2021年3月20日、土曜の夕方、地震が起きた。10年前の地震を思い出させる強い揺れだった。私はそのとき店にいた。売上の計算も片付けも終わり、これからうちへ帰るところだった。
揺れが収まると、すぐに自宅に電話をかけた。
「もしもし、大丈夫だった? 結香は?」
「ああ、大丈夫だよ。結香もびっくりしたみたいだけど、今は平気。麗子はまだ店?」
「うん。でも、もう出るよ。店の中はめちゃくちゃだけど、片付けは明日にする」
「わかった。気を付けて、帰ってきて」
夫の声を聞いて、ほっとした。この10年で私には大切なものが二つできた。一つが5年前に開いたこの床屋「優」。もう一つが自分の家族だ。夫とは4年前に知り合い、次の年に結婚した。そして一昨年、娘が生まれた。結香という名前を付けた。1歳になってからは、平日は保育園に預け、土日は夫と近くに住んでいる夫の両親に面倒を見てもらっている。
電話を切ると、急いで自宅へ向かった。無事だとわかっていても、早く家族に会いたい。結香をぎゅっと抱きしめたい。
翌日。不安だったが、店はいつも通りに開けることにした。予約もたくさん入っているし、まず店を片付けなければならない。いつもより早く起きて家を出た。だが、思っていたほど壊れたり割れたりしたものは少なく、片付けは30分ほどですんだ。
開店時間になると次々とお客さんがやってきた。店の仕事はすべて一人でこなしているので、土日はとても忙しい。まだ34歳で体力もあるから大丈夫だが、将来はだれか雇おうかと考え始めている。
10時過ぎに電話が来て、夕方の予約が1件キャンセルになった。昨日の地震で新幹線が止まり、東京から戻れなくなった人がいたため、代わりに仕事に出なければならなくなったそうだ。今回の地震で亡くなったりした人はほとんどいないようだが、いろいろなところに影響が出ている。先ほどの女性客は、給食センターの冷蔵庫が地震で壊れたせいで、明日から毎朝子どものお弁当作りだと言っていた。
キャンセルしたのは今日の最後のお客さんだったので、早めに店を閉めようかと思った。売上も大切だが、たまにはゆっくり家族と過ごしたい。
ところが、夕方、予約なしのお客さんが店に来てしまった。小畑のおじいちゃんだ。
「あら、小畑さん。ひさしぶり。こんな時間に来るなんてめずらしいですね」
「ああ、ちょっとね。予約していないけど、大丈夫かい?」
「ええ。大丈夫です。どうぞ」
小畑さんなら、カットとシャンプーだけだから、そんなに時間はかからない。だが、わりとおしゃべり好きなのでたまに長引くこともある。
これ以上客が来ると困るので、素早く外に出てドアにかけてある「営業中」の札を「準備中」にひっくり返した。
「はい、じゃあ、こちらにマスクを入れてくだ……。あれ? 小畑さん。マスクしてないじゃないですか。だめですよ」
「ああ、ごめんごめん。ついうっかりしてた」
「もう気を付けてくださいね。あとで、マスクあげますから」
普段しっかりしている小畑さんにしてはめずらしいことだと思った。
小畑さんは農家だった。奥さんと二人でお米や野菜を作っていた。子どもはいなかったが、夫婦二人で幸せに暮らしていた。だが、家があったのは海の近くだった。10年前の津波で家と田んぼを失った。そして、7年前、この柳之下町に建てられた復興団地に引っ越してきた。3年前に奥さんを亡くした。それからずっと独り暮らしだが、いつもきちんとした格好をしているし、80歳を過ぎた今でも健康で、足腰もしっかりしている。髪も白いが、量は多いほうだ。
「いつもどおりで、いいですか?」
「うん。いつもどおりで」
タオルとケープを首に巻くと、いつものようにハサミを動かしていく。早く帰りたいけど、急ぐわけにはいかない。客の話を聞くのも床屋の仕事だ。お客さんには髪型だけじゃなく、心もすっきりして帰って行ってほしい。
小畑さんのように地震や津波の被害を受けて復興団地に移ってきた人は、ここでつらい経験を語っていくことがある。けど、小畑さんはいつも前向きで、津波で家と田んぼを失っても、「うちには跡を継いでくれる子どももいないし、これでよかった。土地も市が買ってくれて、助かったよ」と話す。奥さんが亡くなったときも、「もしおれが先に死んでしまったら、あいつは一人になってさびしがるから。先に逝ってくれて、待っててくれているって思ったほうが気楽でいい。おれはひとりで大丈夫だから」と言っていた。強い人だと思った。
でも、今日の小畑さんは、全然口を開かない。どこか普段と様子が違う。少し何か話しかけてみよう。
「今年は暖かいから、桜が咲くのは早いみたいですね。チューリップも順調ですか?」
「あ、うん、そうだね。入学式までには咲くんじゃないかなあ」
「わあ、楽しみ。今年は雪もたくさん降ったし、土の中のチューリップの球根は大丈夫かなって心配してたんです」
「いやいや、そうじゃない。チューリップの球根には冬の寒さが必要なんだ。暖かいと、ちゃんと育たなかったり、花がきれいに咲かなかったりするんだよ」
「へえー、そうなんですか」
「そう。それから冬でもしっかり水をあげること。土の中は意外と乾燥しているからね。人間と同じさ」
小畑さんが住んでいる復興団地には大きな庭がある。小畑さんはそこに花壇を作り、いろいろな花を育てていた。小畑さんはまるで孫のことを話すようにうれしそうに花について語っていく。それで、こちらも自然に覚えてしまった。たとえば、チューリップは秋に球根を植え、春に花を咲かせるそうだ。植えてから咲くまでにそんなに時間がかかるとは思わなかった。
こういう話をすると、小畑さんはいつも必ず「長い間、農業をしてたから、今でも毎日、土に触れていないと落ち着かないんだ」と言う。しかし、今日はそこで会話が終わってしまった。何か悩みでもあるのだろうか。一人で家事をこなし、酒もたばこもやらない。そのうえ、このコロナ禍だ。ストレスがたまっているのかもしれない……
カットが終わり、シャンプーと顔剃りの後、マッサージをしながら、ふと聞いてみた。
「昨日の地震、大変でしたね」
「えっ、地震?」
小畑さんは驚いた顔をしている。
「ああ、寝ていたから気づかなかったよ。ははは」
嘘だ。あれだけ大きな地震だ。寝ていたとしても気づかないわけがない。どこへ行っていたのだろう?
「ねえ、小畑さん。なんか今日は元気がないようですが、何かあったんですか? 私でよければ聞きますよ」
「ああ。……実は、最近、……生きる意味って何だろうって考えているんだよ」
「生きる意味ですか……」
「震災のあと、毎年3月になると、家があったところに一人で行ってみるんだ。バスと電車で近くの駅まで行って、そこからタクシーに頼んで、そのあたりをぐるっと回ってもらうんだ。ちょっと途中で車を止めてもらったりして。一年目や二年目は、以前の面影があちこちに残っていたからよかったよ。胸は痛むが、『自分はここで生まれて、ここに住んでいた』って思えたからね。でも、年々、その面影は消えていって、知らない土地に変わっていくんだ。変わらないのは、海だけさ……」
鏡に映る小畑さんの顔には悲しみがあふれていた。
「それでも、あそこに行けば、何か大切なものを思い出せるんじゃないかって毎年通ってたんだ。けど、去年も今年もコロナ禍で行けなかった。こんな年寄りが電車やバスに乗って出かけたら、それこそ世間様に迷惑がかかるからね。そうしている間に、もう十年だ……。結局、あそこに行ったところで、もう何も大切なものなんか見つからないのさ。……おれの人生、いったい何だったんだろう? ただ生まれて死んでいくだけなら、生まれた意味なんかないじゃないか。それなら、もう……終わりにしたい……あいつのいるところへ行きたい……って……思ったんだ……」
そこで不思議なことが起きた。小畑さんの身体がだんだん透明になっていくのだ。そして、ついに消えてしまった。
どこかでそんな気がしていた。5年前の3月10日、夜にひとりの女性が髪を切りに店に来た。津波で亡くなった幽霊だった。息子の小学校の卒業式を見るためにあの世からやってきたのだ。今日の小畑さんは、その女性とどこか似ている感じがあった。ただ、その女性は肌が氷のように冷たかったが、小畑さんの肌はそれほどでもなかった。そこで、はっとして町内会の会長さんに電話をかけた。
「会長さん、復興団地の管理人さんの電話番号を教えていただけませんか。急いでいるんです!」
会長さんから聞いた番号に電話をかけると、すぐに管理人さんが出た。小畑さんのことをたずねると、思った通りだった。自宅に電話をかけ、夫に「ごめん! 急な用事ができたの。帰るの遅くなる」と伝えると、急いで病院へ向かった。
病院に着いて、管理人さんに教えてもらった病室に行こうとすると、廊下で看護師に止められた。
「ご家族以外は面会できないことになっているんです」
「姪です。昔、すごく世話になっていたんです。最後になるかもしれないなら、一目でいいから会わせてください! お願いします!」
必死に頼むと、困った顔をしながら、部屋に通してくれた。人工呼吸器を付けた小畑さんがベッドに横たわっていた。
管理人さんの話によると、昨日、小畑さんは部屋で睡眠薬を大量に飲んで自殺しようとしたらしい。しかし、そのあと、地震が起きた。揺れがおさまったあと、管理人さんが訪ねてきた。住人が無事かどうか確認するためだ。そこで、倒れている小畑さんを発見した。すぐに救急車を呼んで病院で治療を受けた。だが、まだ意識は戻らず、いつ亡くなってもおかしくない状態だという。
ベッドの横から眠ったままの小畑さんに話しかけた。
「小畑さん、聞こえますか。会いに来ましたよ。床屋の楡井です」
小畑さんの左手に自分の手を重ねた。
「小畑さん、ひとりでさびしかったんですね。だから、わざわざ店まで会いに来てくれたんでしょう? 私、さっき小畑さんが言ってたこと、まだちゃんとわかっていないかもしれないけど、こう思うんです。私の仕事はお客さんの髪を切ることで、今までたくさんのお客さんの髪を切ってきました。でも、どんなに上手に切っても、髪は伸びるからまた切らなきゃいけなくて、結局いつまでたっても完成しない仕事なんです。けど、ちゃんと切れば、お客さんは喜んでくれます。その喜びは一瞬かもしれないけど、きっとだれかにつながっていくと思うんです。そのお客さんがまた店に来てくれれば、私もうれしくなります。それに、髪を切って、だれかに褒められたりしたら、その人に何かしてあげたくなるじゃないですか。そうやって喜びはずっと続いていくと思うんです」
気が付くと、涙がこぼれそうになっていた。
「それと同じで、小畑さんが育てたお米や野菜をおいしいって食べてくれた人は、きっとまた別のだれかを違う形で喜ばせているはずです。それに、今でも小畑さんの育てた花を見るのを楽しみにしている人がたくさんいますよ。だから……だから、絶対に小畑さんの人生に意味がないなんてことありません! ……私、小畑さんに会えてよかったです」
そのとき、小畑さんの手がぴくっと動いた。
「小畑さん」
かすかに目が開いた。何か言おうとしている。ゆっくりと口が動く。声はほとんど聞こえない。けど、口の動きでわかった。
―ありがとう―
うんうんと大きくうなずいてみせる。小畑さんの頬がほんの少し上がった。ほほえんでいるのだ。だんだんまぶたが下がってきた。呼吸が少しずつ弱くなっていく。息を引きとる瞬間、小畑さんの体から何かが抜けていくのがわかった。
4月8日、今日は近所の小学校の入学式だ。通勤途中に足を止め、復興団地の花壇の前でチューリップを眺めていた。すると、後ろから自転車のブレーキの音が聞こえた。
「おはようございます! ゆうれいさん!」
床屋の「優」の「麗子さん」だから、「ゆうれいさん」だそうだ。私のことをこう呼ぶのは今は一人しかない。
「大希くん、おはよう。今日から学校?」
「はい、と言っても、春休みも毎日部活で学校に行ってますけど」
「今度、二年生だよね?」
「イエス!」
あの大希くんがもう高校生二年生か。出会った頃は、私より小さかったのに、今では見上げるほど背が高くなってたくましくなった。大希くんは5年前に店に来た幽霊の女性の息子だ。この近所に住んでいて、うちの店のお客さんでもある。黒いマスクなんかしてかっこつけているが、中身はまだまだ子どもだ。
そんな大希くんが急にまじめな顔をして
「聞きました。この花壇の世話をしてたおじいさん、亡くなったって……」
と言った。
「うん。そうなの……。小畑さんっていうおじいちゃんで、うちのお客さんだったの」
「すごく残念です。いつかお礼を言いたいって思ってたから」
「お礼?」
「うん。ぼく、この町に引っ越してきたとき、まだお母さんのことで落ち込んでいて、新しい小学校にもなじめなくて、なにかも嫌になっていたんです。でも、朝小学校に行くとき、このチューリップを見て、発見したんです。ほら、この花壇のチューリップ、手前から赤、白、黄色の順に並んでるでしょ?」
「えっ?」
大希くんはちょっと恥ずかしそうに歌い出した。
さいた さいた チューリップのはなが
ならんだ ならんだ あか しろ きいろ
どのはな みても きれいだな
小学校の音楽の授業で習うあの「チューリップ」の歌だ。
「この花壇にチューリップを植えた人は、この道を通る子どものことを考えて、ちゃんと歌に合わせて、赤、白、黄色の順にしてくれたんだって気づいたんです。そうしたら、このチューリップが自分のために咲いてくれているような気がして、なんだかぼくもがんばろうって思ったんです。そのあと、何回かあのおじいさんが花壇の世話をしているのを見かけたんですけど、なかなか声をかける勇気がなくて……」
大希くんは自転車を止め、野球バッグとバットを地面に置いた。そして私のとなりにしゃがむと、チューリップに向かって手を合わせた。
チューリップが風に揺れる。私は泣いた。
小畑さんは言っていた。チューリップがちゃんと育ってきれいに花を咲かすには冬の寒さと水が必要なんだと。それは人間も同じだと……。
私が泣きやむまで、大希くんはそばにいてくれた。「ありがとう」と伝えると、大希くんは黙ってうなずき、優しく目でほほえんだ。
——こいつ、中身もちゃんと成長してる。
大きく息を吸い込んだ。この足で管理人さんのところへ行こう。花壇の世話は団地のみんなで手分けしてすることになったそうだが、私も手伝わせてもらおう。
どこからか白いちょうちょが飛んできた。ちょうちょはしばらくチューリップの上をひらひら舞って、私と大希くんの間を通って、またどこかへ飛んでいった。
(完)
<引用> 唱歌『チューリップ』作詞:近藤宮子
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