございます」というやりとりだけで、それ以上の会話は続かず終わってしまうだろう。
だから、とりあえず今は、そんなふうに思える人がぼくの日々の生活の中に存在するだけで十分だ。ぼくは交差点の神様に祈る。「明日もまた彼女に会えますように」と。
その日、ぼくは寝坊して、寝ぐせ頭のまま、あわてて家を出た。その交差点までは歩いて15分。いつもの時間には間に合いそうにない。
ところが、交差点に着くと、その日に限って彼女は信号機の前にある自動販売機で何か飲み物を買っていた。遠くて何を買っているかはわからなかったが、後ろ姿で彼女だとわかった。
信号が青になり、いつものように交差点へ歩き出す。一瞬彼女と目が合ったような気がした。
渡り終えてちらっと振り返ると、彼女は何事もなかったかのように遠ざかっていく。実際、自動販売機で飲み物を買って、いつもより少し遅い時間にぼくとすれちがっただけで、彼女には特に何も起きていない。そのとき、
「おめでとうございます!」と声をかけられて、どきっとした。
自動販売機だった。「777」という数字が表示されている。どうやらこの自動販売機は飲み物を買うとルーレットが回って、「777」のように数字が3つそろうと当たりで、好きな飲み物がもう1本もらえるらしい。
ということは、これは彼女が買ったときに当たったものだ。でも、彼女はそれには気づかずに交差点を渡って行ってしまったのだ。もう信号は赤だ。今さら呼びに行くわけにはいかない。この自動販売機の当たりもそのうち消えてしまうだろう。仕方がない。ぼくは一番下の段の右から2番目にあった水色の缶コーヒーのボタンを押した。
今日は金曜日だから、次に彼女に会うのは月曜日だ。けど、月曜の朝にこの缶コーヒーを渡したとしても彼女は喜んではくれないだろう。むしろ、怪しい男だと嫌われてしまうかもしれない。しかも、あまり考えずに押したから、それは砂糖とミルクの入った甘いコーヒーだった。ぼくは、コーヒーはブラックで飲む。甘いコーヒーはあまり好きじゃない。
そんなことを考えながら歩いていたら会社に着いた。入口の前で警備員のおじさんが眠そうな顔で「おはようございます」とあいさつをしてきた。
ぼくはカバンから缶コーヒーを取り出した。
「おはようございます。あのう、もしよかったら、これ、どうぞ。お仕事、お疲れ様です」
「え、いいんですか?」
「ええ、なんか眠そうだし」
「すみません。ありがとうございます」
警備員のおじさんはうれしそうに受け取った。どうせ偶然手に入れたものだ。だれかの役に立つなら、そのほうがいい。
タイムカードを押して、トイレで寝ぐせを直すと、仕事を始めた。メールをチェックした後、30分ほど打ち合わせをした。それから午前中に取引先に行く予定が入っていたので、外出することにした。すると、エレベーターを降りたところで、さきほどの警備員のおじさんに声をかけられた。
「先ほどはコーヒー、ごちそうさまでした」
「いえいえ、気にしないでください」
「お礼と言ってはなんですけど、これ、もらってくれませんか?」
と言って、チケットを2枚差し出してきた。
「えっ、これは?」
「クラシックのコンサートのチケットです。本当は、今晩、家内と聴きに行く予定だったんですが、ゆうべ家内がぎっくり腰になって行けなくなってしまって……」
「そうだったんですか」
今朝眠そうにしていたのは、そういうわけか。
「私一人で行くわけにもいかないし……。今晩、何か用事がありますか?」
「いえ、特に」
「じゃあ、ぜひ行ってみてください。すばらしいですよ」
「そうですか。じゃあ、遠慮なくいただきます。ありがとうございます」
クラシックにはあまり興味はないけど、せっかくだから行ってみようかと思った。
昼休みに先輩の小田島さんと会社近くのトンカツ屋に行った。二人ともカツ丼を注文して待っている間、小田島さんがこんなことを言い出した。
「なあ、長谷川。おれ、今晩彼女と食事に行くんだけど、どこかどおしゃれな店、知らない?」
「小田島さん、彼女がいないぼくがおしゃれな店を知ってると思いますか?」
「そうだよなあ。知ってるわけないか。あーあ、もう彼女とは長い付き合いだから、デートで行くところなんてだいたい決まってて、いちいち考えたりしないんだよね。なのに、突然『たまに違うところに行きたい』なんて言うから困っちゃうよ」
「ふうん、つまり、先輩とのデートに飽きたってことですか?」
「そう。それか、おれに飽きたってことかも」
小田島さんは本気なのか冗談なのかわからない顔でため息をついた。ふとさっきのチケットのことを思い出した。
「ねえ、小田島さん。クラシックのコンサートって行ったことありますか?」
「クラシック? ないよ。クラシックなんか学校の音楽の授業で聴いて以来」
「じゃあ、もちろんデートで行ったこともありませんよね?」
「もちろん」
ぼくはスーツの内ポケットからチケットを差し出した。
「何だよ。それ?」
「今晩、このクラシックのコンサートに行ってください! すばらしいですよ。彼女もきっと喜ぶはずです」
「え、いいの? でも……寝ちゃうかも」
「ダメです。今すぐメールで誘ってください」
「……わかったよ。でも高いだろ?」
「タダでいいです」
「ほんと? じゃ、遠慮なく」
そう言うと、小田島さんはチケットを受け取り、すぐにケータイでメールを打った。そして、ちょうどカツ丼を食べ終えたとき、小田島さんのケータイが鳴った。彼女からの返信だ。
「おお、なんかすごく喜んでるぞ! ハートマークとか絵文字がたくさんついてる。長谷川、ありがとう!」
「よかったですね。でも、小田島さん、絶対にコンサート中、居眠りしないでくださいよ」
夕方、急に雨が降り出した。朝慌てて出てきたので、天気予報を見ていなかった。
仕方ない。近くのコンビニまで走って行って、ビニール傘でも買おうか。
ため息をつくと、窓の近くに立っていた小田島さんが近づいて来た。
「長谷川、どうした? ため息なんかついて。そんなにデートできるおれがうらやましいのか? おまえも早く彼女見つけろよ」
「そんなんじゃないですよ。ただ傘を忘れただけですから」
「なんだ。傘か……あっ、そうだ!」
小田島さんはロッカーのほうに行き、何やらがさがさ探し始めた。そしてしばらくすると、手に紫色の傘を持って戻ってきた。
「ほら、さっきのチケットのお礼だ。やるよ」
「いいんですか?」
「ああ。去年の忘年会のときにビンゴゲームやっただろ。そのときに、もらった傘だ。ちょっと派手だから、置き傘にしてたんだ。でも新品だぞ」
「いいんですか。ありがとうございます」
小田島さんは腰に手を当て、満足そうに「うんうん」とうなずいた。
終業時間になると、小田島さんはすぐに会社を出ていった。ぼくは雨が降っていても、いつもなら歩いて帰るが、今日はバスで帰ることにした。というのも、小田島さんにもらった傘をさしてみると、子どもに人気のゲームキャラクターが大きくプリントされていたからだ。思わずつぶやいた。
「小田島さん、ちょっとどころかド派手じゃないですか……」
恥ずかしくて、ずっとこの傘をさして帰る気にはなれなかった。
バスはけっこう込んでいたが、なんとか座れた。ただ、途中から男の子を連れたおばあさんが乗ってきたので席を譲ってあげた。おばあさんは丁寧にお礼を言って男の子を座らせた。まだ雨は止まなかった。
近所のバス停に着くと、おばあさんと男の子もいっしょに降りた。バス停には屋根がついている。ぼくはド派手な傘を見られたくなくて、そこでみんながいなくなるのを少し待つことにした。すると、おばあさんがだれかに電話をかけはじめた。だが、なかなかつながらないらしく、となりで男の子が心配そうにしている。どうやら傘を持っていないので、迎えを呼ぼうとしているようだ。
ぼくは握手をするように短い間世話になった傘の柄をぎゅっと握った。
「ねえ、ぼく。この傘、見て」
と言って、男の子の前でかがむと、傘を開いた。
「わあー、パケモン!」
男の子はうれしそうにさけんだ。
「これ、あげる」
すると、おばあさんが「え、そんな……」と言った。
「いいんです。ぼくの住んでるアパートはすぐそこなので、走っていけば大丈夫です」
「本当にいいんですか」
「ええ」
男の子に傘を手渡すと、どしゃぶりの雨の中へ駆け出した。
本当は、アパートは「すぐそこ」というほど近くはなかった。だから、部屋に着いた時、服も靴もぐしゃぐしゃに濡れてしまった。けど、悪い気分ではなかった。
翌朝、目を覚ますと、すっかり雨は上がっていた。朝ご飯を食べようと思ったが、冷蔵庫の中は空っぽだったので、近所のコンビニへ行くことにした。
おにぎり2個とインスタント味噌汁を買って店を出た。すると、駐車場で
「あー! 昨日のおにいちゃんだ!」
と指をさされた。
昨日傘をあげた男の子だった。そのとなりにはスーツを着た女性が立っていた。
ぼくが「どうも」と軽くお辞儀をすると、その女性は近づいて来て深々と頭を下げた。
「昨日は母と息子が大変お世話になりました。バスの中で席を譲っていただいただけでなく、傘までいただいて、何とお礼を申したらいいか」
「いえいえ、そんな大したことはしてません」
「昨日は急な仕事が入ってしまって、田舎から来ていた母にこの子の世話を頼んだんですが、この子が『チョコレートパフェが食べたい』ってわがまま言ったみたいで、二人で傘も持たずに街まで出かけ行って……。迎えにも行けなくて、困っていたらしいので、本当に助かりました」
「そうでしたか」
「母もこんな親切な人がいるのかって感心していました。それに、この子も傘をすっかり気に入ったようで……あの傘、本当にいただいてもよろしいんですか?」
「ええ、もちろんかまいません」
「そうですか。では、ありがたく頂戴します。ですが、何かお返しさせてください。いつでもけっこうですので、ここにいらしてください」と名刺をくれた。
それからおじぎをすると、息子を連れてコンビニへ入っていった。
名刺には彼女の名前とドイツ語のような字で店名が書かれていた。何の店かわからないが、彼女の肩書は「支店長」となっている。たしかに仕事ができそうな人だった。
おにぎりを食べて、掃除機をかけ、たまっていた洗濯物を干す。スーパーに行って一週間分の食料を買って来ると、特にすることがなくなった。いつもなら、本を読んだり映画を見たりするのだが、天気もいいし、散歩がてらその店に行ってみることにした。
その店は繁華街の中心にあった。ずいぶん立派な店構えだったので、少し緊張しながら店に入った。
ショーケースに高級そうな腕時計がずらりと並んでいた。どうやらドイツ製の腕時計の店のようだ。もう少しちゃんとした格好で来ればよかったと後悔したが、もう遅い。とりあえず白い手袋をした店員に朝もらった名刺を見せ、彼女がいるかどうか聞いてみた。
「失礼ですが、アポイントはお取りになっていらっしゃいますか」
「あ、いえ」
「承知しました。ただいま、確認いたします。失礼ですが、お名前は……」
「長谷川です」
「少々お待ちください」
ぼくはずいぶん失礼なことをしているような気がしてきた。気まずい空気の中、店内をうろうろしていると、彼女がヒールを鳴らしてやってきた。
「早速来てくださったんですね。ありがとうございます」
「ちょうど暇だったもので」
「そう。何か気に入った時計がありましたか?」
「あ、いや」
「ぜひお礼に一本プレゼントさせてください」
「えっ!」
彼女は近くいた店員を呼ぶと、何か指示をして、腕時計を一本持ってこさせた。
「こちらの新しいタイプなんかいかがですか。若い方に似合うし、仕事でもプライベートでも使えていいと思いますよ。それに……」
彼女の説明は延々と続いた。同じ一本でも、傘一本と腕時計一本では釣り合わないだろうと思ったが、ぼくは断るタイミングをすっかり失っていた。気が付くと、ぼくは彼女が最初におすすめしてくれた時計を腕に巻いて店を出ていた。
翌日の日曜日、昨日もらった腕時計をして出かけた。大学時代の後輩から、勤めていた事務所を辞め、独立して自分の会計事務所を開いたという葉書が届いていた。それで、お祝いかたがた、のぞきに行くことにしたのだ。
事務所はオフィス街のビルの2階にあった。
「おう、小林。おめでとう」
買ってきたお菓子を渡した。
「わざわざすみません。ご覧の通り、まだ全然片付いていませんが、ゆっくりしていってください」
たしかに部屋の中は段ボールであふれていた。もう少し時間を置いてから来ればよかったかもしれない。
「奥さんは元気?」
と聞いてみると、
「いやあ、実は今妊娠中でして。本当はいろいろ手伝ってもらいたかったんですが」
と苦笑いで返した。
「へえー、おめでたいね」
「ええ。ところが、そう単純に喜んでいられなくて……。双子なんですよ」
「へえー、じゃあ、ますますおめでたいじゃない」
「とんでもない。双子は子育てが大変だって聞いたことありませんか。独立したばかりで仕事もがんばらなきゃいけない時なのに……本当にタイミングが悪くて……」
結婚も子育てもぼくには当分縁がなさそうな話だが、小林が落ち込んでいるのはよくわかった。
「あまり暗い顔するなよ。客も来なくなるぞ」
「はい。……ところで、先輩は仕事うまくいってるんですか。ずいぶん高級そうな時計してますが」
ぼくが昨日覚えたばかりのドイツ語の店名を言うと、彼は目を丸くした。そのブランドを知っているようだ。
「ほしい?」
「ええ。でも、とても買えませんよ……」と苦笑いした。
ぼくは時計を外して、小林にわたした。
「これ、やるよ。小林、おまえ、社長になったんだから、いい時計をしないと。それに、もし金に困ったときは、これを質屋で売ればいい。中古だけど3万円ぐらいになるだろ?」
「長谷川先輩、何言ってるんですか。これ、3万どころか、30万はしますよ。そんな高いもの、もらえませんよ。お返しします」
「えっ!? そんなにするの? ……いいから、もらっとけ! それに、それ、もらいものなんだ」
「もらいもの? じゃ、なおさら、あげちゃまずいじゃないですか」
「う~ん。そうじゃないんだ。あげる運命なんだよ。きっと。」
「運命?」
「そう。そして、おれは代わりに何かをもらう運命……」
段ボールだらけの部屋を見回すと、隅の方に野球のバットが置いてあった。ソファーから立ち上がって、そのバットをつかんでみる。古い木のバットだ。
「なあ、小林。このバット、もらってもいいか?」
「え、はい。泥棒が来たときのためにって実家に置いてあったのを持ってきただけですから、別にほしかったら、どうぞ」
「よし。じゃあ、このバットとその腕時計を交換だ」
「えっ!?」
「おれ、高校時代、野球部だったんだ。最近、なんか運動不足で、ちょうどバットがほしいなあって思ってたんだよ」
「うそだー! 前に高校じゃサッカー部だったって言ってたじゃないですか!」
小林は楽しそうに声をあげて笑った。それから、大学時代の思い出話や、その頃の仲間の話をしたりした。暗い顔をしていた小林が、すっかりいつもの明るい小林に戻っていた。
帰るとき、腕時計をテーブルの上に置いたままバットを持って行こうとすると、
「本気だったんですか!?」
と驚かれた。
事務所を出たあと、ラーメンを食べ、そのままバッティングセンターに向かった。
200円で20球。機械が投げるボールを打つだけだが、案外楽しくて、ストレス解消になる。それに、100km/hを超える球を打つのはなかなか難しく、うまく当たったときは爽快だ。バッティングセンターに来たのは久しぶりだが、以前は毎週のように通っていた。
コインを入れ、バッターボックスで木製バットを構えた。けっこう重いので、慣れるのに少し時間がかかったが、だんだん芯に当たるようになった。続けて1000円分バットを振ると、さすがにくたびれた。少しベンチに座って休むことにした。
涼しい風が吹いてきた。しばらくぼうっとしていると、となりに座っていたおじいさんが話しかけてきた。
「さっきのホームラン、見事でしたよ」
「あ、恐れ入ります」
最後に打った一発は、自分でもびっくりするぐらいの当たりで、ずいぶん遠くまでボールが飛んでいった。
「わたしはとなりのゴルフの練習場に通ってるんですが、疲れるとこっちに来て、こうやってだれかのバッティングをぼんやり眺めてるんですよ」
「ああ、そうでしたか。野球がお好きなんですか?」
「ええ。わしらの少年時代はみんな野球に夢中でした。特に中島昭が大活躍した時代ですからね」
「中島昭と言えば、あのホームラン王ですね」
サッカー部のぼくでももちろん知っている超有名な野球選手だ。
「そう。試合を見に行ったときのことは、今でもよく覚えていますよ」
おじいさんは本当に中島昭が好きなようで、話が止まらなかった。
「そうそう。中島もそんな感じのバットを使っていました」
と言って、ぼくの持っていたバットに目をやった。ぼくも改めてバットを見てみると、真ん中のあたりが黒く汚れていた。
「よかったら、持ってみますか」
とバットを手渡すと、おじいさんはすっと立ってバッティングの構えをした。そして、大きくバットを振った。年のわりにはしっかりしたスイングだ。
「ははは、これじゃ、ホームランは打てませんねえ」
「いやいや、なかなかいいスイングでしたよ」
そのとき、おじいさんは持っていたバットを返そうとして、動きを止めた。
「ん? これは……」
「え、どうかしましたか?」
おじいさんは目を見開いた。
「こ、これは中島のサインじゃないか!」
「えっ!?」
バットの黒く汚れていると思ったところは、実はサインが書かれていたのだ。
「まさか本人が使っていたバット…… きみ! だめじゃないか! こんなありがたいバットをバッティングセンターで使うなんて!」
さっきまで上品な話し方をしていた穏やかなおじいさんが、急に怒り出した。
「すみません! 知らなかったんです。そんな貴重なものだとは……」
それから、しばらくおじいさんはじっとバットを見つめていた。気が付くと、おじいさんの目には涙が浮かんでいた。きっと少年のころを思い出しているのだろう。ぼくの心はもう決まっていた。
「おじいさん、そのバットさしあげます」
「い、いいんですか。ゆずっていただけるなら、お金は出しますが」
「いえ、お金はけっこうです」
「しかし、タダでもらうというわけにはいきません。ただ、今、現金はあまり持っていなくて……困ったなあ……」
おじいさんは考え込んだ。その間にぼくも考えた。
ぼくは何を望んでいるんだろう。缶コーヒーから始まって、コンサートチケット、傘、時計、バット。もらったものをあげただけで、大したことはしていないのに、みんな喜んでくれた。ぼくはその間にたくさんの思いがけない経験ができて、楽しい週末を過ごせた。これで、もう十分なんじゃないか。
ベンチのとなりに自動販売機があった。ぼくは、おじいさんに
「缶コーヒーをおごってくれませんか?」
と言った。
「缶コーヒー?」
「ええ、この自動販売機でコーヒーを1本ごちそうしてくれれば、それで十分です」
おじいさんはしばらく不思議そうな顔をしていたが、
「長く生きていると、こういうこともあるのか……。では、神様からのプレゼントだと思って、ありがたくいただくことにするよ」
と最後はにっこり笑って、缶コーヒーを買ってくれた。
ぼくは心の中で「その神様はきっと交差点の神様ですよ」とつぶやいた。
おじいさんは自分の分もコーヒーを買うと、記念写真を撮ろうと言い出した。ただ、おじいさんはケータイの使い方がよくわからないようで、結局、ぼくのケータイで写真を撮っておじいさんに送ることになった。
夜、ベッドで水色の缶コーヒーで乾杯しているふたりの写真を眺めた。やっぱり寝ぐせを直しておけばよかったと後悔した。
月曜日の朝は、いつもより早く目が覚めた。朝食に卵を焼いて、コーヒーを入れた。それを、テレビを見ながら、ゆっくり食べた。食器を洗うと、丁寧にひげをそり、寝ぐせを直した。いつもの時間に交差点に着くように、いつもの時間に家を出た。
交差点の向こうにスーツ姿の彼女がいた。今のぼくは偶然彼女がハンカチを落とすことを期待しなくてもいい。今日なら彼女に話しかけられる気がした。
信号が青に変わる。彼女がこちらに向かって歩いてくる。心臓の音が大きく鳴る。
信号を渡らずにいるぼくを見たら、彼女はちょっと変に思うかもしれない。でも、きっと大丈夫。もらったものを返すだけだ。
あと5mのところまで近づいてきた。勇気を振り絞って
「あのう。ちょっといいですか」
と声をかけた。
彼女は、ぼくの目の前で立ちどまり、にこっと笑って
「長谷川さん、ですよね?」と言った。
信じられない。一度目をつぶってみたが、それは現実だった。
「どうしてぼくの名前を?」
「祖父に教えてもらいました。昨日の晩、祖父が見せてくれたんです。ふたりが缶コーヒーで乾杯している写真を」
「もしかして、あのおじいさんのお孫さん?」
「はい。びっくりしました。まさか毎日この交差点ですれちがう人が、祖父といっしょに写真に写っているなんて」
「覚えていてくれたんですか。ぼくのこと?」
「ええ。すぐわかりました。寝ぐせの人だって。あ、すみません。今日は違いますね」
「……」
うれしいやら恥ずかしいやら複雑な気分だ。
「おじいちゃん、バットをもらってすごく喜んでいました。まるで子どもみたいに。本当にありがとうございました」
「いや、本当に大したことはしてないんです。それに、もともとはきみのおかげだから」
「えっ、わたしのおかげ?」
「うん。でも、これはちょっと長くて複雑な話になるから、よかったら今度どこかでゆっくり話しませんか。コーヒーでも飲みながら」
(完)
いつも面白い話を書いてくれてありがとうございます。この話も楽しんで読ませていただきました。昔話の「わらしべ長者」に似ていますね!ブログで英語のブックレビューを書きました。
ReplyDeletehttps://dokushoclub.com/2022/07/11/n2-koohii-nominagara/
Arineさん、コメントをありがとうございます。たしかに、この作品は「わらしべ長者」をもとにして書きました。ただ、昔と違って物があふれる現代で、本当にうれしい贈り物とは何か考えるのが大変でした。ブックレビューも読みましたよ。同じ人物の話し方が相手によっていろいろ変わるというのは、自分では意識していなかったので、おもしろい発見でした。
Delete「巡り往くもの、 また巡り還る」 と言われています。このフィクションは、カナダで起こった実話に似ている。しかし、この語は、受け取る欲よりも、与える喜びについて語られているので、より楽しめました。長谷川さんが最後に100万円をもらうと思っていました。しかし、遠藤先生の''財''という概念は、遠藤先生の悟りの境地で、賢明な思想の証明です。
ReplyDelete楽しんで読んでくれてうれしいです。カナダの赤いクリップの話ですね。わたしもこの話を書いた後に知りました。この話は「わらしべ長者」という話をもとにしていますが、もともとはインドの方から伝わったとか。私はまだまだ悟りの境地には達していませんが、長谷川君はきっと何かを学んだのだと思います。
Deleteあ!この話、半年ぐらい前に読みました。ここでも、不要な持ち物を他人と交換するという一つところで3つの物語が会うのだが、赤いクリップもわらしべ長者も、大きな家に大きな価値を与え、紙クリップやわらしべを過小評価する一点突破の視点を持っているのだ。例えるなら、主人公が金髪の女の子と結婚することになるような話だ。主人公はみんな美人でなければならないとか、肌の色が決まっていなければならないとか、美の視点は一つです。遠藤先生のお話で私が好きなのは、社会で一般的に価値があるものでなく、本当に必要なものを手に入れるという発想にひねりを加えているところです。
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