Sunday, March 15, 2020

Good Luck!★★★★★

 古いアパートの部屋は重(おも)い空気(くうき)に包(つつ)まれていた。孝弘(たかひろ)が別(わか)れのあいさつに来たが、だれも言葉(ことば)が見つからず、四人はただ静(しず)かにコーヒーを飲んでいた。
 
 孝弘(たかひろ)は立ち上がり、飲み終えたカップを流(なが)しに置(お)いた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
 丞(じょう)は孝弘(たかひろ)の腕(うで)をつかんだ。
「おい。待てよ! 孝弘(たかひろ)。やっぱり、もうちょっとがんばろうぜ!」
「丞(じょう)、……悪(わる)いと思ってる。でも、もう無(む)理(り)だ」
「無(む)理(り)かどうか、続(つづ)けてみないとわかんないだろ?」
「いや、三年も続(つづ)けたんだ。もうあきらめてもいい頃(ころ)だ」
「……」
「すまない」
「……本当にだめか?」
「ああ、ごめん」
 丞(じょう)は孝弘(たかひろ)の腕(うで)を放(はな)した。
「わかったよ。じゃ、代(か)わりに……」
「何だ?」
「金、貸(か)してくれない? 五万円」
「バカ! 貸(か)すわけないだろ! おれは、おまえのそういうところが嫌(きら)いなんだ!」
「うるせー! おれも、おまえみたいな下手くそ、本当はやめてほしかったんだ! さっさと出ていけ!」
 孝弘(たかひろ)は何も言い返(かえ)さずにバッグを肩(かた)にかけると、バタンとドアを閉(し)め、部屋を出て行った。丞(じょう)は、そばにあったティッシュ箱(ばこ)をドアに向(む)かって投(な)げた。だが、それはドアには届(とど)かず、玄関(げんかん)の靴(くつ)の上に落(お)ちた。晴樹(はるき)と慎吾(しんご)はその様(よう)子(す)を黙(だま)って見ていた。
こうして、ドラムの孝弘(たかひろ)は、丞(じょう)たちのバンド「バレット」から抜(ぬ)けた。
 
 晴樹(はるき)が不(ふ)安(あん)そうに丞(じょう)に言った。
「ねえ、丞(じょう)さん。これでよかったのかな。孝弘(たかひろ)さんがいなきゃ、バンド続(つづ)けられないでしょ?」
「いいんだよ! あんなやつ、いなくなったほうが」
「でも……おれたち、これからどうすればいいんだよ」
 すると、今まで黙(だま)っていた慎吾(しんご)が言った。
「晴樹(はるき)。おまえがバンドのことを心(しん)配(ぱい)する気持ちはよくわかる。けど、孝弘(たかひろ)のことも考(かんが)えてやれ。あいつは小学生の頃(ころ)に父親を亡(な)くしてるんだ。それからずっと母親が実家(じっか)のリンゴ農(のう)家(か)で働きながらひとりで孝弘(たかひろ)を育(そだ)ててきた。あいつ、言ってたよ。『これ以上、母さんに心配(しんぱい)かけてまで音楽は続(つづ)けられない。リンゴ農(のう)家(か)を継(つ)ぐ』って」
「そうだったんだ……」
「ただ、おまえの言うとおり、ドラムがいなけりゃバンドはできない。なんとかしないとな」
「そうだよ。それに、お金もほんとにないんだ。どうしよう……」
 丞(じょう)は立ち上がるとギターケースをつかんで、部屋を出て行った。


 冷(つめ)たい、乾(かわ)いた風(かぜ)の中、丞(じょう)は街(まち)の中(ちゅう)心(しん)部(ぶ)に向(む)かって歩(ある)いていた。バスや地(ち)下(か)鉄(てつ)を使わないのは節(せつ)約(やく)になるというのもあるが、歩(ある)いていると、時(とき)々(どき)いい曲(きょく)を思いついたりすることがあるからだ。だが、今、丞(じょう)の頭(あたま)の中にあるのは新しい曲(きょく)ではなかった。
――新しいメンバーか……。たぶんすぐには見つからない。腕(うで)のいいドラムはもうどこかのバンドに入っているし、もしいたとしても、うちのバンドに入ってくれるかわからない。どうする? その前に、たまっているアパートの家(や)賃(ちん)を払(はら)わなければならない。大(おお)家(や)に頭(あたま)を下げて、なんとか待ってもらっているが、もう半年分たまっている。今月までに払(はら)わないと、いっしょに住(す)んでいる晴樹(はるき)と部屋を追(お)い出される。だが、毎月のバイト代は、全部(ぜんぶ)バンド活(かつ)動(どう)で消(き)えていく。練習に使うスタジオのレンタル代、ライブを開(ひら)くための費(ひ)用(よう)、CDの製(せい)作(さく)費(ひ)……。この間作ったCDも次(つぎ)のライブが決(き)まらない限(かぎ)り、売れないままだ――
 丞(じょう)は街(まち)まで出ると、まっすぐ目(もく)的(てき)の店に向(む)かった。「黒沢(くろさわ)楽器(がっき)店(てん)」だ。
店長の黒沢(くろさわ)とは年はだいぶ離(はな)れているが、気が合って、かわいがってもらっている。ライブのチラシを置(お)かせてもらったり、特(とく)に用(よう)事(じ)がなくても、会いに行ったりする。ただ、今日は違(ちが)う。ギターを売るのだ。
 丞(じょう)はバンドではボーカルなので、ギターは使わない。夜、街(まち)の路(ろ)上(じょう)で歌ったり、曲(きょく)を作る時に使うのだ。それが今持っているマーチンのギターだ。この四十八万円もするアコースティックギターを買うために、丞(じょう)は必死(ひっし)で働いた。そして、ようやく二年前に手に入れた。初(はじ)めて音を鳴(な)らした時には思わず感(かん)動(どう)で涙(なみだ)が出た。
 店の前まで来て足が止まった。しかし、いくら考(かんが)えても他(ほか)に方(ほう)法(ほう)が思いつかない。丞(じょう)は覚(かく)悟(ご)を決(き)め、ドアを開けた。
「おー、丞(じょう)。ひさしぶり」
「どうも。黒沢(くろさわ)さん」
「この前出したCD、聴(き)いたよ。なかなか良かったよ」
「聴(き)いてくれたんですか。ありがとうございます」
「まあ、晴樹(はるき)のギターはまだまだだけどな」
「黒沢(くろさわ)さん。実(じつ)は、頼(たの)みがあるんです」
 丞(じょう)はギターケースをカウンターの上に置(お)いた。
「何だ? ギターの修(しゅう)理(り)か?」
「いえ、そうじゃありません。このギターを買ってもらえませんか?」
「何!?」
「バンドを守(まも)るために金が必(ひつ)要(よう)なんです。お願(ねが)いします!」
 丞(じょう)は頭(あたま)を下げた。黒沢(くろさわ)はケースを開け、ギターの状態(じょうたい)を確(たしか)かめた。そして、しばらくすると、小さくため息(いき)をついて、
「わかったよ。いくら必要(ひつよう)なんだ?」と言った。
「二十五万」
「いいだろう。だが、買い取るわけじゃない。預(あず)かっておくだけだ。金は貸(か)す。三十万でいい。だが、後できちんと返(かえ)せ」
「黒沢(くろさわ)さん……。ありがとうございます!」
「昔(むかし)、おれもバンドをやっていたんだ。おまえがこのギターをどれぐらい大切にしていたかわかるし、金がない時の苦(くる)しさもわかる。ちょっと待ってろ」
 黒沢(くろさわ)は店の奥(おく)に入ると、封筒(ふうとう)を持って戻(もど)ってきた。
「ほら。三十万円だ。どうせ家(や)賃(ちん)でも払(はら)えなくなったんだろ?」
「はい、そのとおりです……」
「いいか。続(つづ)けていれば、きっといつかチャンスは来る。あきらめるな。金は半年待ってやる。それまでに返(かえ)せなければ、このギターは店で売る」
「必(かなら)ず返(かえ)します!」
 黒沢(くろさわ)は満足(まんぞく)そうにほほ笑(え)んだ。丞(じょう)は両(りょう)手(て)で封筒(ふうとう)を受(う)け取った。
「これは持っておけ。お守(まも)りだ」
 黒沢(くろさわ)はギターに付(つ)いていたピックを外(はず)して、丞(じょう)にわたした。その黒いピックは、このギターを買ったときに、黒沢(くろさわ)がくれたものだった。

 黒沢(くろさわ)楽器(がっき)店(てん)を出た後、丞(じょう)はアパートには戻(もど)らず、喫茶店(きっさてん)に寄(よ)ることにした。
店は平日(へいじつ)の昼間(ひるま)なので、すいていた。丞(じょう)は窓際(まどぎわ)の席(せき)に座(すわ)ると、コーヒーを注文(ちゅうもん)した。
 喫茶店(きっさてん)に寄(よ)ったのは、晴樹(はるき)や慎吾(しんご)と顔(かお)を合わせたくなかったからだ。バンドのリーダーとして、メンバーの前で弱(よわ)いところは見せられない。金はとりあえず手に入ったが、これからのことを考(かんが)えなければならない。しかし、孝弘(たかひろ)とギターを失(うしな)った悲(かな)しみが押(お)し寄(よ)せてきて、なかなか考(かんが)えがまとまらない。丞(じょう)はポケットの中のピックを握(にぎ)りしめた。
 コーヒーを飲みながら、ぼうっと窓(まど)の向(む)こうの川を眺(なが)めていた。川には古い大きな橋(はし)がかかっている。その橋(はし)の中央(ちゅうおう)にだれかが立っていた。その人物(じんぶつ)は、じっとしていたかと思うと、急(きゅう)に橋(はし)の欄干(らんかん)を乗り越(こ)えようとした。周(まわ)りにはだれもいない。
――えっ、まさか! 飛(と)び降(お)り自(じ)殺(さつ)!?――
 気づいたときには、もう走(はし)り出していた。店を出るとき、「お客(きゃく)さん! ちょっと!」という声が聞こえたが、かまわずに走(はし)り続(つづ)けた
――間に合ってくれ!――

 橋(はし)の中央(ちゅうおう)に着(つ)いたとき、その人物(じんぶつ)は欄干(らんかん)につかまったまま、まだ飛(と)び降(お)りずにいた。
長い髪(かみ)をまとめていたので、一瞬(いっしゅん)、女に見えたが、若(わか)い男だ。高校生ぐらいの年齢(ねんれい)か。グレーのコートに、黒のレザーパンツ。足ががくがく震(ふる)えている。
 丞(じょう)は息(いき)を整(ととの)えてから、そっとその男に声(こえ)をかけた。
「おい。何があったか知らないけど、死(し)んだらおしまいだぞ」
「来、来ないで!」
「わかった。落(お)ち着(つ)け。ちょっと話そう」
「……」
「迷(まよ)っているんだろ?」
「……」
 何も返事(へんじ)がないが、丞(じょう)は続(つづ)けた。
「たしかに、世(よ)の中(なか)、嫌(いや)なことが多いよな。でも、これから楽しいことや嬉(うれ)しいことも、きっとたくさんあるさ。今、辛(つら)いからって、ここで人生(じんせい)を終わりにするなんてもったいないぞ」
「そんなこと、わかってるよ! でも、どうしようもないんだ……」
「何かあったのか?」
「……金だよ」
「金?」
「そうだよ。金がないんだよ!」
 金がない――その言葉(ことば)を聞いた瞬間(しゅんかん)、丞(じょう)は叫(さけ)んだ。
「バカヤロー! 金なんかより命(いのち)のほうが大事に決(き)まってるだろ! そんなこともわからないやつは、死(し)んでしまえ!」
「……」
「あっ! ごめん! うそ、うそ! おれ、口が悪(わる)いから、つい……」
「う、う、うえ~ん」
男は泣(な)き出した。そして、しばらく泣(な)き続(つづ)けた。
男が落(お)ち着(つ)いてきたころ、丞(じょう)はゆっくり近(ちか)づいて、左手で男の腕(うで)をつかみ、右手を男の体に回すと一気(いっき)に歩道(ほどう)に引(ひ)き上げた。
いつの間(ま)にか、周(まわ)りには人がたくさん集(あつ)まっていた。その中に、さっきの喫茶店(きっさてん)の店員もいた。
「あのう、お客(きゃく)さん……」
「わかってる。金だろ。金。ちゃんと払(はら)うよ。コーヒー代」

 丞(じょう)は橋(はし)の上で喫茶店(きっさてん)の店員にコーヒー代をわたすと、男を連(つ)れて公園に行った。公園には丞(じょう)たち以外、だれもいなかった。二人は冷(つめ)たいベンチに腰(こし)かけた。
「なあ、金がないって言ってたけど、どうしたんだ?」
「……なくしたんです」
「なくした?」
「働いている店のお金をなくしてしまったんです。オーナーにお金を銀行に預(あず)けてくるように言われて。それで、お金をバッグに入れて、店からまっすぐ銀行に行って、バッグを開けたら、なくなっていたんです。本当に不思議(ふしぎ)で……」
「どこかで、こっそりとられたんじゃないのか?」
「いえ。バッグはしっかり手に持っていましたし、それはありません。交番(こうばん)にも行ったんですが、見つけるのはむずかしいだろうって……」
「まあ、そうだろうなあ。じゃあ、オーーナーに素直(すなお)に謝(あやま)るしかないんじゃないか?」
「無理(むり)です。オーナーはすごく仕事に厳(きび)しい人なんです。絶対(ぜったい)に許(ゆる)してくれません……。きっとクビです……」
「いくら入ってたんだ?」
「三十万円」
「なにっ!? 三十万? ……ほんとに三十万円?」
「そ、そうですけど……?」
 丞(じょう)はポケットの中の封筒(ふうとう)を確(たしか)かめた。それから、しばらく男の顔(かお)をじっと見つめた。
「これ、やる」
 丞(じょう)は男に封筒(ふうとう)を差(さ)し出した。
「何ですか?」
と言いながら、男は不思議(ふしぎ)そうな顔(かお)をしてそれを受(う)け取った。
「三十万」
「へっ?」
 男は封筒(ふうとう)の中を見て驚(おどろ)く。
「なんで?」
「さっき言ったとおりだ。金なんかより命(いのち)のほうが大事だからだ」
 そう言うと、丞(じょう)は男に背(せ)を向(む)けて歩(ある)き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! こんなお金、もらえませんよ!」
男は追(お)いかけてきた。そして、男の手が肩(かた)に触(ふ)れたと同時(どうじ)に、丞(じょう)は振(ふ)り返(かえ)り、思いっきり男の顔(かお)を殴(なぐ)った。男はバタッと地面(じめん)に倒(たお)れた。
「たった三十万円だろ。そんなんで死(し)のうなんて二度と思うなよ」
 丞(じょう)は、男が起き上がる前に公園から立ち去(さ)った。

 丞(じょう)が部屋に帰ったとき、慎吾(しんご)はもういなかった。晴樹(はるき)はソファーで漫画(まんが)を読んでいた。丞(じょう)は電気ストーブの前に座(すわ)り、冷(ひ)えた体を温(あたた)めた。殴(なぐ)った右手はまだ赤く腫(は)れていた。
「なぁ、晴樹(はるき)。おれ、バイト増(ふ)やそうと思うんだ」
「ふうん」
「さっき、コンビニの求人(きゅうじん)に応募(おうぼ)してきたよ」
「コンビニ? ははは、丞(じょう)さんがコンビニの店員なんて似(に)合(あ)わないよ」
「似(に)合(あ)うかどうかは問題じゃないさ。今できることをやるだけだ」
「ごめん、ごめん。実(じつ)は、おれも同じこと考(かんが)えてた。さっきバイト先(さき)のガソリンスタンドに行って、店長にもう少し遅(おそ)い時間まで働かせてほしいって頼(たの)んできたんだ」
「晴樹(はるき)……」
「ちょっときついかもしれないし、バンドの練習する時間も少なくなるけど、今は稼(かせ)がなきゃ。ほら、すべての経験(けいけん)が音楽になるって前に丞(じょう)さん言ってただろ? だから、これもきっといい経験(けいけん)だよね?」
「ああ」
――すべての経験(けいけん)が音楽になる――黒沢(くろさわ)さんが教えてくれた言葉(ことば)だ。
「あと、さっき慎吾(しんご)さんからメール来たんだけど、大学の論文(ろんぶん)が書き終わったから、しばらくはバンド活動(かつどう)に集中(しゅうちゅう)できるって。これからは丞(じょう)さんの代(か)わりに慎吾(しんご)さんが練習のスケジュールを組(く)んだり、スタジオの予約(よやく)してくれるってさ」
「ほんとか?」
「うん。丞(じょう)さん。おれたち、まだあきらめるのは早いよね?」
「ああ、もちろん。これからだ」
 次の日、丞(じょう)と晴樹(はるき)はアパートの大家(おおや)に謝(あやま)りに行って、なんとか家賃(やちん)を待ってもらえることになった。
 
 それから三日後、孝弘(たかひろ)から荷物(にもつ)が届(とど)いた。大きな箱(はこ)を開けると、中にはぎっしりリンゴが入っていて、その上に封筒(ふうとう)が載(の)せてあった。封筒(ふうとう)には五万円と手紙が入っていた。

***************
 丞(じょう)へ

早く新しいドラムを見つけろ。
おまえたちはあきらめるな。

         孝弘(たかひろ) 
***************

 丞(じょう)はその短い手紙を何度も読み返(かえ)した。

 その日の夕方、丞(じょう)のケータイに知らない番号から着信(ちゃくしん)があった。バイトの休憩(きゅうけい)時間に、その番号に電話をかけてみると、若(わか)い女性(じょせい)が、
「はい。ライブハウス・リープです」
と応(こた)えた。丞(じょう)は驚(おどろ)いた。女性(じょせい)が口にしたのは、この街(まち)で一番大きなライブハウスの名前だ。有名な歌手もよくそこでライブを開(ひら)いている。丞(じょう)たちにとっては憧(あこが)れの場所で、いつかそこでライブをやってみたいと思っていた。
「あのう、すみません。この番号から着信(ちゃくしん)があったんですが……。あの、おれ、森島(もりしま)丞(じょう)って言います」
「森島(もりしま)さん……? あ、はい。少々お待ちください」
 緊張(きんちょう)しながら十秒(びょう)ほど待たされた後、ケータイから低い男の声が聞こえてきた。
「どうも。和(わ)田(だ)です。突然(とつぜん)すまないね。この電話番号は黒沢(くろさわ)から聞いたんだ」
「黒沢(くろさわ)? あの黒沢(くろさわ)楽器(がっき)店(てん)の黒沢(くろさわ)さんですか?」
「そうだ。黒沢(くろさわ)とは古い付き合いでね。先日、うちのスタッフがきみに世話(せわ)になったようだね」
「世話(せわ)? あのう、おれ、何かしましたか?」
「きみ、四日前に若(わか)い男が橋(はし)から飛(と)び降(お)りようとしていたのを助(たす)けただろ?」
「えっ! なんで知ってるんですか?」
「ああ、やっぱりきみか。きみ、ちょっと、今日こっちに来れないか?」
「はい。大丈夫です。あと一時間でバイト終わるんで、六時半ごろになりますが」
「ああ。いいよ。場所は――」
「わかります。リープには何回か行ったことあるんで」
「そうか。じゃ、こっちに来たら、だれか店の者(もの)に声(こえ)をかけてくれ」
 
 連日(れんじつ)のバイトで体はくたくただったが、急(いそ)いでリープへ向(む)かった。
 店の前まで来ると、その建物(たてもの)の大きさに少し緊張(きんちょう)した。入り口のドアを開けたとたん、ものすごい音が飛(と)び出してきた。今日もライブをやっているのだ。飲み物のカウンターの前では大勢(おおぜい)の客(きゃく)が騒(さわ)いでいる。丞(じょう)はスタッフを探(さが)そうと、店内(てんない)を見(み)回(まわ)した。
「森島(もりしま)さん」
「あっ!」
「どうも。ぼく、ここのスタッフなんです」
 そこに立っていたのは、橋(はし)から飛(と)び降(お)りようとしたあの若(わか)い男だった。
 彼は首(くび)にかけている名札(なふだ)を見せながら、
「蒼(あおい)颯(そう)太(た)って言います。この前は、いろいろすみませんでした」と言った。
 顔(かお)には殴(なぐ)られたあざが痛(いた)々(いた)しく残(のこ)っていた。
「大丈夫?」
「あ、これですか? ええ、平気(へいき)です」
 蒼(あおい)は恥(は)ずかしそうに答(こた)えた。
「働いている店って、ここだったんだ」
「どうぞ、こちらへ。事(じ)務(む)所(しょ)でオーナーが待ってます」

「失礼(しつれい)します」
 蒼(あおい)が事(じ)務(む)所(しょ)のドアを開けると、「おう」という低い声(こえ)が返(かえ)ってきた。十(じゅう)畳(じょう)ほどの部屋の奥(おく)にある机(つくえ)で、がっしりした体格(たいかく)の男がパソコンに向(む)かっていた。髪(かみ)は短く、薄(うす)茶色(ちゃいろ)のサングラスをかけている。シャツとジャケットは着(き)ているが、ネクタイはしていない。その代わりに、首(くび)には太い金のネックレスが光(ひか)っていた。この怖(こわ)そうな人が店長の和田(わだ)のようだ。和田(わだ)は立ち上がって丞(じょう)のところまでくると、握手(あくしゅ)を求(もと)めてきた。和田(わだ)の厚(あつ)い手を握(にぎ)った瞬間(しゅんかん)、――この人も何か楽器(がっき)をやっていたんだ――とわかった。
「和田(わだ)だ。よろしく」
「森島(もりしま)丞(じょう)です」
「まあ、座(すわ)って」
 丞(じょう)はソファーに腰(こし)を下(お)ろした。和田(わだ)は向(む)かいに座(すわ)り、蒼(あおい)はその横(よこ)に立った。
「ええと、まず確認(かくにん)だが、きみが橋(はし)の上で助(たす)けた人物(じんぶつ)は彼で間(ま)違(ちが)いないね?」
「はい」
「蒼(あおい)颯(そう)太(た)というのが、この男の名前だ。知っていたかい?」
「いえ、ついさっき本人から聞くまでは知りませんでした」
「ということは、きみは本当に名前も知らない男に三十万円あげたんだね。はははは。では、説明(せつめい)するよ。あの日、蒼(あおい)は店の売上(うりあげ)金(きん)の三十万円をバッグに入れて、銀行に向(む)かったんだ。銀行はここから歩いて十分ぐらいのところにあって、いくら銀行が込(こ)んでいても一時間もかからないで帰って来れる。だが、一時間たっても、二時間たっても、帰って来ない。何かあったんじゃないかと思ってね。電話をかけても通(つう)じないし、スタッフもみんな心配(しんぱい)していたんだ。そうしたら、『もしかして、あいつ、金を持って逃(に)げたんじゃないか』なんて疑(うたが)うスタッフが出てきてね。そんなはずはないと思ったけど、一応(いちおう)ロッカーを調(しら)べてみることにしたんだ。すると、ちゃんと蒼(あおい)のロッカーには荷物(にもつ)があった。バッグがあって、ケータイや自分の財布(さいふ)なんかも入っていたから、とりあえずほっとしたよ。ところが、そのバッグの中から三十万円が入っている封筒(ふうとう)が見つかったんだ。つまり、蒼(あおい)は出かけるときに、間(ま)違(ちが)えて店のバッグじゃなくて自分のバッグにお金を入れたということだ」
「じゃあ、お金はあったんですか?」
「ああ」
「よかった……」
「それで、スタッフみんなで蒼(あおい)を探(さが)しに行こうとしたとき、本人(ほんにん)が帰ってきた。驚(おどろ)いたよ。顔にあざがあるし、それに、なんと三十万円を持っていた。蒼(あおい)は、『道に迷(まよ)ってしまって、銀行に着(つ)いたときにはもう閉まっていたから戻(もど)ってきました』なんて下手なウソをついたけど、おれがロッカーにあった三十万円を見せたら、何も言えなくなってしまってね」
 丞(じょう)はソファーの横(よこ)に立っている蒼(あおい)のほうを見た。蒼(あおい)は恥(は)ずかしそうに頭(あたま)を下げた。
「すみませんでした。知らない人に三十万円ももらったなんて話、だれにも信(しん)じてもらえないと思って、つい……。でも、その後、本当のことをオーナーに話したら、信(しん)じてもらえて」
「いや、信(しん)じたといっても半分だけだ。そんなことする人間(にんげん)がいるとは思えないからね。それに、名前も連絡先(れんらくさき)もわからないと言うし」
「じゃ、どうやっておれだってわかったんですか?」
 和田(わだ)は、蒼(あおい)に「おい、あれ」と言うと、蒼(あおい)はポケットから何か小さいものを取り出した。そして、「どうぞ」と、丞(じょう)にそれを差(さ)し出した。
「あっ! これ、おれの……」
 ピックだった。黒沢(くろさわ)がお守(まも)りだと言って、返(かえ)してくれたピックだ。実(じつ)は、あの日、家に帰った後、いくら探(さが)しても見つからなくて、失(な)くしたと思っていた。
「それ、あの公園に落(お)ちてたんです。たぶん、ぼくを殴(なぐ)った時、落(お)ちたんだと思います」
「そうか、あの時……」
「また会えた時に返(かえ)そうと思って拾(ひろ)ったんですが。音楽をやっている人だから、もしかしたらと思って、昨日それを店長に見せたら――」
和田は蒼(あおい)の話を引(ひ)き継(つ)いだ。
「そのピックを見て驚(おどろ)いたよ。そこに何て書いてある?」
 もちろん覚(おぼ)えている。だが、丞(じょう)はあらためてその黒いピックに書かれた金色の文(も)字(じ)を読んだ。

 ――Good Luck! ブラックフィールズ――


「ブラックフィールズは、おれと黒沢(くろさわ)が組(く)んでいたバンドの名前だ」
「えっ」
「もう二十年ぐらい前になるが、『Good Luck!』っていう曲をCDで出したんだ。その記(き)念(ねん)に作ったのがこのピックだ。それで、もしかして……と思って黒沢(くろさわ)に電話をかけてみた。すると、黒沢(くろさわ)が思い当(あ)たるやつが一人いると言った。そいつは、その日店にギターを預(あず)けて三十万借(か)りて行ったって。これは間(ま)違(ちが)いないと思ったよ。そして、きみの名前と電話番号を教えてもらったってわけだ」
「そうだったんですか」
 丞(じょう)は手の中にある小さなピックに感謝(かんしゃ)した。
「きみが、借(か)りて行った金を自殺(じさつ)しようとしていた男にあげたって話したら、黒沢(くろさわ)は笑(わら)ってたよ」
「いやぁ、自分でもバカなことをしたって思います」
「でも、後悔(こうかい)はしなかっただろ?」
「はい」
「気に入ったよ」
 和田(わだ)は立ち上がると、机(つくえ)の引(ひき)出(だ)しから封筒(ふうとう)を持って来た。
「これは返(かえ)すよ。ありがとう」
 丞(じょう)は黙(だま)って三十万円入った封筒(ふうとう)を受(う)け取(と)った。
「うちのスタッフの命(いのち)を救(すく)っててくれたんだ。本当に感謝(かんしゃ)している。ぜひお礼(れい)をさせてほしい」
「いえ、お礼(れい)なんていいですよ。お金も戻(もど)ってきましたし」
「いや、そんなこと言わずに、まず話を聞いてくれ。来月の二十五日に、うちのライブハウスで『ノースバウンド』のライブがあるんだ」
「ほんとですか? おれ、ノースバウンドの大ファンなんです。あっ、もしかして、そのライブに招待(しょうたい)してくれるってことですか?」
「そういうことだ」
「ありがとうございます! 最高(さいこう)にうれしいです!」
「ただし、客(きゃく)としてじゃない」
「え?」
「出演(しゅつえん)バンドとしてステージに招待(しょうたい)したい。つまり、きみたちのバンドにノースバウンドの前座(ぜんざ)をお願(ねが)いしたいんだ。もちろん出演(しゅつえん)料(りょう)も出す」
「前座(ぜんざ)ってことは、ノースバウンドと同じステージに立てるってことですか?」
「そうだ。もちろん客(きゃく)はノースバウンドを見に来る。その客(きゃく)の前で演奏(えんそう)するんだから、反応(はんのう)は厳(きび)しいかもしれない。でも、きみらはプロを目(め)指(ざ)してるんだろ? 黒沢(くろさわ)から聞いたよ。きみらにとって、大勢(おおぜい)の客(きゃく)に名前を覚(おぼ)えてもらうチャンスだ。悪(わる)い話じゃないだろ?」
「……」
 丞(じょう)が何も言わずにいると、和田(わだ)はそれを自信(じしん)がないと受(う)け取(と)ったらしく、
「まあ、無(む)理(り)しなくてもいい。じゃあ、お礼(れい)は違(ちが)う形(かたち)でさせてもらうことにするよ」
と言った。
「いえ、そうじゃないんです。出たいです。本当にありがたい話だと思います。でも……」
「でも?」
「おれ、チャンスって、こうやって与(あた)えてもらうものじゃなくて、自分の手でつかみとるものだと思ってるんです。だから……、テストしてくれませんか? 和田(わだ)さんがおれたちの演奏(えんそう)を聴(き)いて本当にいいバンドだと認(みと)めてくれたら、ライブに出してください。お願(ねが)いします!」
 和田(わだ)は一瞬(いっしゅん)言葉(ことば)を失(うしな)ったようだったが、すぐに大声(おおごえ)で笑(わら)い出した。
「はっはははは。いやあ、きみの言うとおりだ。たしかに、きみたちの演奏(えんそう)を聴(き)かないのに勝手(かって)に決(き)めるなんて失礼(しつれい)だったなあ。すまない」
「じゃあ、聴(き)いてもらえるんですか?」
「ああ。ただ、テストというからには厳(きび)しくやるが、いいかい?」
「はい。ありがとうございます!」
「よし、じゃあ、来週の水曜にここでテストだ。詳(くわ)しいことはあとで連絡(れんらく)する」
「はい!」
 丞(じょう)は事(じ)務(む)所(しょ)を出ると、小さくガッツポーズをした。
――よし! ついにチャンスが来た! みんな、この話、聞いたら驚(おどろ)くぞ。晴樹(はるき)、慎吾(しんご)、孝弘(たかひろ)……ん、孝弘(たかひろ)? そうだった、孝弘(たかひろ)はいないんだ……。ドラムがいない。やばい――
 丞(じょう)が頭(あたま)をかきながらバーカウンターの前を通(とお)り過(す)ぎようとしたとき、蒼(あおい)が「丞(じょう)さーん」と言いながら走(はし)ってきた。
「本当にこの間はすみませんでした」
「おう。こっちこそ悪(わる)かったな。いきなり殴(なぐ)ったりして」
「いえ、そのことは本当に気にしないでください。ぼくが悪(わる)かったんです。それより、よかったですね。ノースバウンドのライブに出られるなんて」
「いや。まだ出られるって決(き)まったわけじゃないよ」
 蒼(あおい)は興奮(こうふん)してしゃべり続(つづ)ける。
「大丈夫ですよ。きっと出られます! さっきの丞(じょう)さん、すごくかっこよかったです! 『チャンスは与(あた)えてもらうものじゃなくて、自分でつかみとるものだ』って。しびれました! 曲(きょく)、聴(き)いたことないですけど、丞(じょう)さんのバンドなら絶対(ぜったい)大丈夫ですよ!」
「おいおい。勝手(かって)なこと言うなよ。自信(じしん)がないわけじゃないけど、今はちょっとまずいことになってるんだ」
「まずいこと?」
「ドラムがいないんだ。一週間前にバンドを抜(ぬ)けちまって」
「えーっ!」
「だから、新しいドラムを探(さが)さなきゃいけないんだ……あっ、そうだ。ライブハウスで働いているんだから、いろんな話、聞こえてくるだろ? だれかいいドラム、いない?」
「います! ここに」
「えっ?」
「ぼく、ドラマーなんです! 自分で言うのもなんですけど、けっこう上(う)手(ま)いんですよ」
「うそ?」
 
 次の日、蒼(あおい)颯(そう)太(た)は丞(じょう)たちがバンド練習をしているスタジオにやってきた。
 蒼(あおい)の実力(じつりょく)は本物(ほんもの)だった。父親がジャズバンドのドラムをやっていて、その影響(えいきょう)で三歳(さい)のころからドラムを叩(たた)いていたらしい。蒼(あおい)はライブ用(よう)の曲(きょく)をたった二日で完璧(かんぺき)に覚(おぼ)えてしまった。慎吾(しんご)も晴樹(はるき)もそんな蒼(あおい)の実力(じつりょく)を素直(すなお)に認(みと)めるしかなかった。
 蒼(あおい)は自分でも驚(おどろ)いたような顔(かお)をして言った。
「ぼく、このバンドに入るために、今までドラムをやっていたんだと思います。バレットの曲(きょく)、どれも最高(さいこう)です」
 こうして、蒼(あおい)はバレットのメンバーになった。
 
水曜日。予定(よてい)通(どお)り、リープでテストが行われた。
音のチェックが終わり、丞(じょう)はステージのマイクの前に立った。客席(きゃくせき)には和田(わだ)と店のスタッフ、その後ろには黒沢(くろさわ)の姿(すがた)も見えた。
大きく息(いき)を吸(す)い、ゆっくり吐(は)き出した。そして、後ろを向(む)き、メンバーに開始(かいし)の合図(あいず)を送(おく)ると、丞(じょう)は目を閉(と)じた。

スティックを叩(たた)く音
 蒼(あおい)のドラムがリズムを刻(きざ)み始める
 慎吾(しんご)のベースが低音(ていおん)を響(ひび)かせる
 晴樹(はるき)のギターが大きくうなる
 丞(じょう)は目を開け、マイクを引(ひ)き寄(よ)せた
体の奥(おく)から込(こ)み上げてくる
 弾(はじ)き出された歌声(うたごえ)が聴衆(ちょうしゅう)の胸(むね)を打(う)ち抜(ぬ)いた


 その夜、丞(じょう)は孝弘(たかひろ)に手紙を書いた。

***************
 孝弘(たかひろ)へ

 やっぱり五万円は返(かえ)す。
 金は自分たちでなんとかする。
 リンゴと手紙だけで十分だ。ありがとよ。
 お礼(れい)に幸運(こううん)のピックをおまえにやる。
 大切にしろよ。
 おれたちは絶対(ぜったい)にあきらめない。
 おまえは世界一(せかいいち)のリンゴ農(のう)家(か)になれ。                 
 Good Luck!
                        丞(じょう)
***************

 丞(じょう)は手紙を書き終え、ギターから外(はず)したピックを封筒(ふうとう)に入れると、箱(はこ)に残(のこ)った最後(さいご)のリンゴにかじりついた。
                                               (完)                               

            

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