杉田亘、25歳。ぼくは柳之下町にある小さな不動産屋で働いている。今年で三年目だ。だいぶ仕事も覚えたが、まだ一人でアパートやマンションなどの物件を案内したことはない。毎日、社長には叱られてばかりいる。昨日も「客の顔をちゃんと覚えておけよ!」と注意を受けた。
――八百屋じゃないんだから、たまにしか来ない客の顔なんか覚えられるわけがない。
夕方、店には社長とぼくしかいなかった。ぼくがトイレから戻ってくると、長い髪の女性が、じっと店の前に貼ってある部屋のチラシを見ていた。いつもなら社長がニコニコして外へ出ていってお客さんに声をかけるのだが、今日は気づいていないようだ。のんびり新聞なんか読んでいる。いいチャンスなので、ぼくが声をかけてみることにした。
外へ出ると、冷たい風が吹いていた。ぼくはできるだけ優しくその女性に声をかけた。
「いらっしゃいませ。よかったら、中でお茶でも飲みながら……」
女性は少し驚いたような顔をしたが、「ええ」と言って店の中へ入ってきた。
「アパートを借りたいんです」
「ええ。それではこちらにおかけください」
「今住んでいるアパートが古くなって、今度壊すことになったんです。気に入っていたんですが……」
「そうですか。それは困りましたね。わかりました。では、どのような部屋がよろしいですか?」
「うるさいのが苦手なので、できるだけ静かなところがいいです」
「駅から少し遠くなってもいいですか?」
「ええ、かまいません」
「はい、かしこまりました。では、家賃は?」
「いくらでもけっこうです」
「……かしこまりました。それでは少々お待ちください」
――彼女はお金持ちなのか? 地味な格好をしているし、そんなふうには見えないけど……
お茶を出してから、パソコンでその条件に合う部屋をいくつか探して、プリントした。そして、それを彼女に見せながら説明した。すると、直接見に行きたいと言った。もう外は暗くなりかけていたが、特に急ぐ仕事もないので、車で案内することにした。
店を出るとき、社長に「いってきます」と言うと、心配そうな顔をした。
――もう、そんなに心配しなくてもいいのに……。案内ぐらい一人でできるよ。
一件目の部屋は、駅から歩いて十分ぐらいのところにあるアパートだ。
「このあたりは住宅地で静かだし、近くにコンビニもあって便利でいいですよ。それに、去年建てたばかりなので、部屋もきれいで新しいし……」
「すみません。新しい部屋はちょっと落ち着かなくて……」
「そうですか」
――新しい部屋が嫌? 珍しいお客さんだなあ。でも、よく考えると、さっき家賃は、いくらでもいいと言ってたけど、本当は安いところがいいのかな。
二件目の部屋は、駅から歩いて十五分ぐらいのところにあるアパートだ。
「このアパートは十八年前に建てられました。ここは二階の角部屋だし、窓も南向きなので、昼間は明るくていいですよ。ちょっと駅から遠いので、家賃も安くなります」
「う~ん」
「どうですか?」
「……わたし、明るいのが苦手なんです。日当たりがいいのはちょっと……」
「そうですか」
――そう言えば、肌が白い。できるだけ日焼けしたくないのかもしれない。
三件目の部屋は、お寺の裏にある古いアパートだ。
「この部屋は、窓も北向きで、あまり日も入りません。もう三十年前に建てられたアパートですから、家賃も安いですよ。どうでしょう?」
「すみません。やっぱりこの部屋は……」
「どうしましたか?」
「夜になると、にぎやかになりそうなので……」
「えっ!? ご覧の通り、隣がお寺なのでとっても静かですよ」
しかし、彼女はそれ以上何も言わなかった。そして、部屋を出ると「次をお願いします」と言った。
――そう言えば、彼女、窓を開けてお寺の墓場をじっと見ていた。もしかして彼女は幽霊が見えるのか!?
四件目に着いたときには、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
ここはアパートではなく、古い二階建ての借家だ。四年前ここに住んでいたおばあさんが亡くなってから、だれも借りる人がいない。
「もうここが最後です。駅から三十分ほどかかりますが、お客様の希望にぴったりだと思います。静かで、古くて、暗い……どうですか?」
「いいですね。ここ。気に入ったわ」
「そうですか。よかったです。それで、こちらの家賃なんですが……」
「ごめんなさい。実は、わたし、家賃が払えないの」
「えっ。五万円ですが、高いですか。それならもっと安くしてもいいです!」
「そうじゃないの。払いたいけど払えないの。わたし、幽霊だから」
「えっ」
女の暗く冷たい目に僕は飲み込まれた。
「あなた、幽霊が見えるのね」
息が苦しい。声が出ない。
――そうか。社長は彼女に気づかなかったんじゃない。彼女が見えなかったんだ……
女が近づいてくる。だが、足が固まったように動かない。
「く、来るな!」
目の前まで来ると、女はにこっと笑った。背中から冷たい汗が流れた。そして、ぼくの耳に顔を寄せ、
「杉田さん、親切にしてくれてありがとう」
と言うと、暗い廊下の方へ進んで行き、階段の手前で、ふっと消えた。
しばらくすると、二階から、ギシッ、ギシッ、という音が聞こえた。ぼくは怖くて、二階へ上がれなかった。
次の日、ぼくは社長に昨日起きたことを話した。
「信じてくれますか?」
すると、社長はこう言った。
「もちろん信じるさ」
「本当ですか?」
「ああ、だって、十年前に彼女に部屋を探してあげたのは、わたしだからね」
「えっ……」
「実は、昨日も見えていたんだよ。けど、また彼女に付き合うのは嫌だから、見えないふりをしてたんだ。家賃も払ってくれないし。でも、まさか杉田君も見えると思わなかったよ。ほら、いつも言ってるだろ。客の顔はちゃんと覚えておけって」
(了)
とてもおもしろかったです!
ReplyDeleteうちの学生にも読ませようと思います!
ありがとうございます! 怖い話が好きな学生さんにぜひすすめてみてください。コメントに気が付くのが遅くて、本当にすみませんでした。
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