――起きろ!
という声で、服部零也は目を覚ました。
テレビがついていた。部屋にはだれもいなかった。
今の声はだれ? 夢?
外はまだ明るい。時計を見ると、二時だった。
十歳の夏休み。零也は東京に住んでいたが、夏休みの間は祖父の家に預けられていた。
両親は毎日仕事で忙しく、どこにも連れて行ってくれない。それなのに、いつも、「勉強しろ」とうるさく言う。そんな東京のうちにいるより、田舎で何もないとこだけど、こっちのほうがずっといい。おじいちゃんとおばあちゃんはとっても優しいし、ぼくの遊び相手になってくれる。
でも、今日はふたりとも朝早くに近くの町へ買い物に出かけて行った。出かける前に「夕方までには帰るから、留守番を頼むよ」とおじいちゃんが言っていた。
午前中のうちに宿題を済ませ、お昼におばあちゃんが作ってくれたおにぎりを食べた。普段ならそのあとおじいちゃんと釣りに連れて行ったりする。けど、今日は特に何もやることがない。ゲームに飽きて、横になってテレビを見ているうちに寝てしまったようだ。
――急いで外へ出るんだ!
また声がした。夢じゃない。その声は、頭の中に直接聞こえてくる。零也は怖くなって、部屋の隅に移動した。
「だれ?」
勇気を出して聞いてみた。
――今、説明している時間はない。ここは危険だ。早く外へ出ろ!
「危険? 何で?」
――早くしろ!
零也は、とにかくこの部屋を出てみることにした。部屋の外なら、この声も聞こえなくなるかもしれない。
だが、玄関の方へ足を向けると、また声がした。
――そっちじゃない! 台所の窓からだ。
「窓? でも、靴がないし……」
台所は玄関と逆方向にある。そのとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。
お客さん?
ピンポーン。
また鳴った。
――いいから、台所へ行け!
「でも……」
少し迷ったが、声を無視して玄関へ向かった。
――だめだ! 行くな!
玄関の前まで来たとき、ダン、ダン、ダン、と戸を叩く音がした。薄い戸の向こうから男の声が聞こえた。
「アニキ、だれもいないようですぜ」
「鍵を壊せ」
「はい」
ガンッ。戸に硬いものがぶつかる音がした。心臓が飛び上がった。
零也はそっと靴を取り、台所へ急いだ。
台所に着くと、窓から靴を放り投げ、足をかけて外に出ようとした。だが、汗で手が滑って、どしんとお尻から地面に落ちてしまった。
痛い……
靴を履いていると、ガラガラという音が聞こえた。戸が開いたようだ。
まずい。テレビをつけたままだ。でも、もう戻れない。早く逃げなきゃ。でも、どこへ……
この家の周りには田んぼしかない。隣の家までは一キロ以上離れている。それに家の前の道路は一本道だから追って来られたら捕まってしまう。そのとき、頭の中で声がした。
――蔵だ!
零也は駆け出した。
裏庭には小さい畑があって、その奥に古い蔵がある。蔵の中には釣りや畑仕事の道具がしまってあった。
胸が苦しい。
零也は、はあはあと肩で息をしながら、薄暗い蔵の中へ入っていった。
ひんやりしていて涼しい。座って休みたい。でも、早く隠れないと。
戸を閉めると、また声が聞こえた。
――奥にタンスがある。その中に木の箱が入っている。それを開けろ!
「木の箱?」
探すと、すぐにタンスは見つかった。でも、タンスの引き出しを下から開けていったが、なかなか木の箱は出てこない。零也の身長では上のほうは手が届かない。周りを見ると、椅子があった。その椅子を運んできて、靴を脱いで上がると、上のほうの引き出しを開けていった。
あった!
結局、大きな木の箱が入っていたのは一番上の引き出しだった。さっそく箱のふたを開けようとしたが、なかなか開かない。そこで、一度箱を取り出して床に置いた。両足で箱をはさんで思いっきりふたを引っぱる。すると、少し動いたかと思うと、急に、ばかっとふたが開いた。その勢いで零也は後ろに倒れ、またお尻を強く打った。
痛たた……。えっ、何、これ?
箱の中から雲のような白い煙が出てきた。そして、その煙は、だんだん人の形に変わっていく。
「やっと会えたな。服部零也よ」
この声は、頭の中でしていた声だ。
煙の中から現れたのは老人だった。そして、その顔はおじいちゃんにそっくりだった。けど、立派な白い髭を生やして、浴衣みたいな黒い服を着ている。それに……足がない。ふわふわ宙に浮いている。
「だ、だれ?」
「わしはおまえの先祖、服部十衛門だ」
「服部? じゃあ、ぼくのご先祖様?」
「ああ、そうだ。死んでしまって、体はもうない。今はおまえにだけ、わしの姿が見えているのだ」
「へええ、そうなんだ。あっ、さっきは助けてくれてありがとう」
「ふん、まだ助かっておらんぞ。急ぐんだ。もうすぐあの男たちがここへやってくる。早く、この箱の中にある服に着替えるんだ」
「着替える!?」
箱の中には古い巻物と風呂敷のような布に包まれた黒い服が入っていた。
着方は十衛門が教えてくれた。十衛門は着替え終えた零也を自分の前に立たせた。そして、目を閉じると、両手の人差し指を合わせ、ぶつぶつ何かつぶやき始めた。
この服は薄いけど、温かい。それに、このにおい、なんだか懐かしい。
突然、懐に入れてあった巻物が熱くなった。気が付くと、零也の体は不思議な光に包まれていた。
「おい、この畑を見ろ。足跡だ。どうやら子どものようだな」
外から男たちの声が聞こえてきた。
十衛門は服を包んでいた風呂敷のような布を指さした。
「零也よ。その布を両手で広げて高く上げ、壁に背中をつけるんだ」
「えっ、そんなことしても、隠れられないよ。すぐに見つかっちゃう!」
「馬鹿者! 助かりたければ、言う通りにしろ!」
このご先祖様は、おじいちゃんと顔は似てるけど、性格は全然違う。厳しい。しょうがない……
零也は布を手に取り、言われた通り、両手で広げて高く上げ、壁に背中をくっつけた。すると、みるみる布が壁の色に変わり、零也の体が壁の中に吸い込まれていった。
なっ、何、これ!?
ドアが開き、男たちが蔵の中に入ってきた。
「おーい。いるんでしょ? 知ってるよ。さっきまでテレビを見ていた子だろ。早く出て来てよ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
玄関のところで聞いた男の声だ。若い感じがする。なんだか前より声や音がよく聞こえる。足音も――二人、三人……四人だ。
「ねえ、どこにいるの?」
低い声の男がいらいらして、
「おい。待っていないで、早く探せ! 子どもと巻物だ」
と言うと、
「はい、すみません。アニキ」
と男たちは緊張した様子で蔵の中を探し始めた。
入口の方からだんだんこっちに近づいて来る。
「ん?」
「どうかしましたか? アニキ」
「この椅子を見ろ。ここだけほこりが落ちているだろ。子どもの足の跡だ。間違いない。ここにいる」
「おお、さすがアニキ」
しかし、そのあと、男たちがいくら零也のことを探しても見つからなかった。
信じられない。こんなに近くにいるのに……
三十分ほど経ったころ、アニキと呼ばれていた男の低い声が聞こえた。
「もういい!」
「もう一度家の方を探しましょうか?」
「いや、一度引き上げる。夕方、じいさんたちが帰ってきてからだ」
男たちの足音が遠くなり、やがて車が発進する音が聞こえた。
腕を下ろすと、零也の体は壁の外に出て、布も元の色に戻った。零也は少し戸を開け、外を確認した。男たちはいなかった。畑の脇にある木にカラス一匹がいるだけだった。
ふう、助かった……
そこに再び十衛門が現れた。
「よくやった」
とほめてくれたが、顔は怖いままだ。
「ねえ、さっきぼくが布で消えたのは、何だったの?」
「あれは隠れ身の術だ」
「隠れ身の術?」
「忍者の使う術、忍術だ。おまえは忍者になったのだ」
「ええっー! ぼくが忍者!?」
「そうだ。わしも忍者だ。おまえの身体には忍者の血が流れているのだ」
「でも、おとうさんもおじいちゃんも忍者じゃないよ」
「……そう。残念なことに、時代とともに忍者は必要とされなくなり、だれも忍術を覚えようとしなくなった。そして、子孫は先祖が忍者であったことも忘れてしまった。しかし、零也、おまえはまだ若い。そして良い心を持っている。わしは三百年間、おまえのような者が現れるのをずっと待っていたのだ」
「ぼくを? ……けど、ぼく、背も低いし、足も遅いよ。運動も苦手だし」
「心配するな。忍者に一番大切なもの。それは強い心だ。おまえは素直で良い心を持っておる。きっと強くなる。それに、信じられないかもしれないが、おまえの体はもう忍者の力を身に着けているのだ。少し跳んでみろ」
「跳ぶ? ジャンプするってこと?」
「そうだ」
「うん、やってみる。それ!」
ゴンッ!
痛い! 頭に何かぶつかった。て、天井!? 信じられない。蔵の天井まで五メートルはあるのに。
「馬鹿者! 『少し』と言っただろ。加減しないと、ケガをするぞ。その服を身に着け、忍者になった者は、身体が軽くなり、普段の十倍以上の力が出せるのだ」
「へえー。あ、もしかして耳が良く聞こえるようになったのも、忍者になったから?」
「そうだ。耳、目、鼻で様々なことを敏感に感じ取ることができるのだ」
「すごい! これなら悪者からも逃げられるね」
「ああ。だが、逃げるだけではだめだ。大切なものを守るためには、戦わなければならない」
「大切なもの……。あっ、おじいちゃんとおばあちゃん!」
「そうだ。そして、巻物だ。さっきの男たちが欲しがっていたのは、その忍術が書かれた巻物だ。なぜかわからないが、どうやらあの男たちに巻物の存在を知られてしまったらしい。忍術を使えば、だれにも気づかれずに金を盗ることも人を殺すことも簡単にできる。あの男たちがその巻物を手にしたら、きっと恐ろしいことが起きるだろう。今、巻物を守れるのは零也、お前しかいない。頼む! 巻物を守ってくれ!」
十衛門が頭を下げた。
こんなふうにだれかに頼られたのは生まれてはじめてだ。それに、大好きなおじいちゃんとおばあちゃんを守らなきゃ。
「ぼく、やるよ。ぼくが守る!」
「そうか。ありがたい。では、早速、修行だ。夕方までに基本的な術を覚え、この力に慣れるのだ」
「うん! あ、そうだ。忍者になったんだから、名前を付けなきゃ」
「ふふふ。名前ならもうわしが考えておる。お前は今日から、零衛門じゃ!」
「いやだよ。そんな名前。かっこわるい」
「なんじゃと!」
「ん~。何がいいかなあ……。そうだ! いい名前、思いついた!」
夕方、男たちの車がやってきた。だが、家から百メートルほど手前の道で急に止まった。運転していた若い男が車から降りてきて、タイヤを見ている。
「どうした? パンクか」
眼鏡をかけた男も降りてきた。
「ええ、タイヤに何か太い鉄の針のようなものが刺さっています」
「何!? 針? あああああーーーっ!」
眼鏡の男が飛び上がった。
「えっ! どうしました?」
眼鏡の男が履いたサンダルの裏にもその太い針のようなものが突き刺さっていた。見ると、それと同じものが道のあちこちに撒かれていた。
「それはマキビシだよ」
どこからか少年の声が聞こえた。
「だっ、だれだ!?」
男たちは辺りを見回した。しかし、どこにも姿は見えない。車から太った男と白いスーツを着た男も降りてきた。
風が吹いた。コンッと軽い小石が車にぶつかる音がした。男たちがいっせいにその方を向いた。車の上に、夕日を背にした忍者姿の少年が立っていた。
「だれだ!?」
「ぼくの名前はゼロ。忍者ゼロだ!」
「忍者?」
「悪いけど、おまえたちが探している巻物は、ぼくがもらったよ!」
ゼロはそう言って、懐から巻物を取り出して見せた。
白いスーツの男は低い声で、
「ふん。ずいぶんかわいい忍者だなあ。ああ、そうか。おれたちの代わりに盗ってきてくれたのか。ありがとよ。じゃあ、おとなしくそれをこっちへ渡すんだ」
と言った。
隣にいた若い男がナイフを取り出した。男たちは車を囲んだ。
「いやだよ」
ゼロは跳んだ。一瞬で高い木の枝に移動した。「えっ!」と男たちは思わず息を飲んだ。ゼロはすぐに隣の木に飛び移り、林の中へ消えて行った。男たちは慌てて、「待てー!」と追いかけた。
「どこだ?」
暗い林の中、男たちはゼロ探し回った。しかし、「見つけた!」と思うと、次の瞬間にはいなくなる。男たちはもう汗まみれだ。
「ここだよ」
男たちが声がした方に目をやると、そこにゼロがいた。
「動くな!」
一番近くにいた若い男がナイフを振り上げてゼロに向かって行く。ゼロは動かない。あと2メートルと迫ったところで、突然、男の姿が消えた――ゼロが消したのか。違う。男が池に落ちたのだ。「助けてくれー!」と叫んでいる。ゼロが立っている場所は池の上だった。
「どう? 汗かいてたから、すっきりしたでしょ?」
と言って、ゼロは足に履いた丸い板のようなもので、池の上をスケートのように軽やかに滑って行く。そして、また見えなくなった。
男たちはまた必死にゼロを探さなければならなかった。日はすっかり落ちて、月が出ていた。
白スーツの男が「いたぞ!」と仲間を呼んだ。しかし、それと同時に、眼鏡の男が「アニキ、こっちです!」と反対の方で叫ぶ。太った男も「こっち! こっち!」と別のところを指さした。遠くの方でも池に落ちた男が「ここにいるぞ!」と。
白スーツの男は考えた――どうしてこっちにもあっちにも忍者がいるんだ? もしかして最初から四人いたのか?
「違うよ。一人だよ」
男は背中に冷たいものを感じた。振り返ると、細い木の枝に、月に照らされた五人目の忍者が立っていた。
「ねえ、もう諦めたほうがいいんじゃない?」
「ふっ、諦めるのはおまえのほうだ」
白スーツの男は懐からピストルを取り出し、銃口をゼロに向けた。
ゼロは氷のように動かない。
他の男たちも集まってきた。
白スーツの男はゼロの目を見て、
「さあ、巻物を出すんだ!」
と言った。
ゼロは十衛門の言葉を思い出していた――『忍者に一番大切なもの。それは強い心だ』――
ゼロは静かに息を吸った。
シュッと風を切る音が鳴ったかと思うと、男は「うおっ!」と声を上げ、ピストルを地面に落とした。男の右手に手裏剣が突き刺さった。
ゼロは両手の人差し指を合わせ、術を唱えた。
「火遁の術!」
ゼロの手から巨大な炎が飛び出し、男たちに襲いかかった。
「うわぁ~、あちっ、あちちー!」
男たちは次々と池に飛び込んだ。そして、「覚えてろよ!」と言って道路の方へ逃げて行った。
ゼロは一番高い木の上まで上がると、大きな丸い月を眺めた。
十衛門の声が聞こえた。
――よくやった。ありがとう、零也。いや、忍者ゼロよ――
にっこり笑う十衛門の顔が丸い月に重なって見えた。やっと笑ってくれた。
おじいちゃんの家の明かりが見える。早く帰らなくちゃ。
向かいの木にいたやせたカラスが羽を広げて夜の闇へと消えていった。
(完)
No comments:
Post a Comment