Wednesday, April 28, 2021

幽霊床屋2(ゆうれいとこや2)★★★★

  2021年3月20日、土ど曜ようの夕ゆう方がた、地じ震しんが起おきた。10年ねん前まえの地じ震しんを思おもい出ださせる強つよい揺ゆれだった。私わたしはそのとき店みせにいた。売うり上あげの計けい算さんも片かた付づけも終おわり、これからうちへ帰かえるところだった。

揺(ゆ)れが収(おさ)まると、すぐに自(じ)宅(たく)に電(でん)話(わ)をかけた。

「もしもし、大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)だった? 結(ゆい)香(か)は?」

「ああ、大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)だよ。結(ゆい)香(か)もびっくりしたみたいだけど、今(いま)は平(へい)気(き)。麗(れい)子(こ)はまだ店(みせ)?」

「うん。でも、もう出(で)るよ。店(みせ)の中(なか)はめちゃくちゃだけど、片(かた)付(づ)けは明日(あした)にする」

「わかった。気(き)を付(つ)けて、帰(かえ)ってきて」

 夫(おっと)の声(こえ)を聞(き)いて、ほっとした。この10年(ねん)で私(わたし)には大(たい)切(せつ)なものが二(ふた)つできた。一(ひと)つが5年(ねん)前(まえ)に開(ひら)いたこの床(とこ)屋(や)「優(ゆう)」。もう一(ひと)つが自(じ)分(ぶん)の家(か)族(ぞく)だ。夫(おっと)とは4年(ねん)前(まえ)に知(し)り合(あ)い、次(つぎ)の年(とし)に結(けっ)婚(こん)した。そして一昨年(おととし)、娘(むすめ)が生(う)まれた。結(ゆい)香(か)という名(な)前(まえ)を付(つ)けた。1歳(さい)になってからは、平(へい)日(じつ)は保(ほ)育(いく)園(えん)に預(あず)け、土(ど)日(にち)は夫(おっと)と近(ちか)くに住(す)んでいる夫(おっと)の両(りょう)親(しん)に面(めん)倒(どう)を見(み)てもらっている。

 電(でん)話(わ)を切(き)ると、急(いそ)いで自(じ)宅(たく)へ向(む)かった。無(ぶ)事(じ)だとわかっていても、早(はや)く家(か)族(ぞく)に会(あ)いたい。結(ゆい)香(か)をぎゅっと抱(だ)きしめたい。

 

 翌(よく)日(じつ)。不(ふ)安(あん)だったが、店(みせ)はいつも通(どお)りに開(あ)けることにした。予(よ)約(やく)もたくさん入(はい)っているし、まず店(みせ)を片(かた)付(づ)けなければならない。いつもより早(はや)く起(お)きて家(いえ)を出(で)た。だが、思(おも)っていたほど壊(こわ)れたり割(わ)れたりしたものは少(すく)なく、片(かた)付(づ)けは30分(ぷん)ほどですんだ。

 開(かい)店(てん)時(じ)間(かん)になると次(つぎ)々(つぎ)とお客(きゃく)さんがやってきた。店(みせ)の仕(し)事(ごと)はすべて一人(ひとり)でこなしているので、土(ど)日(にち)はとても忙(いそが)しい。まだ34歳(さい)で体(たい)力(りょく)もあるから大(だい)丈(じょう)夫(ぶ)だが、将(しょう)来(らい)はだれか雇(やと)おうかと考(かんが)え始(はじ)めている。

 10時(じ)過(す)ぎに電(でん)話(わ)が来(き)て、夕(ゆう)方(がた)の予(よ)約(やく)が1件(けん)キャンセルになった。昨日(きのう)の地(じ)震(しん)で新(しん)幹(かん)線(せん)が止(と)まり、東(とう)京(きょう)から戻(もど)れなくなった人(ひと)がいたため、代(か)わりに仕(し)事(ごと)に出(で)なければならなくなったそうだ。今(こん)回(かい)の地(じ)震(しん)で亡(な)くなったりした人(ひと)はほとんどいないようだが、いろいろなところに影(えい)響(きょう)が出(で)ている。先(さき)ほどの女(じょ)性(せい)客(きゃく)は、給(きゅう)食(しょく)センターの冷(れい)蔵(ぞう)庫(こ)が地(じ)震(しん)で壊(こわ)れたせいで、明日(あした)から毎(まい)朝(あさ)子(こ)どものお弁(べん)当(とう)作(づく)りだと言(い)っていた。

キャンセルしたのは今日(きょう)の最(さい)後(ご)のお客(きゃく)さんだったので、早(はや)めに店(みせ)を閉(し)めようかと思(おも)った。売上(うりあげ)も大(たい)切(せつ)だが、たまにはゆっくり家(か)族(ぞく)と過(す)ごしたい。

 ところが、夕(ゆう)方(がた)、予(よ)約(やく)なしのお客(きゃく)さんが店(みせ)に来(き)てしまった。小畑(おばた)のおじいちゃんだ。

「あら、小畑(おばた)さん。ひさしぶり。こんな時(じ)間(かん)に来(く)るなんてめずらしいですね」

「ああ、ちょっとね。予(よ)約(やく)していないけど、大丈夫(だいじょうぶ)かい?」

「ええ。大丈夫(だいじょうぶ)です。どうぞ」

 小畑(おばた)さんなら、カットとシャンプーだけだから、そんなに時(じ)間(かん)はかからない。だが、わりとおしゃべり好(ず)きなのでたまに長(なが)引(び)くこともある。

これ以(い)上(じょう)客(きゃく)が来(く)ると困(こま)るので、素(す)早(ばや)く外(そと)に出(で)てドアにかけてある「営(えい)業(ぎょう)中(ちゅう)」の札(ふだ)を「準(じゅん)備(び)中(ちゅう)」にひっくり返(かえ)した。

「はい、じゃあ、こちらにマスクを入(い)れてくだ……。あれ? 小畑(おばた)さん。マスクしてないじゃないですか。だめですよ」

「ああ、ごめんごめん。ついうっかりしてた」

「もう気(き)を付(つ)けてくださいね。あとで、マスクあげますから」

 普(ふ)段(だん)しっかりしている小畑(おばた)さんにしてはめずらしいことだと思(おも)った。

小畑(おばた)さんは農(のう)家(か)だった。奥(おく)さんと二人(ふたり)でお米(こめ)や野(や)菜(さい)を作(つく)っていた。子(こ)どもはいなかったが、夫(ふう)婦(ふ)二人(ふたり)で幸(しあわ)せに暮(く)らしていた。だが、家(いえ)があったのは海(うみ)の近(ちか)くだった。10年(ねん)前(まえ)の津(つ)波(なみ)で家(いえ)と田(た)んぼを失(うしな)った。そして、7年(ねん)前(まえ)、この柳(やなぎ)之(の)下(した)町(まち)に建(た)てられた復(ふっ)興(こう)団(だん)地(ち)に引(ひ)っ越(こ)してきた。3年前(ねんまえ)に奥(おく)さんを亡(な)くした。それからずっと独(ひと)り暮(ぐ)らしだが、いつもきちんとした格(かっ)好(こう)をしているし、80歳(さい)を過(す)ぎた今(いま)でも健(けん)康(こう)で、足(あし)腰(こし)もしっかりしている。髪(かみ)も白(しろ)いが、量(りょう)は多(おお)いほうだ。

「いつもどおりで、いいですか?」

「うん。いつもどおりで」

 タオルとケープを首(くび)に巻(ま)くと、いつものようにハサミを動(うご)かしていく。早(はや)く帰(かえ)りたいけど、急(いそ)ぐわけにはいかない。客(きゃく)の話(はなし)を聞(き)くのも床(とこ)屋(や)の仕(し)事(ごと)だ。お客(きゃく)さんには髪(かみ)型(がた)だけじゃなく、心(こころ)もすっきりして帰(かえ)って行(い)ってほしい。

小畑(おばた)さんのように地(じ)震(しん)や津(つ)波(なみ)の被(ひ)害(がい)を受(う)けて復(ふっ)興(こう)団(だん)地(ち)に移(うつ)ってきた人(ひと)は、ここでつらい経験(けいけん)を語(かた)っていくことがある。けど、小畑(おばた)さんはいつも前(まえ)向(む)きで、津(つ)波(なみ)で家(いえ)と田(た)んぼを失(うしな)っても、「うちには跡(あと)を継(つ)いでくれる子(こ)どももいないし、これでよかった。土(と)地(ち)も市(し)が買(か)ってくれて、助(たす)かったよ」と話(はな)す。奥(おく)さんが亡(な)くなったときも、「もしおれが先(さき)に死(し)んでしまったら、あいつは一人(ひとり)になってさびしがるから。先(さき)に逝(い)ってくれて、待(ま)っててくれているって思(おも)ったほうが気(き)楽(らく)でいい。おれはひとりで大丈夫(だいじょうぶ)だから」と言(い)っていた。強(つよ)い人(ひと)だと思(おも)った。

でも、今日(きょう)の小畑(おばた)さんは、全(ぜん)然(ぜん)口(くち)を開(ひら)かない。どこか普(ふ)段(だん)と様(よう)子(す)が違(ちが)う。少(すこ)し何(なに)か話(はな)しかけてみよう。

「今年(ことし)は暖(あたた)かいから、桜(さくら)が咲(さ)くのは早(はや)いみたいですね。チューリップも順調(じゅんちょう)ですか?」

「あ、うん、そうだね。入(にゅう)学(がく)式(しき)までには咲(さ)くんじゃないかなあ」

「わあ、楽(たの)しみ。今年(ことし)は雪(ゆき)もたくさん降(ふ)ったし、土(つち)の中(なか)のチューリップの球(きゅう)根(こん)は大丈夫(だいじょうぶ)かなって心配(しんぱい)してたんです」

「いやいや、そうじゃない。チューリップの球(きゅう)根(こん)には冬(ふゆ)の寒(さむ)さが必(ひつ)要(よう)なんだ。暖(あたた)かいと、ちゃんと育(そだ)たなかったり、花(はな)がきれいに咲(さ)かなかったりするんだよ」

「へえー、そうなんですか」

「そう。それから冬(ふゆ)でもしっかり水(みず)をあげること。土(つち)の中(なか)は意(い)外(がい)と乾(かん)燥(そう)しているからね。人間(にんげん)と同(おな)じさ」

小畑(おばた)さんが住(す)んでいる復(ふっ)興(こう)団(だん)地(ち)には大(おお)きな庭(にわ)がある。小畑(おばた)さんはそこに花(か)壇(だん)を作(つく)り、いろいろな花(はな)を育(そだ)てていた。小畑(おばた)さんはまるで孫(まご)のことを話(はな)すようにうれしそうに花(はな)について語(かた)っていく。それで、こちらも自(し)然(ぜん)に覚(おぼ)えてしまった。たとえば、チューリップは秋(あき)に球根(きゅうこん)を植(う)え、春(はる)に花(はな)を咲(さ)かせるそうだ。植(う)えてから咲(さ)くまでにそんなに時(じ)間(かん)がかかるとは思(おも)わなかった。

こういう話(はなし)をすると、小畑(おばた)さんはいつも必(かなら)ず「長(なが)い間(あいだ)、農(のう)業(ぎょう)をしてたから、今(いま)でも毎(まい)日(にち)、土(つち)に触(ふ)れていないと落(お)ち着(つ)かないんだ」と言(い)う。しかし、今日(きょう)はそこで会(かい)話(わ)が終(お)わってしまった。何(なに)か悩(なや)みでもあるのだろうか。一人(ひとり)で家(か)事(じ)をこなし、酒(さけ)もたばこもやらない。そのうえ、このコロナ禍(か)だ。ストレスがたまっているのかもしれない……

 カットが終(お)わり、シャンプーと顔(かお)剃(そ)りの後(あと)、マッサージをしながら、ふと聞(き)いてみた。

「昨日(きのう)の地(じ)震(しん)、大(たい)変(へん)でしたね」

「えっ、地(じ)震(しん)?」

 小畑(おばた)さんは驚(おど)いた顔(かお)をしている。

「ああ、寝(ね)ていたから気(き)づかなかったよ。ははは」

嘘(うそ)だ。あれだけ大(おお)きな地(じ)震(しん)だ。寝(ね)ていたとしても気(き)づかないわけがない。どこへ行(い)っていたのだろう?

「ねえ、小畑(おばた)さん。なんか今日(きょう)は元(げん)気(き)がないようですが、何(なに)かあったんですか? 私(わたし)でよければ聞(き)きますよ」

「ああ。……実(じつ)は、最(さい)近(きん)、……生(い)きる意(い)味(み)って何(なん)だろうって考(かんが)えているんだよ」

「生(い)きる意(い)味(み)ですか……」

「震災(しんさい)のあと、毎年(まいとし)3月(がつ)になると、家(いえ)があったところに一人(ひとり)で行(い)ってみるんだ。バスと電(でん)車(しゃ)で近(ちか)くの駅(えき)まで行(い)って、そこからタクシーに頼(たの)んで、そのあたりをぐるっと回(まわ)ってもらうんだ。ちょっと途(と)中(ちゅう)で車(くるま)を止(と)めてもらったりして。一(いち)年(ねん)目(め)や二(に)年(ねん)目(め)は、以(い)前(ぜん)の面(おも)影(かげ)があちこちに残(のこ)っていたからよかったよ。胸(むね)は痛(いた)むが、『自(じ)分(ぶん)はここで生(う)まれて、ここに住(す)んでいた』って思(おも)えたからね。でも、年(ねん)々(ねん)、その面(おも)影(かげ)は消(き)えていって、知(し)らない土(と)地(ち)に変(か)わっていくんだ。変(か)わらないのは、海(うみ)だけさ……」

 鏡(かがみ)に映(うつ)る小畑(おばた)さんの顔(かお)には悲(かな)しみがあふれていた。

「それでも、あそこに行(い)けば、何(なに)か大(たい)切(せつ)なものを思(おも)い出(だ)せるんじゃないかって毎年(まいとし)通(かよ)ってたんだ。けど、去年(きょねん)も今年(ことし)もコロナ禍(か)で行(い)けなかった。こんな年(とし)寄(よ)りが電(でん)車(しゃ)やバスに乗(の)って出(で)かけたら、それこそ世(せ)間(けん)様(さま)に迷(めい)惑(わく)がかかるからね。そうしている間(あいだ)に、もう十(じゅう)年(ねん)だ……。結(けっ)局(きょく)、あそこに行(い)ったところで、もう何(なに)も大切(たいせつ)なものなんか見(み)つからないのさ。……おれの人生(じんせい)、いったい何(なん)だったんだろう? ただ生(う)まれて死(し)んでいくだけなら、生(う)まれた意(い)味(み)なんかないじゃないか。それなら、もう……終(お)わりにしたい……あいつのいるところへ行(い)きたい……って……思(おも)ったんだ……」

 そこで不思議(ふしぎ)なことが起(お)きた。小畑(おばた)さんの身体(からだ)がだんだん透明(とうめい)になっていくのだ。そして、ついに消(き)えてしまった。

 どこかでそんな気(き)がしていた。5年前(ねんまえ)の3月10日、夜(よる)にひとりの女(じょ)性(せい)が髪(かみ)を切(き)りに店(みせ)に来(き)た。津(つ)波(なみ)で亡(な)くなった幽(ゆう)霊(れい)だった。息子(むすこ)の小(しょう)学(がっ)校(こう)の卒(そつ)業(ぎょう)式(しき)を見(み)るためにあの世(よ)からやってきたのだ。今日(きょう)の小畑(おばた)さんは、その女(じょ)性(せい)とどこか似(に)ている感(かん)じがあった。ただ、その女性(じょせい)は肌(はだ)が氷(こおり)のように冷(つめ)たかったが、小畑(おばた)さんの肌(はだ)はそれほどでもなかった。そこで、はっとして町(ちょう)内(ない)会(かい)の会(かい)長(ちょう)さんに電(でん)話(わ)をかけた。

「会(かい)長(ちょう)さん、復(ふっ)興(こう)団(だん)地(ち)の管(かん)理(り)人(にん)さんの電(でん)話(わ)番(ばん)号(ごう)を教(おし)えていただけませんか。急(いそ)いでいるんです!」

 会(かい)長(ちょう)さんから聞(き)いた番(ばん)号(ごう)に電(でん)話(わ)をかけると、すぐに管(かん)理(り)人(にん)さんが出(で)た。小畑(おばた)さんのことをたずねると、思(おも)った通(とお)りだった。自(じ)宅(たく)に電(でん)話(わ)をかけ、夫(おっと)に「ごめん! 急(きゅう)な用(よう)事(じ)ができたの。帰(かえ)るの遅(おそ)くなる」と伝(つた)えると、急(いそ)いで病院(びょういん)へ向(む)かった。

 

 病(びょう)院(いん)に着(つ)いて、管(かん)理(り)人(にん)さんに教(おし)えてもらった病(びょう)室(しつ)に行(い)こうとすると、廊(ろう)下(か)で看(かん)護(ご)師(し)に止(と)められた。

「ご家(か)族(ぞく)以(い)外(がい)は面(めん)会(かい)できないことになっているんです」

「姪(めい)です。昔(むかし)、すごく世(せ)話(わ)になっていたんです。最(さい)後(ご)になるかもしれないなら、一(ひと)目(め)でいいから会(あ)わせてください! お願(ねが)いします!」

 必(ひっ)死(し)に頼(たの)むと、困(こま)った顔(かお)をしながら、部(へ)屋(や)に通(とお)してくれた。人(じん)工(こう)呼(こ)吸(きゅう)器(き)を付(つ)けた小畑(おばた)さんがベッドに横(よこ)たわっていた。

管(かん)理(り)人(にん)さんの話(はなし)によると、昨日(きのう)、小畑(おばた)さんは部(へ)屋(や)で睡(すい)眠(みん)薬(やく)を大(たい)量(りょう)に飲(の)んで自(じ)殺(さつ)しようとしたらしい。しかし、そのあと、地(じ)震(しん)が起(お)きた。揺(ゆ)れがおさまったあと、管(かん)理(り)人(にん)さんが訪(たず)ねてきた。住(じゅう)人(にん)が無(ぶ)事(じ)かどうか確認(かくにん)するためだ。そこで、倒(たお)れている小畑(おばた)さんを発(はっ)見(けん)した。すぐに救(きゅう)急(きゅう)車(しゃ)を呼(よ)んで病(びょう)院(いん)で治(ち)療(りょう)を受(う)けた。だが、まだ意(い)識(しき)は戻(もど)らず、いつ亡(な)くなってもおかしくない状(じょう)態(たい)だという。

ベッドの横(よこ)から眠(ねむ)ったままの小畑(おばた)さんに話(はな)しかけた。

「小畑(おばた)さん、聞(き)こえますか。会(あ)いに来(き)ましたよ。床(とこ)屋(や)の楡(ゆ)井(い)です」

 小(お)畑(ばた)さんの左(ひだり)手(て)に自(じ)分(ぶん)の手(て)を重(かさ)ねた。

「小畑(おばた)さん、ひとりでさびしかったんですね。だから、わざわざ店(みせ)まで会(あ)いに来(き)てくれたんでしょう? 私(わたし)、さっき小畑(おばた)さんが言(い)ってたこと、まだちゃんとわかっていないかもしれないけど、こう思(おも)うんです。私(わたし)の仕(し)事(ごと)はお客(きゃく)さんの髪(かみ)を切(き)ることで、今(いま)までたくさんのお客(きゃく)さんの髪(かみ)を切(き)ってきました。でも、どんなに上手(じょうず)に切(き)っても、髪(かみ)は伸(の)びるからまた切(き)らなきゃいけなくて、結(けっ)局(きょく)いつまでたっても完(かん)成(せい)しない仕(し)事(ごと)なんです。けど、ちゃんと切(き)れば、お客(きゃく)さんは喜(よろこ)んでくれます。その喜(よろこ)びは一(いっ)瞬(しゅん)かもしれないけど、きっとだれかにつながっていくと思(おも)うんです。そのお客(きゃく)さんがまた店(みせ)に来(き)てくれれば、私(わたし)もうれしくなります。それに、髪(かみ)を切(き)って、だれかに褒(ほ)められたりしたら、その人(ひと)に何(なに)かしてあげたくなるじゃないですか。そうやって喜(よろこ)びはずっと続(つづ)いていくと思(おも)うんです」

 気(き)が付(つ)くと、涙(なみだ)がこぼれそうになっていた。

「それと同(おな)じで、小畑(おばた)さんが育(そだ)てたお米(こめ)や野(や)菜(さい)をおいしいって食(た)べてくれた人(ひと)は、きっとまた別(べつ)のだれかを違(ちが)う形(かたち)で喜(よろこ)ばせているはずです。それに、今(いま)でも小畑(おばた)さんの育(そだ)てた花(はな)を見(み)るのを楽(たの)しみにしている人(ひと)がたくさんいますよ。だから……だから、絶対(ぜったい)に小畑(おばた)さんの人生(じんせい)に意味(いみ)がないなんてことありません! ……私(わたし)、小畑(おばた)さんに会(あ)えてよかったです」

 そのとき、小畑(おばた)さんの手(て)がぴくっと動(うご)いた。

「小畑(おばた)さん」

 かすかに目(め)が開(あ)いた。何(なに)か言(い)おうとしている。ゆっくりと口(くち)が動(うご)く。声(こえ)はほとんど聞(き)こえない。けど、口(くち)の動(うご)きでわかった。

―ありがとう―

うんうんと大(おお)きくうなずいてみせる。小畑(おばた)さんの頬(ほほ)がほんの少(すこ)し上(あ)がった。ほほえんでいるのだ。だんだんまぶたが下(さ)がってきた。呼(こ)吸(きゅう)が少(すこ)しずつ弱(よわ)くなっていく。息(いき)を引(ひ)きとる瞬(しゅん)間(かん)、小畑(おばた)さんの体(からだ)から何(なに)かが抜(ぬ)けていくのがわかった。

 

 4月(がつ)8日(か)、今日(きょう)は近所(きんじょ)の小学校(しょうがっこう)の入学式(にゅうがくしき)だ。通勤(つうきん)途中(とちゅう)に足(あし)を止(と)め、復(ふっ)興(こう)団(だん)地(ち)の花(か)壇(だん)の前(まえ)でチューリップを眺(なが)めていた。すると、後(うし)ろから自(じ)転(てん)車(しゃ)のブレーキの音(おと)が聞(き)こえた。

「おはようございます! ゆうれいさん!」

 床(とこ)屋(や)の「優(ゆう)」の「麗(れい)子(こ)さん」だから、「ゆうれいさん」だそうだ。私(わたし)のことをこう呼(よ)ぶのは今(いま)は一人(ひとり)しかない。

「大希(ひろき)くん、おはよう。今日(きょう)から学(がっ)校(こう)?」

「はい、と言(い)っても、春(はる)休(やす)みも毎(まい)日(にち)部(ぶ)活(かつ)で学(がっ)校(こう)に行(い)ってますけど」

「今(こん)度(ど)、二(に)年(ねん)生(せい)だよね?」

「イエス!」

あの大希(ひろき)くんがもう高(こう)校(こう)生(せい)二(に)年(ねん)生(せい)か。出(で)会(あ)った頃(ころ)は、私(わたし)より小(ちい)さかったのに、今(いま)では見(み)上(あ)げるほど背(せ)が高(たか)くなってたくましくなった。大希(ひろき)くんは5年(ねん)前(まえ)に店(みせ)に来(き)た幽(ゆう)霊(れい)の女(じょ)性(せい)の息子(むすこ)だ。この近(きん)所(じょ)に住(す)んでいて、うちの店(みせ)のお客(きゃく)さんでもある。黒(くろ)いマスクなんかしてかっこつけているが、中(なか)身(み)はまだまだ子(こ)どもだ。

そんな大希(ひろき)くんが急(きゅう)にまじめな顔(かお)をして

「聞(き)きました。この花(か)壇(だん)の世(せ)話(わ)をしてたおじいさん、亡(な)くなったって……」

と言(い)った。

「うん。そうなの……。小畑(おばた)さんっていうおじいちゃんで、うちのお客(きゃく)さんだったの」

「すごく残(ざん)念(ねん)です。いつかお礼(れい)を言(い)いたいって思(おも)ってたから」

「お礼(れい)?」

「うん。ぼく、この町(まち)に引(ひ)っ越(こ)してきたとき、まだお母(かあ)さんのことで落(お)ち込(こ)んでいて、新(あたら)しい小(しょう)学(がっ)校(こう)にもなじめなくて、なにかも嫌(いや)になっていたんです。でも、朝(あさ)小(しょう)学(がっ)校(こう)に行(い)くとき、このチューリップを見(み)て、発(はっ)見(けん)したんです。ほら、この花(か)壇(だん)のチューリップ、手(て)前(まえ)から赤(あか)、白(しろ)、黄(き)色(いろ)の順(じゅん)に並(なら)んでるでしょ?」

「えっ?」

大希(ひろき)くんはちょっと恥(は)ずかしそうに歌(うた)い出(だ)した。

 

  さいた さいた チューリップのはなが

  ならんだ ならんだ あか しろ きいろ 

  どのはな みても きれいだな

 

小(しょう)学(がっ)校(こう)の音(おん)楽(がく)の授(じゅ)業(ぎょう)で習(なら)うあの「チューリップ」の歌(うた)だ。

「この花(か)壇(だん)にチューリップを植(う)えた人(ひと)は、この道(みち)を通(とお)る子(こ)どものことを考(かんが)えて、ちゃんと歌(うた)に合(あ)わせて、赤(あか)、白(しろ)、黄(き)色(いろ)の順(じゅん)にしてくれたんだって気(き)づいたんです。そうしたら、このチューリップが自(じ)分(ぶん)のために咲(さ)いてくれているような気(き)がして、なんだかぼくもがんばろうって思(おも)ったんです。そのあと、何(なん)回(かい)かあのおじいさんが花(か)壇(だん)の世(せ)話(わ)をしているのを見(み)かけたんですけど、なかなか声(こえ)をかける勇(ゆう)気(き)がなくて……」

大希(ひろき)くんは自(じ)転(てん)車(しゃ)を止(と)め、野(や)球(きゅう)バッグとバットを地(じ)面(めん)に置(お)いた。そして私(わたし)のとなりにしゃがむと、チューリップに向(む)かって手(て)を合(あ)わせた。

チューリップが風(かぜ)に揺(ゆ)れる。私(わたし)は泣(な)いた。

小畑(おばた)さんは言(い)っていた。チューリップがちゃんと育(そだ)ってきれいに花(はな)を咲(さ)かすには冬(ふゆ)の寒(さむ)さと水(みず)が必(ひつ)要(よう)なんだと。それは人(にん)間(げん)も同(おな)じだと……。

 

私(わたし)が泣(な)きやむまで、大希(ひろき)くんはそばにいてくれた。「ありがとう」と伝(つた)えると、大希(ひろき)くんは黙(だま)ってうなずき、優(やさ)しく目(め)でほほえんだ。

——こいつ、中(なか)身(み)もちゃんと成(せい)長(ちょう)してる。

大(おお)きく息(いき)を吸(す)い込(こ)んだ。この足(あし)で管(かん)理(り)人(にん)さんのところへ行(い)こう。花(か)壇(だん)の世(せ)話(わ)は団(だん)地(ち)のみんなで手(て)分(わ)けしてすることになったそうだが、私(わたし)も手(て)伝(つだ)わせてもらおう。

どこからか白(しろ)いちょうちょが飛(と)んできた。ちょうちょはしばらくチューリップの上(うえ)をひらひら舞(ま)って、私(わたし)と大希(ひろき)くんの間(あいだ)を通(とお)って、またどこかへ飛(と)んでいった。

 

(完)

 

<引用> 唱歌『チューリップ』作詞:近藤宮子

 

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