Sunday, August 9, 2020

藤田 嗣治 ー 世界の画家 フジタの一生 ー★★★★★

(ふじ)()(つぐ)(はる)は、20(せい)()活躍(かつやく)した日本人の画家(がか)である。それまでの日本人の画家(がか)は、(りゅう)(がく)(せい)として(たん)()(かん)(げん)()()ごし、そこで(まな)んだ(ぶん)()をただ日本に持ち帰るだけだった。しかし、彼は長い(ねん)(げつ)フランス()ごし、(げん)()その(じつ)(りょく)(みと)められた。これはアジアの画家(がか)として(はじ)めてのことだった。

 しかし、(ふじ)()は、長い間、日本では(ひょう)()されなかった。それは、彼が(せん)(そう)(ふか)(かか)わっていた人物(じんぶつ)だとされてきたからだ。

(せん)()(ふたた)(かれ)はフランスに(わた)る。その()、日本(こく)(せき)()て、フランス人になった。さらに、晩年(ばんねん)にはキリスト(きょう)洗礼(せんれい)()け、「レオナール・フジタ」と名前()えた。

(ふじ)()は、なぜフランス人になったのか。(かれ)の81年にわたる人生(じんせい)(たび)()(かえ)ろう。


[Ⅰ (ふじ)()(しょう)(ねん)

1886年((めい)()()(だい))、フジタは(とう)(きょう)(おお)(まがり)()まれた。四人兄弟の(すえ)っ子だった。父の(つぐ)(あきら)陸軍(りくぐん)医者(いしゃ)だった。そのおかげで、(ふじ)()()(けい)(ざい)(てき)()()(ゆう)(せい)(かつ)(おく)ることができた。

 4(さい)のとき、父の()(ごと)()(ごう)(くま)(もと)()()した。そこで母を病気で()くした。まだ(おさな)いフジタにとっては()(じょう)にショックな()()(ごと)だった。

(しょう)(ねん)()(だい)()(ぜん)(ゆた)かな(くま)(もと)()した。しかし、子どもの(ころ)のフジタは、どちらかと言えば、おとなしい性格(せいかく)だった。外で(あそ)より、姉たちと(にん)(ぎょう)(あそ)びをするほうが好きだった。

本を読むのも好きだった。(とく)()()()(だい)(はん)()が好きで、(かつ)(しか)(ほく)(さい)()(ほん)()(ちゅう)になって読んだりしたまた、父や(しん)(せき)から土産(みやげ)に外国のクッキーをもらうことがよくあった。そんなときはクッキーの(はこ)()かれ(うつく)しい()をじっと(なが)めて()ごした。

 小学校では、(さん)(すう)(にが)()だったが、()()はいつもクラスで一番だった。()()のは、やはり(とく)()だった。

 12(さい)のとき、(とう)(きょう)四谷(よつや)(もど)ってきた。小学校を(そつ)(ぎょう)すると、フジタは()(ちゃ)()(みず)にある中学校に入学した。

中学校では柔道(じゅうどう)(なら)(はじ)めた。毎朝四時に起きて、眠い目をこすりながら、柔道場(じゅうどうじょう)(かよ)った。クラスメイトは()(きゅう)やテニスを楽しんでいたが、目の(わる)いフジタは自分には()()だと思い、地味(じみ)柔道(じゅうどう)(えら)んだのだ。

 14(さい)のとき、フジタにとって(じゅう)(だい)()()(ごと)()きた。フジタの()いた()、なんとパリで(ひら)かれた万国(ばんこく)博覧会(はくらんかい)出展(しゅってん)されたのだ。フジタは()()がって(よろこ)んだ。日本の中学生の代表(だいひょう)作品(さくひん)(えら)ばれ、このことで()(しん)がついたフジタは、あることを(けつ)()した。

フジタは(おさな)(ころ)から、ずっと画家(がか)になりたいと思っていた。だが、それを尊敬(そんけい)する父の前で口にしたことはなかった。父には、どこか(ちか)づきがたいものがあった。それに、父はフジタも自分と同じ医者(いしゃ)になってほしいと思っていたようで、言い出すのが(こわ)かった。だが、これを()(かい)に、父に画家(がか)になる(ゆめ)(みと)めてもらいたいと思ったわけだ。

ただ、直接(ちょくせつ)口で(つた)えるのは(かる)(かん)じがした。そこで、フジタは自分(ほん)()だということを(つた)えるために、長い手紙を書いた。その手紙を近所(きんじょ)のポストに入れると、夜にはもう()(たく)(とど)ていた。

手紙を読んだ父は、フジタを()んだ。フジタは(しか)られるに違いないと思い、びくびくしながら部屋に入った。すると、父は黙ったまま(さい)()からすっと50円を取り出して、フジタにわたした((とう)()50円は大金(たいきん)だった)。それから、フジタの目をじっと見つめて、ゆっくり(くび)(たて)()った。それは「自分の(えら)んだ道を生きなさい」という意味だった。

(よく)(じつ)、フジタは()(ざい)(てん)に出かけ、ずっとほしかった(あぶら)()(どう)()を手に入れた。

 (つぎ)に、フジタは、フランス語を習い始めた。(べつ)中学校()(かん)()(かよ)い、フランス語(じゅ)(ぎょう)()けた

そのことはクラスメイトに()(みつ)にしていたが、ある日みんなにばれてしまった。英語の(じゅ)(ぎょう)、イギリス人の先生がフランス語でフジタに質問してきた

「きみの英語の発音(はつおん)はフランス語みたいだ。きみはフランス語ができるのか?」

それに、フジタもついフランス語で返してしまった。

「はい。いつかフランスに行くために勉強しているんです」

それ()(らい)フジタはまわりのクラスメイトから尊敬(そんけい)の目で見られるようになった。

(ふじ)()少年は(ゆめ)()かってまっすぐに(すす)んでいった。

 

[Ⅱ 芸術(げいじゅつ)(みやこ)パリへ

 1905年、19(さい)になったフジタは父の(すす)めで(とう)(きょう)()(じゅつ)(がっ)(こう)西(せい)(よう)()()入学した。この学校で日本(にほん)()西(せい)(よう)()、それから(ちょう)(こく)()()(まな)んだ。

この学校には()(ほう)から来た学生大勢(おおぜい)いた。フジタはいわゆる()(かい)っ子だったが、(かれ)らとはすぐに(なか)()くなった。(とう)(きょう)(じゅう)(あそ)んでまわり、(なか)()とともに(たの)しい(せい)(しゅん)()(だい)(おく)った。

一方(いっぽう)学校の成績(せいせき)、あまり()くなかった。(てん)(らん)(かい)(にゅう)(せん)したのも(いち)()だけだった。

西(せい)(よう)()の先生からは「きみの()風景(ふうけい)がよくない」と言われ、日本画(にほんが)の先生からは「きみの()日本(にほん)()西(せい)(よう)()のようだ」と言われた。

さらに、卒業(そつぎょう)制作(せいさく)は、フジタの()いた()()(ぞう)が、みんなの前で先生から「(わる)(れい)だ」と()(ひょう)された。その先生は黒い色を使うのが(きら)いだったのに、フジタはその()()(ぞう)黒をたくさん使って()いたのだ。

だが、フジタは黒こそ日本の色だと(しん)じていた。それに、日本(にほん)()西(せい)(よう)()()(べつ)して(あつか)のはおかしいと心の中で思っていた。このことが、後にフジタが海外(かいがい)成功(せいこう)できた()(ゆう)かもしれない。

 この(ころ)、フジタは旅行(りょこう)房総(ぼうそう)(おとず)れた。そして、そこで出会った鴇田(ときた)登美子(とみこ)(こい)()た。彼女は女子(じょし)美術(びじゅつ)学校(がっこう)卒業(そつぎょう)した後、女学校(じょがっこう)教師(きょうし)をしていた。それから二年後、二人は結婚(けっこん)し、東京の小さな家で()らし始めた。

()(せい)(かつ)()たされていた。しかし、画家(がか)としての将来(しょうらい)はまだ何も見えていなかった。卒業後(そつぎょうご)展覧会(てんらんかい)出品(しゅっぴん)ていたが、すべ落選(らくせん)だった。

そんなフジタを、父は心配(しんぱい)していた。しかし、応援(おうえん)してあげたい気持ちは()わらなかった。そこで、フジタにフランス留学(りゅうがく)(すす)、フジタが30(さい)になるまで(えん)(じょ)(つづ)ける(やく)(そく)てくれた。

 1913年、27(さい)のフジタは、ついにあこがれのフランスへ行くことになった。横浜港(よこはまこう)から(ふね)でフランスのマルセイユに()けて(しゅっ)(ぱつ)した。()()()は日本に(のこ)していった。(さび)しい思いをさせてしまうが、いずれフランスへ()()せるつもりでいた。

 マルセイユに(ふね)(とう)(ちゃく)したのは、(しゅっ)(ぱつ)してから45日後のことだった。そこから(れっ)(しゃ)()()いで、ようやくパリにたどりついたフジタは大きく(いき)()()んだ。()(なつ)パリは、芸術(げいじゅつ)(かお)りがした。

 この(ころ)(げい)(じゅつ)(ちゅう)(しん)()と言えば、パリのモンパルナスという地区(ちく)だった。そこに()(かい)(じゅう)から(わか)()()(あつ)まってきた。モディリアーニ(イタリア)、パスキン(ブルガリア)、リベラ(メキシコ)、シャガール(ロシア)、キスリング(ポーランド)……(のち)(かれ)らは「エコール・ド・パリ」と()ばれようになる。

 パリに()いたフジタは、はじめはホテルに()まっていたが、すぐに、そのモンパルナスにアトリエ()きのアパートを見つけて()()した。

 まもなく川島(かわしま)という日本人の()()()()った。川島(かわしま)はフジタよりも先にフランスに住んでいた。川島(かわしま)()れられ、フジタはパリ()(ない)()(じゅつ)(かん)(げき)(じょう)(めぐ)った。日本では見たことがない(さい)(しん)のアートに()れ、多くの()(げき)()けた。

さらに、幸運(こううん)なことに、()()いのスペイン人の画家(がか)()ばれ、ピカソのアトリエを(おとず)れることになったフジタは、そこでピカソやアンリ・ルソーの()を目にして、口から心臓(しんぞう)()()そうになった。自分が日本で(まな)んだ(いん)(しょう)()()はもう古い。パリではもう(つぎ)()(だい)に入っている(かん)じた。

 1914年の夏、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアとの間に戦争(せんそう)()(だい)(いち)()()(かい)(たい)(せん)である。

パリの(まち)からも多くの青年(せいねん)戦場(せんじょう)()かった。フランスにいた日本人は(ぞく)(ぞく)()(こく)していったが、フジタは帰ろうとしなかった。まだフランスに来て一年しか()っていない。このまま何もできずに日本に帰るのは嫌だ。

 やがて日本からの通信(つうしん)送金(そうきん)(むずか)しくなり、生活(せいかつ)(くる)しくなった。パンを買うお金もなくなり、家にあったベッドや(しょっ)()まで()(はら)った

ある日、フジタは何もない部屋(へや)(ゆか)(すわ)ってリンゴをかじり、その(のこ)りの半分を(かがみ)の前に()いて(せい)(ぶつ)()()いた。フジタは(まず)しさと()(どく)(たたか)いながら、新しい()()(さく)していた。おれは画家(がか)として成功(せいこう)するために、ここにいるのだ。

 この(ころ)フジタのオカッパ(あたま)が生まれた(とこ)()に行くお金がなかったので、自分で(かみ)を切ったのだ。前髪(まえがみ)をまっすぐ()そろえたヘアスタイルは、(まる)メガネとともにフジタのトレードマークなった。まわりからは「自分を宣伝(せんでん)するために、わざと目立つ髪型(かみがた)しているんだろう」と言われた。だが、フジタがずっとこの(かみ)(がた)だったのはこの(ころ)の気持ちを(わす)れないようにしていたからかもしれない。

 だが、さらに(せん)(そう)(はげ)しくなると、ついにパリにいられなくなった。()(かた)なく、フジタはパリを(はな)れ、ロンドンへ()(かい)し、そこで一年()ごした。

 1916年、フジタは30(さい)になった。父との(やく)(そく)では日本へ帰ることになっていた。しかし、フジタの(けっ)(しん)(かた)かった。父に「自分は死んだと思ってあきらめてください。もう日本には帰りません。(そう)(きん)(ひつ)(よう)ありません」という手紙を書いた。(つま)登美子(とみこ)には()(こん)のための(しょ)(るい)を送った。フジタは何かを(つか)みかけていた。

(よく)(とし)、パリに(もど)ると、フジタは(はじ)めての()(てん)(ひら)いた。()いたのは、(ふう)(けい)()だった。

―—ほかの画家たちは、みんな、にぎやかなパリの(ちゅう)(しん)()()きたがる。だから、私は(ぎゃく)(こう)(がい)(まち)()みや人々(ひとびと)()こう――これが(ひょう)(ばん)()び、絵は次々(つぎつぎ)と売れていった。

また、()(てん)成功(せいこう)したのは、フェルナンド・バレーという女性(じょせい)のおかげでもあった。彼女画家(がか)(まず)しいフジタの生活(せいかつ)(ささ)えてくれた。やがて二人は(けっ)(こん)した

だが、(けっ)(こん)(せい)(かつ)はうまくいかなかった。7年後にはフェルナンドが(べつ)男性(だんせい)(こい)()ち、二人は(わか)れることになる。

 1918年、(だい)(いち)()()(かい)(たい)(せん)が終わった。翌年(よくとし)5年ぶりに「サロン・ドートンヌ」という毎年パリで(かい)(さい)されていた(てん)(らん)(かい)が行われた。そこで(おどろ)くべきことが起きた。なんとフジタの(しゅっ)(ぴん)した6作品(さくひん)がすべて(にゅう)(せん)したのだ。フジタの()(いっ)()フランス()(だん)に知れわたった。

その作品のほとんどがキリスト(きょう)(しゅう)(きょう)()だった。(たい)(せん)(ちゅう)、フジタはフェルナンドとブルターニュ()(ほう)にある古い(きょう)(かい)(しゅ)(ざい)してまわっていたのだ。この(ころ)から、フジタはキリスト教や教会に興味(きょうみ)(いだ)くようになったのだろう。

 

  

 そして、フジタの画家としての運命(うんめい)決定(けってい)づけたのが、1921年のサロン・ドートンヌだった。(かい)(じょう)は、フジタが出品(しゅっぴん)した3(さく)(ひん)(あつ)()(せん)(そそ)がれていた。

一つは()()(ぞう)で、もう一つは(せい)(ぶつ)()だった。そして、(もっと)人々(ひとびと)(かん)(しん)(あつ)めたのが、キキという女性(じょせい)モデルを()いた()()(ぞう)だった。その(うつく)しい(はだ)は「(にゅう)(はく)(しょく)(はだ)」と()ばれ、多くの人々から絶賛(ぜっさん)された。

これを()に、フジタのもとには絵を()いてほしいという注文(ちゅうもん)(さっ)(とう)した。

(じつ)は、フジタはこの「(にゅう)(はく)(しょく)(はだ)」を()くのに、日本(にほん)()()(じゅつ)を使っていた。(ほそ)(ふで)に黒い(すみ)をつけて体の(せん)()いたのだ。これによって白い(はだ)をさらにきれいに見せることができた。ついに、フジタは西(せい)(よう)()でも日本(にほん)()でもない、自分だけの絵を完成(かんせい)させたのであった。

1925年、フジタは「レジオン・ドヌール(くん)(しょう)」というフランスで(もっと)(けん)()のある(しょう)(さず)かった。フジタの絵は、それまでの西(せい)(よう)にはない()()()()(りょく)があり、フランス国内(こくない)高い(ひょう)()()ることになった。

 また、この(ころ)からパリに続々(ぞくぞく)日本人(にほんじん)画家(がか)留学(りゅうがく)してきた。そんな若者(わかもの)たちに、世話好(せわず)きのフジタは(りょう)()をふるまい、いろいろと親切にしてあげた。そんなことをしているうちに、いつの()にかフジタはフランスの日本人コミュニティにおける(ちゅう)(しん)(じん)(ぶつ)の一人になっていた。今でもパリの「日本館(にほんかん)」という日本人(りゅう)(がく)(せい)(りょう)には、(とう)()フジタが()いた(きょ)(だい)(へき)()(のこ)されている。 

 1928年、フェルナンドと(せい)(しき)()(こん)したフジタは、リューシー・バドゥーという(じょ)(せい)()らし始めた。彼女の(はだ)が雪のように白かったことから、フジタは彼女を「ユキ」と()んだ。またか、と思うかもしれないが、やがてフジタは(さん)()()(けっ)(こん)をする。

(せん)()(おとず)れた(へい)()の中、()(じゅつ)()(じょう)盛況(せいきょう)だった。フジタは広い家を買い、(さい)(こう)(きゅう)()()をそろえた。(こう)(きゅう)(しゃ)を手に入れ、()()(かっ)(こう)で毎晩パーティーに出かけていった。どこへ行っても(にん)()(もの)だった。あっという()、フジタの()はパリ(じゅう)に知れることとなった。

その(ころ)、日本人がパリの(まち)を歩いていると、あちこちで「フジタ!」と子どもたちに()ばれたそうだ。そして、タクシーに()ると(うん)(てん)(しゅ)に「フジタを知っているか?」と(かなら)聞かれたらしい。

フジタはフランスで(せい)(こう)をつかんだしかし、()(りょく)(わす)たわけではなかったフジタはパーティーに行っても()まった時間になると、うちへ帰って絵を()(じつ)は、フジタは(いっ)(てき)もお酒が飲めなかったのだ。

 

[Ⅲ ()(こく)。そして(あら)たな()(かい)へ]

 1929年、パリに来てから17年が()っていた。フジタは日本へ(いち)()()(こく)しようと思っていた。()(ゆう)は二つある。一つは、父に会いたくなったからだ。父とは6年間も(まった)(れん)(らく)を取っていなかった。もう一つは経済的(けいざいてき)()(ゆう)である。フジタはお金の(かん)()にだらしないところがあり、(ぜい)(きん)をきちんと(おさ)めていなかった。それで、あるとき(ぜい)()(しょ)から(ばく)(だい)(ぜい)(きん)()せられた。そこで、(こま)ったフジタは日本で(てん)(らん)(かい)(ひら)いて(ひと)(かせ)ぎしよう(かんが)えたのだ。

 8月、ユキを()れ、マルセイユから日本へ()けて(ふね)(しゅっ)(ぱつ)した。ナポリ、コロンボ、シンガポールを(けい)()して、香港(ほんこん)()いた。そこで()まった()(ほん)(りょ)(かん)で、フジタは(わる)いニュースを()らされた。日本ではフジタ()(こく)(かん)する(しん)(ぶん)()()が出ていて、「フジタはわがまますぎて、パリで()く思われていない」、「フランス人の(つま)()れて来るらしいが、これもフジタの宣伝(せんでん)だ」などと、フジタが()(はん)されているというのだ。フジタは、きっと海外(かいがい)成功(せいこう)した日本人として自分は歓迎(かんげい)されるだろうと思っていた。それだけに、このことはショックが大きかった。

 しかし、日本で(ひら)かれた(しん)(ぶん)(しゃ)(しゅ)(さい)(てん)(らん)(かい)でも、デパートで(ひら)かれた()(てん)でも、連日(れんじつ)多くの(にゅう)(じょう)(しゃ)(おとず)れ、大成功(だいせいこう)(おさ)めた。

(てん)(らん)(かい)()(がい)にも、フジタは()(こう)(とう)(きょう)()(じゅつ)(がっ)(こう)講演(こうえん)をしたり、本の原稿(げんこう)を書いたりした。夜もあちこちからパーティーに(まね)かれ、忙しい毎日だった。

だが、それも一段落(いちだんらく)すると、父とユキを()れて(りょ)(こう)に出かけた。()かった(さき)は、(しょう)(ねん)()(だい)()ごし、母との思い出が(のこ)熊本(くまもと)、父が()(ぜん)()んでいた(ひろ)(しま)(けい)(じょう)(ソウル)だった。フジタは、これが自分にできる(さい)()(おや)(こう)(こう)だと思っていた。

年末(ねんまつ)に、フジタは日本を(はな)れた。もう二度(にど)と日本へは帰らないと()めていた。

 1930年、フジタたちはアメリカ(けい)()パリに(もど)ってきた。この(ころ)()(かい)では(だい)(きょう)(こう)()こり、()(かい)(けい)(ざい)は大きな()(げき)()けていた。パリの()(じゅつ)()(じょう)でも(かい)()()(だん)(ぼう)(らく)した。

 そんな中、フジタは()(てん)(ひら)いた。けれど、半分()(じょう)が売れ(のこ)った。(ふたた)(せい)(かつ)(くる)しくなり、フジタは家や車を()(ばな)した。そして、ユキとも(わか)れた。さらに親友(しんゆう)のパスキンを()(さつ)(うしな)った。

 ()()んだフジタはパリから()げるように(たび)に出た。()かった(さき)(ちゅう)(なん)(べい)だった。ブラジル、アルゼンチン、ボリヴィア、ペルー、キューバ、メキシコ。2年にわたる長い(たび)だった。その間、フジタは(げん)()(しゅ)(ざい)様々(さまざま)な絵を()いた。それらの絵は、(げん)()(てん)(らん)(かい)(ひら)いて(はん)(ばい)した

この(たび)の間、彼のそばには一人のフランス人女性(じょせい)がいた。(あか)()のダンサーマドレーヌ・ルクーまたか……思っただろう。新しい(つま)ができたのだ。彼女が(きず)ついたフジタの心の(あな)()めてくれた。

(ちゅう)(なん)(べい)(たび)()(ちゅう)、メキシコでは友人(ゆうじん)画家(がか)リベラ()いた絵を見に行った。(かべ)に描かれた(きょ)(だい)(へき)()を前にして、フジタは「いつか自分もこんな(へき)()()いてみたい」と思った。

 メキシコからアメリカに(わた)ると、サンフランシスコとロサンゼルスで(てん)(らん)(かい)(ひら)き、(ちゅう)(なん)(べい)(りょ)(こう)(ちゅう)()いた絵を(はっ)(ぴょう)した。それらの絵はどれも()(ぜん)のフジタの絵とは(ちが)っていた。フジタは日本でもフランスでもない()(しょ)で、()()として(あら)たな(せい)(ちょう)()げたのだ。そして、どこでもやっていけるという()(しん)を手に入れた。

フジタは、マドレーヌと太平洋(たいへいよう)をわたり、(ふたた)び日本に()かった。47(さい)だった。

 1933年、日本に(もど)ったフジタは、様々(さまざま)なところで絵を()くようになった。この(ころ)のフジタがもっとも力を(そそ)いだのが(へき)()だった。東京の店、大阪や京都のデパート、(あき)()でも(きょ)(だい)(へき)()()いてみせた。フジタは東北(とうほく)から沖縄(おきなわ)まで日本中を()(まわ)った。中国の北京(ペキン)にも取材(しゅざい)に行った。また、海外(かいがい)での(せい)(かつ)(たび)(けい)(けん)()かして、(しん)(ぶん)(ざっ)()にエッセイを書いた。フジタは()(だい)(ぶん)()(じん)として日本でも(みと)められるようになった

 1936年、(つま)マドレーヌが29(さい)(わか)さで(きゅう)()した。フジタは()(こく)フランスから(とお)(はな)れた()(しょ)()くなった彼女のことを(おも)って、「一九〇〇年」という絵にマドレーヌの姿(すがた)()いた。1900年は、パリで(ばん)(こく)(はく)(らん)(かい)(ひら)かれた年である

 それから、二年後、フジタは(ほり)(うち)(きみ)()結婚(けっこん)した。またか……と思ったに違いない。(きみ)()はフジタより24(さい)も年下だった。(りょう)(てい)(はたら)いており、そこでフジタと()()った。フジタにとっては5回目の結婚(けっこん)であ。まわりからは「どうせまたすぐに(わか)れるだろう」と言われたが、(きみ)()はフジタが()くなるまでずっとそばにいた。

 

[Ⅳ (せん)(そう)()(だい)

 1938年、フジタは(せん)(そう)()()くために、(せん)(じょう)へ行くことになった(せん)(そう)()()(もく)(てき)は、その(せん)(そう)()(ろく)し、(こく)(みん)鼓舞(こぶ)するためである。これは(とう)(よう)でも西(せい)(よう)でも(むかし)から(おこな)われてきたことで(とう)()、日本では200()(じょう)()()(せん)(そう)()()ていた。フジタは一か月ほど(せん)(じょう)(しゅ)(ざい)し、日本へ(もど)ると、2点の(せん)(そう)()()いた。

 翌年(よくとし)、フジタは(きみ)()()れ、フランスに(わた)った。モンマルトルに家を見つけ、動物の絵を()いたりして()ごしただがそれはわずか一年()らずの滞在(たいざい)となった。その秋に(だい)()()()(かい)(たい)(せん)が始まったのだ。ドイツ(ぐん)侵攻(しんこう)して来ると聞き、フジタ()(さい)(あわ)ててパリから()げ出した。(けっ)(きょく)日本に(もど)ってきたフジタはまた(せん)(そう)()()()うこと

 19411月、フジタを(ささ)(つづ)けた父が()くなった。

同年7月、フジタは(てい)(こく)(げい)(じゅつ)(いん)(かい)(いん)(すい)(せん)された。(とう)()(かい)(いん)は日本()(だん)(おお)(もの)ばかりであった。このときになってようやく日本()(だん)からもフジタは(みと)められたの

ちょうどその(ころ)、フジタは(せん)(じょう)(しゅ)(ざい)したことをもとに、「()()()()(はん)(せん)(とう)()」という(きょ)(だい)な絵を完成(かんせい)させた。日本人の(へい)()(てき)(せん)(しゃ)(のぼ)り、中にいる(へい)()(こう)(げき)するという()(めん)()いたものだ。だが、日本(ぐん)(かつ)(やく)()いたこの(たたか)いは、(じっ)(さい)には()(ほん)(ぐん)()けた(たたか)いであった。しかし、「()()()()(はん)(せん)(とう)()」は高い(ひょう)()()け、フジタ()(しん)(ひょう)()も高まることになった。

 10月、(てい)(こく)(げい)(じゅつ)(いん)(ぶん)()使()(せつ)としてフジタはハノイやサイゴンを(おとず)れた。この(ころ)、ベトナムはフラン(りょう)だったため、(えき)やレストランではフランス語が使われていた。しかし、フランス語を耳にしても、フジタはもう(なつ)かしいとは思わなかった。すっかり日本人の(ふじ)()になっていた。

 

 

 12月、日本の(しん)(じゅ)(わん)(こう)(げき)により、(たい)(へい)(よう)(せん)(そう)(はじ)まった。フジタはシンガポールを(かわ)()りにアジア(じゅう)(しゅ)(ざい)して(まわ)った。冬に(ひら)かれた()(じゅつ)(てん)には(せん)(そう)()を3(しゅっ)(ぴん)した。それらの絵は、(ぐん)によって(ぜん)(こく)(てん)()され、多くの人々の目に()れた。

 しかし、19426月、日本がミッドウェー(かい)(せん)(やぶ)ると(せん)(きょう)(あっ)()した()()たちは()(だい)(せん)()(しゅ)(ざい)に行くことができなくなった。そんな中、フジタは想像(そうぞう)だけで(せん)(そう)()()(つづ)けた(たお)れた(へい)()()(さけ)(じょ)(せい)や子ども……。それらは、もはや()(ろく)でも、国民(こくみん)鼓舞(こぶ)するようなものでもなかった。フジタは(せん)(そう)()(とお)して戦争(せんそう)真実(しんじつ)(えが)こうとしたのだ。

 1944年、日本(ほん)()はアメリカ(ぐん)攻撃(こうげき)()るようになった。フジタ()(さい)は東京を(はな)れ、()()(がわ)にある(むら)()(かい)した。

 ある日、フジタが()(かい)した(むら)(わか)(もの)(せん)(そう)行かなければならなくなった。(むら)のみんなで()(まる)(こっ)())に()()きをした。(とう)()、日本では戦争(せんそう)に行く若者(わかもの)()かって「帰ってこい」とは言えなかった。多くの人が「国のために(さい)()まで(たたか)え」という言葉を書いた。だが、フジタはそこに小さな(かえる)と二つ空豆(そらまめ)()()いた。(かえる)、おそらく「カエル=帰る」という意味だ。(ここからは私の想像(そうぞう)だが、)(まめ)が入っている(ふくろ)()(ぶん)を「さや」と()ぶ。これは(かたな)(おさ)める「(さや)」のこと。空豆(そらまめ)にしたのは、(まめ)の中でも(とく)に大きくて(りっ)()なさやを持っているからだ。二つの空豆(そらまめ)が意味するものは「二(かたな)(さや)(おさ)める」ということ。これはきっと()ぬな」、「(ころ)すな」という意味だろう。「だれも(ころ)さず、生きて帰ってきてほしい」。フジタはそんな(ねが)いを()めて(かえる)空豆(そらまめ)()いたのではないだろうか。ただ、その絵をもらった若者(わかもの)は少し(ちが)う意味に()(かい)したようだ。だが、無事(ぶじ)に生きて(むら)帰ってきた。空豆(そらまめ)については私の(かんが)えすぎかもしれない。

 

[Ⅴ (せん)(そう)()(せき)(にん)

 1945815日、戦争(せんそう)が終わった。まもなくGHQGeneral Headquarters(れん)(ごう)(こく)(ぐん)(さい)(こう)()(れい)(かん)()(れい)())の人間(にんげん)がフジタのいる(むら)へやってきた。彼はフジタに「アメリカで日本(せん)(りょう)をテーマにした(てん)(らん)(かい)(ひら)(けい)(かく)があるので、いっしょに(せん)(そう)()(あつ)めるのを()(つだ)ってほしい」と言った。フジタは(まよ)わず()()けることにした。フジタは自分が()いた(せん)(そう)()には()(じゅつ)(てき)()()があると(しん)じていたし、より多くの人に見てほしいと思っていた。

(せん)(そう)()(しゅう)(しゅう)は1946年の夏に完了(かんりょう)し、GHQ(ない)()(てん)(らん)(かい)(ひら)かれた。ところが、このときには(たん)(とう)(しゃ)()わっており、「これらの(せん)(そう)()(ぶん)()(てき)()()はない」と(はん)(だん)されてしまった。(けっ)(きょく)アメリカでの展覧会(てんらんかい)は行われず、れらの()は1951年にアメリカに(はこ)ばれ、長い間だれの目にも()れることなく()(かん)されたしかし、現在(げんざい)(とう)(きょう)(こく)(りつ)(きん)(だい)()(じゅつ)(かん)でそれらの絵を目にすることができる。1970年になってから「()()(げん)(たい)()」という形で(とう)(きょう)(こく)(りつ)(きん)(だい)()(じゅつ)(かん)(かえ)ってきたからだ。こうして、長い時を()て、フジタの(おも)いは(みの)った。

(いっ)(ぽう)で、日本(にほん)美術会(びじゅつかい)からフジタの(せん)(そう)(せき)(にん)()(こえ)()がっていた。日本(にほん)美術会(びじゅつかい)は、(せっ)(きょく)(てき)(せん)(そう)(きょう)(りょく)していた()()(せん)(そう)(せき)(にん)(しゃ)としてリストにまとめた。そのリストをGHQ(てい)(しゅつ)するというのである。リストの一番上にフジタの名前が書かれていた。フジタは(いか)った。なぜ私に一番責任(せきにん)があるというのだ! 私はただ一人の兵士として、戦争に向き合い、絵を描いただけなのに……

しかし、ついに(せん)(そう)()()いた()()たちがGHQから(せん)(そう)(せき)(にん)()われることはなかった。ただ、このことで今まで(した)しくしていた画家(がか)たちがフジタのもとを(はな)れていき、フジタは心を痛めた。

やがて、フジタは日本を出ていく(けつ)()をする。

1946年にフランスのビザを申請(しんせい)するが、なかなか()りずに待たされた。そこで、フジタはアメリカのビザを申請(しんせい)することにした。(いっ)(たん)アメリカへ入国(にゅうこく)し、そこからフランスへ行こうと(かんが)えたのだ。アメリカにいた友人(ゆうじん)やGHQで働いていたフランク・シャーマンが手伝(てつだ)ってくれた。そのおかげもあって、1年後にアメリカ入国(にゅうこく)のビザが()りた。ただ、()(ちが)いで(きみ)()のビザが()りなかった。(きみ)()のビザは3カ月後になるという。(なや)んだ(すえ)に、先にフジタが一人でアメリカへ行くことにした。

 そのことを()った()()たちは、「フジタは(せん)(そう)(せき)(にん)()われるのを(おそ)れて、日本を()てて(かい)(がい)()げ出す」と(うわさ)した。マスコミも「今の(つま)もまた()てて一人で外国へ行く」、(ふたた)びパリに行っても(こん)()(せい)(こう)できるかあやしいものだ」という記事(きじ)を書いた

 19493月、(はね)()(くう)(こう)からニューヨークへ()かうとき、フジタは見送りに来てくれた人たちにこう言い(のこ)したという。

画家(がか)は絵だけ()いてください。(なか)()(どう)()でけんかをしないでください。日本()(だん)は早く()(かい)(てき)(すい)(じゅん)になってください」

 

[Ⅵ (ふたた)びパリへ] 

  ニューヨークへ着いたフジタは、ここできみのビザがりるまで一人待つことになった。このかんにフジタは二ヶ月で25つうも手紙を書いた。手紙はGHQのフランク・シャーマンてに送られた。そのふうとうの中にきみてのがみも入れた

フランク・シャーマンは、日本に来る前からフジタのファンだった。(せん)()GHQの仕事で来日(らいにち)すると、すぐにフジタに会いに来た。それ()(らい)、二人は(した)しくなり、フジタはシャーマンのために絵を()てあげりした

以下(いか)英文(えいぶん)は、アメリカで生活(せいかつ)を始めたばかりのフジタがシャーマンに送った手紙の(いち)()である。()れない英語で()(なお)に自分の気持ちを(つた)えようとしている。

 

  I feel free, I can enjoy my life so much.  Every day I discover many wonderful stimulus. I want to have many hands not only two. My moral is so good.

(私は()(ゆう)だ。こちらの生活(せいかつ)をとても楽しんでいる。毎日多くのすばらしい()(げき)がある。二本だけじゃなくて、もっとたくさん手がほしい。わたしはやる気にあふれている。)

 ※おそらく“moral”は“morale”の(あやま)

 

 ニューヨークでフジタはよく()(じゅつ)(かん)(おとず)れた。メトロポリタン()(じゅつ)(かん)ではレオナルド・ダ・ヴィンチなど西(せい)(よう)()(だい)()()(さく)(ひん)、ニューヨーク(きん)(だい)()(じゅつ)(かん)ではパリに住んでいた(ころ)(なか)()(さく)(ひん)(なが)めて()ごした

 この()()にフジタが()いた絵の中に「カフェ」という作品がある。パリの街角(まちかど)のカフェで一人の女性(じょせい)がたたずんでいる。その女性の(はだ)は、かつてフランス()(だん)(ぜっ)(さん)された「(にゅう)(はく)(しょく)(はだ)」だった。アメリカでの生活(せいかつ)を楽しんでいたものの、やはりフジタの心はフランスを()いていたのだ。

 1949年5月、(きみ)()()(てい)(どお)ニューヨーク()いたその後、11月に()(てん)(ひら)いて(せい)(こう)(おさ)めると、翌年(よくとし)月にはフランス(しゅっ)(ぱつ)した。(さい)()にシャーマンへ男女のかわいらしい(はん)()(おく)った。そこには「グッバイ・ニューヨーク。パリへ行きます」と書かれてあった。

 10年ぶりのパリでフジタを待っていたのは(げん)()のマスコミだった。(とう)(ちゃく)すると、すぐにマスコミが()しかけてきて、(せん)(そう)(ちゅう)のことしつこく聞いてきたフジタは、ここまで来てもマスコミかと、うんざりした。

 フジタ()(さい)は、かつてフジタが住んでいたモンパルナスアパートに部屋(へや)()りた。だが、ともに()ごした(なか)()()()たちはもうほとんどパリにいなかった。すでに()くなっていたり、どこか(べつ)のところへ行ってしまっていた。フジタはパリの(なつ)かしい(まち)()を絵()いた。やっと落ち着いて()らせる場所に(もど)ってきた。

 1950年3月、パリで(ひさ)しぶりの()(てん)(ひら)いた。()(あん)だったが、(こう)(ひょう)で絵もよく売れた。さらに、うれしいことがあった。あのピカソが見に来てくれたのだ。ピカソは戦前(せんぜん)もフジタの()(てん)によく足を(はこ)んでくれていた。

 この(ころ)()(てん)(しゅう)(きょう)()(しゅ)(ざい)のために、よく旅行(りょこう)に出かけた。ヨーロッパだけでなく、アフリカにわたって、アルジェリアでも()(てん)(ひら)いた。

また、ときどき友人たちがアトリエを(おとず)れてきた。その中には、かつての(つま)フェルナンドやユキもいた。彼女たちに(やさ)しく(せっ)するフジタを見て、(きみ)()はやきもちを()いたとか。

 1955年、フジタ()(さい)はフランス国籍(こくせき)取得(しゅとく)し、フランス人になった。このときフジタは68(さい)だった。このことは日本でもニュースになった。なぜフジタは日本国籍(こくせき)()てフランス人になったのか、現在(げんざい)でもこれは大きな(なぞ)である。ただ、フジタは(ばん)(ねん)(つま)(きみ)()に「私が日本を()てたのではない。()てられたのだ」と何度も言ったという。

 フジタの(だい)(ひょう)(さく)に「私の部屋、()()まし()(けい)のある(せい)(ぶつ)」という絵がある。1921年のサロン・ドートンヌで高い(ひょう)()()け、フジタも()(じょう)気に入っていた作品だ。ずっとフジタの()(もと)()いてあったが、()(ばな)そうと思ったことがあ(せん)()、日本を(はな)れる前に、東京のある()(じゅつ)(かん)にこの(さく)(ひん)()(ぞう)したいという手紙を書いた。日本に自分の(だい)(ひょう)(さく)(のこ)しておこうと思ったからだ。しかし、()(じゅつ)(かん)(ことわ)られてしまう。おそらく作品そのものではなく、(せん)(そう)()(かか)わったフジタの(ひょう)(ばん)()くなかったからであろう。フジタはフランスにわたった後、この絵を()作品(さくひん)とともにフランス(こく)(りつ)(きん)(だい)()(じゅつ)(かん)()(ぞう)したなんと、もったいないことをしたものだ。

 

[Ⅶ (さい)()(おお)()(ごと)

 1959年、フジタ()(さい)はシャンパーニュ()(ほう)にあるランスの大聖堂(だいせいどう)でカトリックの洗礼(せんれい)()。フジタは自分が()くなったら、フランスに(ほね)()めるつもりでいたので、カトリックに(かい)(しゅう)することは()(ぜん)なことだったのかもしれない。

洗礼(せんれい)にあたって、「レオナール(Léonard)」という名を(さず)かった。「レオナール」は「レオナルド・ダ・ヴィンチ」から()りたものだフジタは、レオナルド・ダ・ヴィンチを心から尊敬(そんけい)していたのである。

これ()(こう)、フジタは(しゅう)(きょう)()を多く()くようになる。

 1961年、パリの(なん)()にあるヴィリエ・ル・バクルに()()した。フジタ()(さい)はにぎやかな(まち)(はな)れ、(しず)かな(むら)()らし始めた。

 近所(きんじょ)の子どもたちがアトリエへよく(あそ)びに来た。フジタはいつもたくさん(あめ)(よう)()して、子どもたちが学校から帰ってくるのを楽しみに待っていた。フジタには子どもがいなかったが、子どもの絵よく()いた。ただ、()まったモデルがいたわけではない。フジタは想像(そうぞう)で自分が(あい)する()(そう)の子どもを()いた。子どもは、大人の()(かい)(つか)れたフジタの心に(やす)らぎを(あた)えてくれ大切な存在(そんざい)だったのかもしれない。

 1965年、79(さい)のフジタはいよいよ人生(じんせい)最後(さいご)の仕事に(いど)もうとしていた。ランスに自分で設計(せっけい)した(れい)(はい)(どう)()たい。それだけでなく、(れい)(はい)(どう)の中にフレスコ()()こうというのだ

フレスコ()とは中世(ちゅうせい)にはよく使われた()(ほう)である。(かべ)(しっ)(くい)()り、(かわ)かないうちに、すばやく上から(すい)(せい)()()()()くのだ。フレスコ()()くのは()(じょう)(むずか)しく、(たい)(りょく)()る。

高齢(こうれい)のフジタにはたしてそれができるのか。しかも、フジタはそれまでフレスコ()()いたことがなかった。フジタはアトリエの(かべ)を使ってフレスコ()練習(れんしゅう)をした。

 1966年の暑い夏、フジタは(きみ)()()(じん)(ささ)えられながら、90日かけて、この(おお)()(ごと)をやりとげた。

()(ひつじ)をひざにのせた(かみ)(てん)使()たち(しょう)(じょ)たちに(れい)(はい)される(せい)()()そして、(じゅう)()()にかけられたキリスト。フジタは、キリスト(きょう)()(かい)(ぜん)(りょく)()()った。

 この仕事をやり終えると、フジタは(たい)調(ちょう)(くず)し、(にゅう)(いん)した。

19681月、スイス、チューリッヒの病院で()くなる。

ランスの(だい)(せい)(どう)(そう)()が行われた後、()(たい)は本人の()(ぼう)(どお)、この(れい)(はい)(どう)(まい)(そう)された。()(せき)には“Leonard Foujita”という名が(きざ)まれた。しばらくして日本(せい)()から(くん)(いっ)(とう)(ずい)(ほう)(しょう)(おく)られた

  

Gérald Garitan(2010) Chapelle créée et décorée par Léonard Foujita à Reims en 1966.- CC BY-SA2.5


日当(ひあ)たりの()(みどり)(かこ)まれたこの小さな(れい)(はい)(どう)の名前は、「ノートル・ダム・ド・ラ・ペ((へい)()(せい)())」という。フレスコ()だけでなく、彫刻(ちょうこく)やステンドグラス、(こま)かい(そう)(しょく)にいたるまで、すべてフジタがデザインしたものだ。フジタの()へのこだわりがつまっている。(きみ)()()(じん)()くなると、この(れい)(はい)(どう)埋葬(まいそう)された。

この(れい)(はい)(どう)にはもう一つの名前がある。「シャペル・フジタ(フジタ(れい)(はい)(どう))」。ここがフジタの長い(たび)のゴールだった。

(完)

 

<参考>

YouTube東京都美術館「没後50年 藤田嗣治展」

https://youtu.be/6uVvpJ8J_wM

 

《参考資料》

近藤史人(2006)『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社

近藤史人(編)(2005)『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』講談社

佐藤幸宏(監)(2019)『別冊太陽 藤田嗣治 腕一本で世界に挑む』平凡社

清水敏男(2018)『藤田嗣治作品集』東京美術

林洋子(監)(2018)『旅する画家 藤田嗣治』新潮社

林洋子(2013)『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい藤田嗣治  生涯と作品』東京美術

林洋子(2018)『藤田嗣治 手紙の森へ』集英社

布施英利(2018)『藤田嗣治がわかれば絵画がわかる』NHK出版

 

 

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