藤田嗣治は、20世紀に活躍した日本人の画家である。それまでの日本人の画家は、留学生として短期間現地で過ごし、そこで学んだ文化をただ日本に持ち帰るだけだった。しかし、彼は長い年月をフランスで過ごし、現地でその実力を認められた。これはアジアの画家として初めてのことだった。
しかし、藤田は、長い間、日本では評価されなかった。それは、彼が戦争に深く関わっていた人物だとされてきたからだ。
戦後、再び彼はフランスに渡る。その後、日本国籍を捨て、フランス人になった。さらに、晩年にはキリスト教の洗礼を受け、「レオナール・フジタ」と名前も変えた。
藤田は、なぜフランス人になったのか。彼の81年にわたる人生の旅を振り返ろう。
[Ⅰ 藤田少年]
1886年(明治時代)、フジタは東京の大曲で生まれた。四人兄弟の末っ子だった。父の嗣章は陸軍の医者だった。そのおかげで、藤田家は経済的に不自由のない生活を送ることができた。
4歳のとき、父の仕事の都合で熊本へ引っ越した。そこで母を病気で亡くした。まだ幼いフジタにとっては、非常にショックな出来事だった。
少年時代は自然豊かな熊本で過ごした。しかし、子どもの頃のフジタは、どちらかと言えば、おとなしい性格だった。外で遊ぶより、姉たちと人形遊びをするほうが好きだった。
本を読むのも好きだった。特に江戸時代の版画が好きで、葛飾北斎の絵本を夢中になって読んだりした。また、父や親戚からお土産に外国のクッキーをもらうことがよくあった。そんなときはクッキーの箱に描かれた美しい絵をじっと眺めて過ごした。
小学校では、算数は苦手だったが、図画はいつもクラスで一番だった。絵を描くのは、やはり得意だった。
12歳のとき、東京の四谷に戻ってきた。小学校を卒業すると、フジタは御茶ノ水にある中学校に入学した。
中学校では柔道を習い始めた。毎朝四時に起きて、眠い目をこすりながら、柔道場に通った。クラスメイトは野球やテニスを楽しんでいたが、目の悪いフジタは自分には無理だと思い、地味な柔道を選んだのだ。
14歳のとき、フジタにとって重大な出来事が起きた。フジタの描いた絵が、なんとパリで開かれた万国博覧会に出展されたのだ。フジタは飛び上がって喜んだ。日本の中学生の代表作品に選ばれ、このことで自信がついたフジタは、あることを決意した。
フジタは幼い頃から、ずっと画家になりたいと思っていた。だが、それを尊敬する父の前で口にしたことはなかった。父には、どこか近づきがたいものがあった。それに、父はフジタも自分と同じ医者になってほしいと思っていたようで、言い出すのが怖かった。だが、これを機会に、父に画家になる夢を認めてもらいたいと思ったわけだ。
ただ、直接口で伝えるのは軽い感じがした。そこで、フジタは自分が本気だということを伝えるために、長い手紙を書いた。その手紙を近所のポストに入れると、夜にはもう自宅に届いていた。
手紙を読んだ父は、フジタを呼んだ。フジタは叱られるに違いないと思い、びくびくしながら部屋に入った。すると、父は黙ったまま財布からすっと50円を取り出して、フジタにわたした(当時50円は大金だった)。それから、フジタの目をじっと見つめて、ゆっくり首を縦に振った。それは「自分の選んだ道を生きなさい」という意味だった。
翌日、フジタは画材店に出かけ、ずっとほしかった油絵の道具を手に入れた。
次に、フジタは、フランス語を習い始めた。別の中学校の夜間部に通い、フランス語の授業を受けた。
そのことはクラスメイトに秘密にしていたが、ある日みんなにばれてしまった。英語の授業で、イギリス人の先生がフランス語でフジタに質問してきた
「きみの英語の発音はフランス語みたいだ。きみはフランス語ができるのか?」
それに、フジタもついフランス語で返してしまった。
「はい。いつかフランスに行くために勉強しているんです」
それ以来、フジタはまわりのクラスメイトから尊敬の目で見られるようになった。
藤田少年は、夢に向かってまっすぐに進んでいった。
[Ⅱ 芸術の都パリへ]
1905年、19歳になったフジタは、父の勧めで東京美術学校西洋画科に入学した。この学校で日本画と西洋画、それから彫刻の基礎も学んだ。
この学校には地方から来た学生も大勢いた。フジタはいわゆる都会っ子だったが、彼らとはすぐに仲良くなった。東京中を遊んでまわり、仲間とともに楽しい青春時代を送った。
一方、学校の成績は、あまり良くなかった。展覧会に入選したのも一度だけだった。
西洋画の先生からは「きみの絵は風景がよくない」と言われ、日本画の先生からは「きみの描く日本画は西洋画のようだ」と言われた。
さらに、卒業制作では、フジタの描いた自画像が、みんなの前で先生から「悪い例だ」と批評された。その先生は黒い色を使うのが嫌いだったのに、フジタはその自画像を黒をたくさん使って描いたのだ。
だが、フジタは黒こそ日本の色だと信じていた。それに、日本画と西洋画を区別して扱うのはおかしいと心の中で思っていた。このことが、後にフジタが海外で成功できた理由かもしれない。
この頃、フジタは旅行で房総を訪れた。そして、そこで出会った鴇田登美子と恋に落ちた。彼女は女子美術学校を卒業した後、女学校の教師をしていた。それから二年後、二人は結婚し、東京の小さな家で暮らし始めた。
私生活は満たされていた。しかし、画家としての将来はまだ何も見えていなかった。卒業後も展覧会に出品していたが、すべて落選だった。
そんなフジタを、父は心配していた。しかし、応援してあげたい気持ちは変わらなかった。そこで、フジタにフランス留学を勧め、フジタが30歳になるまで援助を続けると約束してくれた。
1913年、27歳のフジタは、ついにあこがれのフランスへ行くことになった。横浜港から船でフランスのマルセイユに向けて出発した。登美子は日本に残していった。寂しい思いをさせてしまうが、いずれフランスへ呼び寄せるつもりでいた。
マルセイユに船が到着したのは、出発してから45日後のことだった。そこから列車を乗り継いで、ようやくパリにたどりついた。フジタは大きく息を吸い込んだ。真夏のパリは、芸術の香りがした。
この頃、芸術の中心地と言えば、パリのモンパルナスという地区だった。そこに世界中から若い画家が集まってきた。モディリアーニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、リベラ(メキシコ)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)……。後に彼らは「エコール・ド・パリ」と呼ばれるようになる。
パリに着いたフジタは、はじめはホテルに泊まっていたが、すぐに、そのモンパルナスにアトリエ付きのアパートを見つけて引っ越した。
まもなく川島という日本人の画家と知り合った。川島はフジタよりも先にフランスに住んでいた。川島に連れられ、フジタはパリ市内の美術館や劇場を巡った。日本では見たことがない最新のアートに触れ、多くの刺激を受けた。
さらに、幸運なことに、知り合いのスペイン人の画家に呼ばれ、ピカソのアトリエを訪れることになった。フジタは、そこでピカソやアンリ・ルソーの絵を目にして、口から心臓が飛び出そうになった。自分が日本で学んだ印象派の絵はもう古い。パリではもう次の時代に入っていると感じた。
1914年の夏、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアとの間に戦争が起きた。第一次世界大戦である。
パリの街からも多くの青年が戦場へ向かった。フランスにいた日本人は続々と帰国していったが、フジタは帰ろうとしなかった。まだフランスに来て一年しか経っていない。このまま何もできずに日本に帰るのは嫌だ。
やがて日本からの通信や送金も難しくなり、生活が苦しくなった。パンを買うお金もなくなり、家にあったベッドや食器まで売り払った。
ある日、フジタは何もない部屋で床に座ってリンゴをかじり、その残りの半分を鏡の前に置いて静物画を描いた。フジタは貧しさと孤独と戦いながら、新しい絵を模索していた。おれは画家として成功するために、ここにいるのだ。
この頃、フジタのオカッパ頭が生まれた。床屋に行くお金がなかったので、自分で髪を切ったのだ。前髪をまっすぐ切りそろえたヘアスタイルは、丸メガネとともにフジタのトレードマークになった。まわりからは「自分を宣伝するために、わざと目立つ髪型にしているんだろう」と言われた。だが、フジタがずっとこの髪型だったのは、この頃の気持ちを忘れないようにしていたからかもしれない。
だが、さらに戦争が激しくなると、ついにパリにはいられなくなった。仕方なく、フジタはパリを離れ、ロンドンへ疎開し、そこで一年を過ごした。
1916年、フジタは30歳になった。父との約束では日本へ帰ることになっていた。しかし、フジタの決心は固かった。父に「自分は死んだと思ってあきらめてください。もう日本には帰りません。送金も必要ありません」という手紙を書いた。妻の登美子には離婚のための書類を送った。フジタは何かを掴みかけていた。
翌年、パリに戻ると、フジタは初めての個展を開いた。描いたのは、風景画だった。
―—ほかの画家たちは、みんな、にぎやかなパリの中心部を描きたがる。だから、私は逆に郊外の街並みや人々を描こう――これが評判を呼び、絵は次々と売れていった。
また、個展が成功したのは、フェルナンド・バレーという女性のおかげでもあった。彼女も画家で、貧しいフジタの生活を支えてくれた。やがて二人は結婚した。
だが、結婚生活はうまくいかなかった。7年後にはフェルナンドが別の男性と恋に落ち、二人は別れることになる。
1918年、第一次世界大戦が終わった。翌年、5年ぶりに「サロン・ドートンヌ」という毎年パリで開催されていた展覧会が行われた。そこで驚くべきことが起きた。なんとフジタの出品した6作品がすべて入選したのだ。フジタの名は一気にフランス画壇に知れわたった。
その作品のほとんどがキリスト教の宗教画だった。大戦中に、フジタはフェルナンドとブルターニュ地方にある古い教会を取材してまわっていたのだ。この頃から、フジタはキリスト教や教会に興味を抱くようになったのだろう。
そして、フジタの画家としての運命を決定づけたのが、1921年のサロン・ドートンヌだった。会場では、フジタが出品した3作品に熱い視線が注がれていた。
一つは自画像で、もう一つは静物画だった。そして、最も人々の関心を集めたのが、キキという女性モデルを描いた裸婦像だった。その美しい肌は「乳白色の肌」と呼ばれ、多くの人々から絶賛された。
これを機に、フジタのもとには絵を描いてほしいという注文が殺到した。
実は、フジタはこの「乳白色の肌」を描くのに、日本画の技術を使っていた。細い筆に黒い墨をつけて体の線を描いたのだ。これによって白い肌をさらにきれいに見せることができた。ついに、フジタは西洋画でも日本画でもない、自分だけの絵を完成させたのであった。
1925年、フジタは「レジオン・ドヌール勲章」というフランスで最も権威のある賞を授かった。フジタの絵は、それまでの西洋にはない不思議な魅力があり、フランス国内で高い評価を受けることになった。
また、この頃からパリに続々と日本人画家が留学してきた。そんな若者たちに、世話好きのフジタは料理をふるまい、いろいろと親切にしてあげた。そんなことをしているうちに、いつの間にかフジタはフランスの日本人コミュニティにおける中心人物の一人になっていた。今でもパリの「日本館」という日本人留学生の寮には、当時のフジタが描いた巨大な壁画が残されている。
1928年、フェルナンドと正式に離婚したフジタは、リューシー・バドゥーという女性と暮らし始めた。彼女の肌が雪のように白かったことから、フジタは彼女を「ユキ」と呼んだ。またか、と思うかもしれないが、やがてフジタは三度目の結婚をする。
戦後に訪れた平和の中、美術市場は盛況だった。フジタは広い家を買い、最高級の家具をそろえた。高級車を手に入れ、派手な格好で毎晩パーティーに出かけていった。どこへ行っても人気者だった。あっという間に、フジタの名はパリ中に知れることとなった。
その頃、日本人がパリの街を歩いていると、あちこちで「フジタ!」と子どもたちに呼ばれたそうだ。そして、タクシーに乗ると運転手に「フジタを知っているか?」と必ず聞かれたらしい。
フジタはフランスで成功をつかんだ。しかし、努力を忘れたわけではなかった。フジタはパーティーに行っても、決まった時間になると、うちへ帰って絵を描いた。実は、フジタは一滴もお酒が飲めなかったのだ。
[Ⅲ 帰国。そして、新たな世界へ]
1929年、パリに来てから17年が経っていた。フジタは日本へ一時帰国しようと思っていた。理由は二つある。一つは、父に会いたくなったからだ。父とは6年間も全く連絡を取っていなかった。もう一つは経済的な理由である。フジタはお金の管理にだらしないところがあり、税金をきちんと納めていなかった。それで、あるとき税務署から莫大な税金を課せられた。そこで、困ったフジタは日本で展覧会を開いて一稼ぎしようと考えたのだ。
8月、ユキを連れ、マルセイユから日本へ向けて船で出発した。ナポリ、コロンボ、シンガポールを経由して、香港に着いた。そこで泊まった日本旅館で、フジタは悪いニュースを知らされた。日本ではフジタ帰国に関する新聞記事が出ていて、「フジタはわがまますぎて、パリで良く思われていない」、「フランス人の妻を連れて来るらしいが、これもフジタの宣伝だ」などと、フジタが批判されているというのだ。フジタは、きっと海外で成功した日本人として自分は歓迎されるだろうと思っていた。それだけに、このことはショックが大きかった。
しかし、日本で開かれた新聞社主催の展覧会でも、デパートで開かれた個展でも、連日多くの入場者が訪れ、大成功を収めた。
展覧会以外にも、フジタは母校の東京美術学校で講演をしたり、本の原稿を書いたりした。夜もあちこちからパーティーに招かれ、忙しい毎日だった。
だが、それも一段落すると、父とユキを連れて旅行に出かけた。向かった先は、少年時代を過ごし、母との思い出が残る熊本、父が以前住んでいた広島、京城(ソウル)だった。フジタは、これが自分にできる最後の親孝行だと思っていた。
年末に、フジタは日本を離れた。もう二度と日本へは帰らないと決めていた。
1930年、フジタたちはアメリカ経由でパリに戻ってきた。この頃、世界では大恐慌が起こり、世界経済は大きな打撃を受けていた。パリの美術市場でも絵画の値段が暴落した。
そんな中、フジタは個展を開いた。けれど、半分以上の絵が売れ残った。再び生活が苦しくなり、フジタは家や車を手離した。そして、ユキとも別れた。さらに、親友のパスキンを自殺で失った。
落ち込んだフジタはパリから逃げるように旅に出た。向かった先は中南米だった。ブラジル、アルゼンチン、ボリヴィア、ペルー、キューバ、メキシコ。2年にわたる長い旅だった。その間、フジタは現地で取材し、様々な絵を描いた。それらの絵は、現地で展覧会を開いて販売した。
この旅の間、彼のそばには一人のフランス人女性がいた。赤毛のダンサー、マドレーヌ・ルクー。またか……思っただろう。新しい妻ができたのだ。彼女が傷ついたフジタの心の穴を埋めてくれた。
中南米の旅の途中、メキシコでは友人の画家リベラが描いた絵を見に行った。壁に描かれた巨大な壁画を前にして、フジタは「いつか自分もこんな壁画を描いてみたい」と思った。
メキシコからアメリカに渡ると、サンフランシスコとロサンゼルスで展覧会を開き、中南米の旅行中に描いた絵を発表した。それらの絵はどれも以前のフジタの絵とは違っていた。フジタは日本でもフランスでもない場所で、画家として新たな成長を遂げたのだ。そして、どこでもやっていけるという自信を手に入れた。
フジタは、マドレーヌと太平洋をわたり、再び日本に向かった。47歳だった。
1933年、日本に戻ったフジタは、様々なところで絵を描くようになった。この頃のフジタがもっとも力を注いだのが壁画だった。東京の店、大阪や京都のデパート、秋田でも巨大な壁画を描いてみせた。フジタは東北から沖縄まで日本中を飛び回った。中国の北京にも取材に行った。また、海外での生活や旅の経験を生かして、新聞や雑誌にエッセイを書いた。フジタは次第に文化人として日本でも認められるようになった。
1936年、妻マドレーヌが29歳の若さで急死した。フジタは、母国フランスから遠く離れた場所で亡くなった彼女のことを想って、「一九〇〇年」という絵にマドレーヌの姿を描いた。1900年は、パリで万国博覧会が開かれた年である。
それから、二年後、フジタは堀内君代と結婚した。またか……と思ったに違いない。君代はフジタより24歳も年下だった。料亭で働いており、そこでフジタと知り合った。フジタにとっては5回目の結婚である。まわりからは「どうせまたすぐに別れるだろう」と言われたが、君代はフジタが亡くなるまでずっとそばにいた。
[Ⅳ 戦争の時代]
1938年、フジタは戦争画を描くために、戦場へ行くことになった。戦争画を描く目的は、その戦争を記録し、国民を鼓舞するためである。これは東洋でも西洋でも昔から行われてきたことで、当時、日本では200人以上の画家が戦争画を描いていた。フジタは、一か月ほど戦場で取材し、日本へ戻ると、2点の戦争画を描いた。
翌年、フジタは君代を連れ、フランスに渡った。モンマルトルに家を見つけ、動物の絵を描いたりして過ごした。だが、それはわずか一年足らずの滞在となった。その秋に第二次世界大戦が始まったのだ。ドイツ軍が侵攻して来ると聞き、フジタ夫妻は慌ててパリから逃げ出した。結局日本に戻ってきたフジタは、また戦争画と向き合うことになる。
1941年1月、フジタを支え続けた父が亡くなった。
同年7月、フジタは帝国芸術院の会員に推薦された。当時の会員は日本画壇の大物ばかりであった。このときになって、ようやく日本画壇からもフジタは認められたのだ。
ちょうどその頃、フジタは戦場で取材したことをもとに、「哈爾哈河畔戦闘図」という巨大な絵を完成させた。日本人の兵士が敵の戦車に上り、中にいる兵士を攻撃するという場面を描いたものだ。だが、日本軍の活躍を描いたこの戦いは、実際には日本軍が負けた戦いであった。しかし、「哈爾哈河畔戦闘図」は高い評価を受け、フジタ自身の評価も高まることになった。
10月、帝国芸術院の文化使節としてフジタはハノイやサイゴンを訪れた。この頃、ベトナムはフランス領だったため、駅やレストランではフランス語が使われていた。しかし、フランス語を耳にしても、フジタはもう懐かしいとは思わなかった。すっかり日本人の藤田になっていた。
12月、日本の真珠湾攻撃により、太平洋戦争が始まった。フジタはシンガポールを皮切りにアジア中を取材して回った。冬に開かれた美術展には戦争画を3点出品した。それらの絵は、軍によって全国で展示され、多くの人々の目に触れた。
しかし、1942年6月、日本がミッドウェー海戦で敗れると、戦況は悪化した。画家たちは次第に戦地へ取材に行くことができなくなった。そんな中、フジタは想像だけで戦争画を描き続けた。倒れた兵士、泣き叫ぶ女性や子ども……。それらは、もはや記録でも、国民を鼓舞するようなものでもなかった。フジタは戦争画を通して戦争の真実を描こうとしたのだ。
1944年、日本本土はアメリカ軍の攻撃を受けるようになった。フジタ夫妻は東京を離れ、神奈川にある村に疎開した。
ある日、フジタが疎開した村の若者が戦争に行かなければならなくなった。村のみんなで日の丸(国旗)に寄せ書きをした。当時、日本では戦争に行く若者に向かって「帰ってこい」とは言えなかった。多くの人が「国のために最後まで戦え」という言葉を書いた。だが、フジタはそこに小さな蛙と二つの空豆の絵を描いた。蛙は、おそらく「カエル=帰る」という意味だ。(ここからは私の想像だが、)豆が入っている袋の部分を「さや」と呼ぶ。これは刀を収める「鞘」のこと。空豆にしたのは、豆の中でも特に大きくて立派なさやを持っているからだ。二つの空豆が意味するものは「二本の刀を鞘に収める」ということ。これはきっと「死ぬな」、「殺すな」という意味だろう。「だれも殺さず、生きて帰ってきてほしい」。フジタはそんな願いを込めて蛙と空豆を描いたのではないだろうか。ただ、その絵をもらった若者は少し違う意味に理解したようだ。だが、無事に生きて村に帰ってきた。空豆については私の考えすぎかもしれない。
[Ⅴ 戦争画の責任]
1945年8月15日、戦争が終わった。まもなくGHQ(General
Headquarters,連合国軍最高司令官司令部)の人間がフジタのいる村へやってきた。彼はフジタに「アメリカで日本占領をテーマにした展覧会を開く計画があるので、いっしょに戦争画を集めるのを手伝ってほしい」と言った。フジタは迷わず引き受けることにした。フジタは自分が描いた戦争画には美術的な価値があると信じていたし、より多くの人に見てほしいと思っていた。
戦争画の収集は1946年の夏に完了し、GHQの内部で展覧会が開かれた。ところが、このときには担当者が代わっており、「これらの戦争画に文化的な価値はない」と判断されてしまった。結局、アメリカでの展覧会は行われず、それらの絵は1951年にアメリカに運ばれ、長い間だれの目にも触れることなく保管された。しかし、現在、東京国立近代美術館でそれらの絵を目にすることができる。1970年になってから「無期限貸与」という形で東京国立近代美術館に返ってきたからだ。こうして、長い時を経て、フジタの想いは実った。
一方で、日本美術会からはフジタの戦争責任を問う声が挙がっていた。日本美術会は、積極的に戦争に協力していた画家を戦争責任者としてリストにまとめた。そのリストをGHQに提出するというのである。リストの一番上にフジタの名前が書かれていた。フジタは怒った。なぜ私に一番責任があるというのだ! 私はただ一人の兵士として、戦争に向き合い、絵を描いただけなのに……
しかし、ついに戦争画を描いた画家たちがGHQから戦争責任を問われることはなかった。ただ、このことで、今まで親しくしていた画家たちがフジタのもとを離れていき、フジタは心を痛めた。
やがて、フジタは日本を出ていく決意をする。
1946年にフランスのビザを申請するが、なかなか下りずに待たされた。そこで、フジタはアメリカのビザを申請することにした。一旦アメリカへ入国し、そこからフランスへ行こうと考えたのだ。アメリカにいた友人やGHQで働いていたフランク・シャーマンが手伝ってくれた。そのおかげもあって、1年後にアメリカ入国のビザが下りた。ただ、手違いで君代のビザが下りなかった。君代のビザは3カ月後になるという。悩んだ末に、先にフジタが一人でアメリカへ行くことにした。
そのことを知った画家たちは、「フジタは戦争責任を問われるのを恐れて、日本を捨てて海外へ逃げ出す」と噂した。マスコミも「今の妻もまた捨てて一人で外国へ行く」、「再びパリに行っても今度は成功できるかあやしいものだ」という記事を書いた。
1949年3月、羽田空港からニューヨークへ向かうとき、フジタは見送りに来てくれた人たちにこう言い残したという。
「画家は絵だけ描いてください。仲間同士でけんかをしないでください。日本画壇は早く世界的水準になってください」
[Ⅵ 再びパリへ]
ニューヨークへ着いたフジタは、ここで君代のビザが下りるまで一人で待つことになった。この期間にフジタは二ヶ月で25通も手紙を書いた。手紙はGHQのフランク・シャーマン宛てに送られた。その封筒の中に君代宛ての手紙も入れた。
フランク・シャーマンは、日本に来る前からフジタのファンだった。戦後GHQの仕事で来日すると、すぐにフジタに会いに来た。それ以来、二人は親しくなり、フジタはシャーマンのために絵を描いてあげたりした。
以下の英文は、アメリカで生活を始めたばかりのフジタが、シャーマンに送った手紙の一部である。慣れない英語で素直に自分の気持ちを伝えようとしている。
I feel
free, I can enjoy my life so much. Every
day I discover many wonderful stimulus. I want to have
many hands not only two. My moral is so good.
(私は自由だ。こちらの生活をとても楽しんでいる。毎日多くのすばらしい刺激がある。二本だけじゃなくて、もっとたくさん手がほしい。わたしはやる気にあふれている。)
※おそらく“moral”は“morale”の誤り
ニューヨークでフジタはよく美術館を訪れた。メトロポリタン美術館ではレオナルド・ダ・ヴィンチなど西洋の偉大な画家の作品を、ニューヨーク近代美術館ではパリに住んでいた頃の仲間の作品を眺めて過ごした。
この時期にフジタが描いた絵の中に「カフェ」という作品がある。パリの街角のカフェで一人の女性がたたずんでいる。その女性の肌は、かつてフランス画壇で絶賛された「乳白色の肌」だった。アメリカでの生活を楽しんでいたものの、やはりフジタの心はフランスを向いていたのだ。
1949年5月、君代が予定通りニューヨークに着いた。その後、11月に個展を開いて成功を収めると、翌年1月にはフランスへ出発した。最後にシャーマンへ男女のかわいらしい版画を送った。そこには「グッバイ・ニューヨーク。パリへ行きます」と書かれてあった。
10年ぶりのパリでフジタを待っていたのは現地のマスコミだった。到着すると、すぐにマスコミが押しかけてきて、戦争中のことをしつこく聞いてきた。フジタは、ここまで来てもマスコミかと、うんざりした。
フジタ夫妻は、かつてフジタが住んでいたモンパルナスのアパートに部屋を借りた。だが、ともに過ごした仲の良い画家たちは、もうほとんどパリにいなかった。すでに亡くなっていたり、どこか別のところへ行ってしまっていた。フジタはパリの懐かしい街並みを絵に描いた。やっと落ち着いて暮らせる場所に戻ってきた。
1950年3月、パリで久しぶりの個展を開いた。不安だったが、好評で絵もよく売れた。さらに、うれしいことがあった。あのピカソが見に来てくれたのだ。ピカソは戦前もフジタの個展によく足を運んでくれていた。
この頃、個展や宗教画の取材のために、よく旅行に出かけた。ヨーロッパだけでなく、アフリカにわたって、アルジェリアでも個展を開いた。
また、ときどき友人たちがアトリエを訪れてきた。その中には、かつての妻フェルナンドやユキもいた。彼女たちに優しく接するフジタを見て、君代はやきもちを焼いたとか。
1955年、フジタ夫妻はフランス国籍を取得し、フランス人になった。このときフジタは68歳だった。このことは日本でもニュースになった。なぜフジタは日本国籍を捨てフランス人になったのか、現在でもこれは大きな謎である。ただ、フジタは晩年、妻の君代に「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」と何度も言ったという。
フジタの代表作に「私の部屋、目覚まし時計のある静物」という絵がある。1921年のサロン・ドートンヌで高い評価を受け、フジタも非常に気に入っていた作品だ。ずっとフジタの手元に置いてあったが、手離そうと思ったことがある。戦後、日本を離れる前に、東京のある美術館にこの作品を寄贈したいという手紙を書いた。日本に自分の代表作を残しておこうと思ったからだ。しかし、美術館に断られてしまう。おそらく作品そのものではなく、戦争画に関わったフジタの評判が良くなかったからであろう。フジタはフランスにわたった後、この絵を他の作品とともにフランス国立近代美術館に寄贈した。なんと、もったいないことをしたものだ。
[Ⅶ 最後の大仕事]
1959年、フジタ夫妻はシャンパーニュ地方にあるランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受けた。フジタは自分が亡くなったら、フランスに骨を埋めるつもりでいたので、カトリックに改宗することは自然なことだったのかもしれない。
洗礼にあたって、「レオナール(Léonard)」という名を授かった。「レオナール」は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」から借りたものだ。フジタは、レオナルド・ダ・ヴィンチを心から尊敬していたのである。
これ以降、フジタは宗教画を多く描くようになる。
1961年、パリの南部にあるヴィリエ・ル・バクルに引っ越した。フジタ夫妻はにぎやかな街を離れ、静かな村で暮らし始めた。
近所の子どもたちがアトリエへよく遊びに来た。フジタはいつもたくさん飴を用意して、子どもたちが学校から帰ってくるのを楽しみに待っていた。フジタには子どもがいなかったが、子どもの絵はよく描いた。ただ、決まったモデルがいたわけではない。フジタは想像で自分が愛する理想の子どもを描いた。子どもは、大人の世界に疲れたフジタの心に安らぎを与えてくれる大切な存在だったのかもしれない。
1965年、79歳のフジタはいよいよ人生最後の仕事に挑もうとしていた。ランスに自分で設計した礼拝堂を建てたい。それだけでなく、礼拝堂の中にフレスコ画を描こうというのだ。
フレスコ画とは中世にはよく使われた技法である。壁に漆喰を塗り、乾かないうちに、すばやく上から水性の絵の具で絵を描くのだ。フレスコ画を描くのは非常に難しく、体力が要る。
高齢のフジタに、はたしてそれができるのか。しかも、フジタはそれまでフレスコ画を描いたことがなかった。フジタはアトリエの壁を使ってフレスコ画の練習をした。
1966年の暑い夏、フジタは君代夫人に支えられながら、90日かけて、この大仕事をやりとげた。
子羊をひざにのせた神と天使たち。少女たちに礼拝される聖母子。そして、十字架にかけられたキリスト。フジタは、キリスト教の世界を全力で描き切った。
この仕事をやり終えると、フジタは体調を崩し、入院した。
1968年1月、スイス、チューリッヒの病院で亡くなる。
ランスの大聖堂で葬儀が行われた後、遺体は本人の希望通り、この礼拝堂に埋葬された。墓石には“Leonard Foujita”という名が刻まれた。しばらくして、日本政府から勲一等瑞宝章が贈られた。
Gérald Garitan(2010) Chapelle créée et décorée par Léonard Foujita à Reims en 1966.- CC BY-SA2.5 |
日当たりの良い、緑に囲まれたこの小さな礼拝堂の名前は、「ノートル・ダム・ド・ラ・ペ(平和の聖母)」という。フレスコ画だけでなく、彫刻やステンドグラス、細かい装飾にいたるまで、すべてフジタがデザインしたものだ。フジタの美へのこだわりがつまっている。君代夫人も亡くなると、この礼拝堂に埋葬された。
この礼拝堂にはもう一つの名前がある。「シャペル・フジタ(フジタ礼拝堂)」。ここがフジタの長い旅のゴールだった。
(完)
<参考>
YouTube東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」
《参考資料》
近藤史人(2006)『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社
近藤史人(編)(2005)『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』講談社
佐藤幸宏(監)(2019)『別冊太陽 藤田嗣治 腕一本で世界に挑む』平凡社
清水敏男(2018)『藤田嗣治作品集』東京美術
林洋子(監)(2018)『旅する画家 藤田嗣治』新潮社
林洋子(2013)『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい藤田嗣治 生涯と作品』東京美術
林洋子(2018)『藤田嗣治 手紙の森へ』集英社
布施英利(2018)『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』NHK出版
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