私の名前は楡井麗子。今年で三十歳になる。去年の十二月、ここ柳之下町に小さな床屋「優」を開いた。
柳之下町は古い町で、瑞桜寺という大きなお寺がある。「優」はそのお寺のお墓の裏にある。はっきり言って場所は良くない。建物も古いし、お墓と店の間に大きな桜の木があって、昼間でも日があまり当たらない。だが、家賃は安い。それに、柳之下町は三、四年前から新しいマンションや団地が建って住人が増えている。お金はないが、自分の店がほしい。ということで、悩んで悩んでここに決めた。
最初はお客さんがぜんぜん来なかった。でも、がんばって近所にチラシを配ったら、だんだんお客さんが来るようになった。それでも、平日はなかなかお客さんが増えないので、先月から新しいサービスを始めた。
一つは、夜7時までだった営業時間を9時までに延ばすことだ。平日、会社員が仕事帰りでも来やすいようにした。
もう一つのサービスは、子ども割引だ。ほかの店ではカットのみで1000円ぐらいだが、うちの店は思い切って777円にした。子どもを連れて来るお父さんやお母さんも、お客さんになってくれると思ったからだ。今、そのサービスを何歳までにしようか考えているところだ。やっぱり小学生までかな。中学生は一人で来られるし。
でも、実は、男の子はあまり好きじゃない。なぜなら、小学生のとき、クラスの男の子たちに「楡井麗子」という名前をからかわれて、「幽霊」と呼ばれていたからだ。そして、今でも近所の子どもたちの間では、この店は「幽霊床屋」と呼ばれているらしい。
三月なのに、その日は雪が降っていた。午後8時半を過ぎた。今日のお客さんは昼に来た二人だけかと思っていると、ドアが開く音がした。
「すみません。まだ空いていますか?」
お客さんは三十代半ばぐらいの女性だった。背が高くてモデルのようだった。
「はい。大丈夫ですよ。どうぞ」
彼女はコートを脱いで、いすに座った。傘を持っていなかったようで、髪が濡れていた。
いすに座ると、思ったより背は高くなかった。ヒールの高い靴を履いていたのだ。こういうタイプの女性が床屋に来るのは珍しい。
「今日はどうしましょうか?」
「ええと、女性でも大丈夫なんですよね? 実は美容院しか行ったことがなくて、床屋に来たのは初めてなんです。」
「大丈夫ですよ。最近、床屋に来る女性は増えているんです。顔剃りもできますし。この店も今はまだ男性のお客さんがほとんどなんですが、本当は女性のお客さんもたくさん来てほしいなあと思ってるんです」
「ああ、よかった。ここは遅い時間でも開いているし、女性の方が切ってくれるって聞いたから。じゃあ、カットと顔剃りをお願いします」
「はい。かしこまりました」
髪をタオルで乾かし、櫛でとかすと、カットを始めた。
カットを始めて二十分ぐらいたったころ、
「明日、息子の小学校の卒業式なんです」
と彼女が言った。
「そうですか。おめでとうございます。明日は晴れるといいですね」
「ええ。でも、あの日も雪だったから……」
「あの日? あっ、そうでしたね。明日は三月十一日ですね。もう五年かあ。早いですね。あのときは大変でしたね。私、別の店に勤めてたんですけど、あの地震が起きたときは営業中だったので、物は倒れるし、窓ガラスは割れるし。お客さんもカットやパーマがまだ途中でも『帰りたい!』って言うし……。私も電車が止まっていたので、家まで歩きましたよ。二時間も」
「家族は大丈夫だった?」
「はい。実家は山形なので大丈夫でした。はい。カットできましたが、いかがですか?」
彼女は鏡を見ると、にっこり笑った。
「うん。髪を切るのはひさしぶりだから、ちょっと心配だったんだけど、とってもいい」
「そうですよ。女性はやっぱりおしゃれしないと!」
「そうね……」
なぜか彼女は少し悲しそうな顔をした。私もなんだか声をかけづらくて、それからしばらく何も話さなかった。
髪を洗い、頭を温かいタオルで包むと、いすを倒して、顔剃りを始めた。ほほに触れると、ずいぶん冷たかった。全部剃り終え、タオルで顔をきれいにふいた。そのとき、彼女が再び口を開いた。
「大希っていうの」
「え?」
「息子の名前」
「ああ」
「あの日から大希と会っていないの」
「えっ……」
「あの日、車で買い物に出かけたの。ほら、港の近くに大きなスポーツ用品の店があるでしょ?」
「ええ」
「大希は野球が好きで、『グローブがほしい』って言うから、主人と相談して買ってあげることにしたの。二年生に進級するお祝いに。一人息子だから、つい何でも買ってあげたくなっちゃうの」
「じゃあ、買い物しているときに地震が起きたんですか?」
「そう。店の中はめちゃくちゃになって、お客さんも店員もみんな怖がって……。地震がおさまって、だれかが言ったの。『津波が来る』って。それを聞いて、急いで駐車場に向かったの。大希の小学校も海からそんなに離れていなかったから、自分のことよりそれが心配で。すぐに迎えに行かなくちゃって思ったんだけど……私、こんなヒールの高い靴履いてたから、走れなくて……。やっと店を出て、駐車場から車を出したときにはもう道路は車でいっぱいで、全然進まなかったの。そこから小学校までは車で十分もかからないんだけど、あの日は……。このままここに車を止めて、走って行こうかと思ったけど、この靴だし、後ろの車の迷惑になるかなって思ったらできなくて……。ただ『早く、早く!』って祈ってた。――馬鹿でしょ、私。どうしてこんな靴履いて行ったんだろ。買い物に行くだけなのに。もうお母さんなんだから、そんなにおしゃれなんかしなくてもよかったのに……」
彼女は泣いていた。外はまだ雪が降っていた。
「そんなことないですよ。お母さんになっても、何歳でも、おしゃれをしていいんです。きっと大希くんもおしゃれできれいなお母さんのことが大好きだったはずですよ。今日はメイクもして帰りましょう」
「うん。ありがとう。実は、この靴、大希が『お母さんに似合ってる』って言ってくれたから買ったの」
翌日は気持ちのいい晴れだった。
お昼過ぎ、もう道路の雪もすっかり溶けてなくなったころ、少し大きめの学生服を着た少年が店にやってきた。一目見てわかった。昨日の女性の息子だ。顔がそっくりだった。一瞬、「わっ、幽霊!」と思ったが、こんな昼間に幽霊が出るわけがない。それに、幽霊が成長するというのも変な話だ。大希くんは生きていたのだ。じゃあ、どうして彼女は、「あの日から大希と会っていない」なんて言ったんだろう?
「大希くんでしょ?」
「あ、はい。え、なんでぼくの名前、知ってるんですか?」
「きみのお母さんから聞いたの。お母さんとそっくり。ねえ、卒業式、どうだった? お母さんも喜んでたでしょ?」
「……お母さんの知り合いですか?」
「うん。実は、お母さん、昨日この店に来てくれたのよ」
「昨日、ここに!? ほ、ほんと? ほんとにお母さんに会ったんですか?」
「う、うん」
少年は口を開けたまま、店の中をあちこち見て言った。
「幽霊床屋って、本当だったんだ!」
「えっ?」
「じゃあ、やっぱりあれはお母さんだったんだ! 今日、卒業式に来てたんです。遠くからだったけど、みんなのお父さんとお母さんといっしょに並んで、ぼくのこと見てたんです」
「……」
「みんな信じてくれないと思ってだれにも言ってないけど。本当なんです!」
「どういうこと?」
「ぼくのお母さん、五年前に亡くなってるんです。津波で」
その言葉を聞いた瞬間、体中の血が引いていくのがわかった。
思い返してみると、気になることがいくつかあった。彼女が店に入ってきたとき、髪が濡れていた。雪で濡れていると思ったけど、触ってみると普通の水ではないようだった。あれは海水……。それに、顔剃りで肌に触れたときに感じた冷たさ。そして、見送るとき、ドアの前で「またいらしてください」と頭を下げた。けど、頭を上げたときには、彼女はもうどこにもいなかった。
「さっきお父さんと瑞桜寺のお墓にお参りしてきました。『卒業式に来てくれてありがとう』って」
思わず窓の方を向く。お墓は見えないが、桜の木が見える。寒い冬に耐えた小さな蕾はこれからぐんぐん成長していく。春は遠くない。
「お父さんはいっしょに来ないんだね?」
「はい。もう中学生だし、一人で大丈夫って言って来ました」
「偉い! ねえ、大希くんは今でも野球が好きなの?」
「はい。中学校でも野球部に入ろうと思っています」
「そうなんだ」
「それで、髪を短くしようと思って来たんですけど、子ども割引になりますか?」
「うん。なるよ。制服着てるけど、今日はまだ小学生でしょ」
「じゃあ、中学生になったら?」
少し考えた。
「もちろんなるよ。中学生はまだ子ども!」
「う~ん」
「どうしたの? うれしくないの?」
「割引になるのはうれしいけど、『まだ子ども』って言われるのは、ちょっと複雑な気持ちで……」
「ふふふ。ねえ、今日のお母さん、どうだった? きれいだった?」
「さっきの話、信じてくれるんですか?」
「うん。もちろん。ちょっと複雑な気持ちだけど」
「じゃあ、特別に教えてあげます。恥ずかしいからだれにも言わないでくださいね。今日来たお母さんたちの中で、うちのお母さんがいちばんきれいでした」
(完)
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