人も車も通らない
Tシャツのそでで
汗をぬぐった
太陽がじりじりと肌を焼く
残った水を飲み干すと
男は旅に出たことを後悔した
数年前……たしか8月のことだ。ぼくは上司のMさんとともにハノイのノイバイ空港に降り立った。ベトナムへ出張に来るのはもう5度目だった。スーツケースを転がして、エアコンの効いた空港から一歩外に出ると、独特のにおいと熱気に包まれた。
空港から直接市内の事務所を回り、いつものホテルに到着したときには、時計はもう8時を回っていた。時差があるので、日本では夜10時過ぎ。長時間飛行機に乗っていたこともあって、Mさんは疲れていた。チェックインを済ませ、部屋に荷物を運び入れると、すぐにホテルのレストランで食事を取り、「明日は7時にロビーで」と約束を交わして、エレベーターの前でMさんと別れた。
だが、ぼくはそれほど疲れていなかった。休むよりむしろ身体を動かしたいと思っていた。けれど、このホテルにはジムがなかった。そこで、ぼくは早起きしてジョギングに行こうと決めた。
今までも何度かこのホテルの近くを走ったことがあった。ハノイには湖がたくさんある。それで、たいていどこかの湖を一周するコースにしていた。今回はその中でも最も大きいタイ湖に挑戦しようと思った。
かなり長い距離を走ることになるが、走り切る自信があった。その頃のぼくは一年に三度もハーフマラソンの大会に出るぐらい体力があった。だから、「湖を反時計回りに一周するだけなら、まさに朝飯前だ」と、ちゃんとコースを調べなかった。しかし、のちにきちんと調べてみたら、その距離はなんと17kmもあったのだ。
午前5時。アラームが鳴ると同時に、ぱっと目が覚めた。カーテンを開けると、朝日に輝くタイ湖が広がっていた。そう、タイ湖はこのホテルの目の前にあるのだ。顔を洗い、ひげを剃り、コンタクトレンズを付けると、ぼくはその美しい景色を眺めながら、バナナを食べた。
Tシャツとハーフパンツに着替え、いつものジョギングシューズを履いた。時計は、まだ5時13分。冷蔵庫から冷えたペットボトルの水を取り出し、固いふたを開けると、ごくっと一口のどに流し込む。そして、ボトルをつかんだまま、勢いよく部屋を飛び出そうとした。だが、まだ早朝だったことを思い出し、そっとドアを閉めた。
朝のさわやかな空気の中、ぼくは一人走り出した。あたりは静かで、人も車も少なく、走りやすい。足は羽のように軽く、地面を蹴るたびに、心地よい音が響く。
すべてが順調に進んでいるように思えた。そのとき、ふと腕時計を忘れてきたことに気づいた。取りに戻ろうかと思ったが、それはささいなことだし、わざわざ引き返すまでもないとすぐに思い直した。ぼくは湖の向かい側にある、白い高層ビルを目指した。
釣りをする子ども
フルーツを運ぶおばさん
食堂のシャッターを開ける青年
眠そうな犬
すべてがスローモーションのように
流れていく
白いビルの前を通り過ぎたとき、ペットボトルの水も体力もまだ半分以上残っていた。
——このまま行けば、Mさんとの約束の時間にも十分間に合うはずだ。
しばらく行くと、道が左右に分かれた。どちらに行こうか一瞬迷ったが、左の道を選んだ。反時計回りに進んでいるのなら、左側に湖が見えていれば道に迷うことはないだろうと思ったからだ。
だが、その道は複雑で、何本も橋を渡っているうちに、ずいぶん遠回りさせられていることがわかった。そこで、湖にそって走るのをやめ、できるだけまっすぐ進むことにした。
そのうち左手から湖が見えなくなり、やがて大きな公園にぶつかった。その公園をまっすぐ通り抜けると、大通りに出た。
——おかしい……。たしか湖の近くには大通りはなかったはずだ。
とりあえず通りにそって走ってみたが、歩道はでこぼこで、人も多くて、走りにくい。しかたなく、また湖の方へと細い道を下っていった。
日は昇り、暑さでじわじわと体力が奪われていく。ぼくは何度も水を口にした。残りの水はあとわずか。羽のように感じた足も、まるで棒のように動かない。息が苦しい……
あとどのくらい走ればいいんだろう?
この道で本当に合っているのか?
今、何時だ?
そうか。ぼくは迷子になったんだ……
足が止まった。
もうだいたいの時間さえわからない。
——やはりあのとき腕時計を取りに戻るべきだったか……
そのとき、遠くに三角帽子をかぶった人影が見えた。残った力を振り絞り、ぼくはまた駆け出した。
近くまで行くと、その人物は50代ぐらいの女性だとわかった。彼女はかごに入れた野菜を運んでいた。
ぼくがベトナム語で「シンチャオ」とあいさつをすると、そのおばさんは不安げにあいさつを返してくれた。しかし、ぼくが話せるベトナム語はそれだけだった。
英語で時間を尋ねると、おばさんは困った顔をした。そこで、ぼくは自分の手首を指さして、“Time!”と大きな声で言った。すると、おばさんはゆっくりとポケットから懐中時計を取り出した。そして、少し考えてから、“Seven”と言った。
——7時? もうそんな時間? やばい、Mさんに叱られる。いや、それだけで済めば、まだましだ。もしかすると、警察を呼ぶかもしれない……
冷たい汗が流れた。ぼくは最後まで走り抜くことをあきらめ、なんとかして早くホテルに戻る方法を考えた。周りを見渡すと、大きな建物があった。
——ホテル? あれがホテルなら、あそこでタクシーをつかまえられるはず!
おばさんにお礼を言い、わずかな希望を胸に、必死に走った。
だが、それはホテルではなく、小学校だった……
もう走るエネルギーはどこからも湧いてこなかった。ぼくはさっきの通りまで、とぼとぼと歩き始めた。
いつのまにか、ぼくはある歌を口ずさんでいた。
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く
一人ぼっちの夜
(「上を向いて歩こう」歌詞:永六輔)
まだ朝なのに……と思いながら、何度歌っただろうか。ついに、大通りまでたどり着いた。そこで、奇跡が起きた。タクシーがぼくの目の前に止まったのだ。そして、今まさに乗客が降りようとしていた。
空いた座席に駆け込むと、運転手のおじさんはぼくを見てぎょっとした。驚くのも無理はない。ジョギングの格好をした汗だくの男が突然飛び乗って来たのだから。ぼくはお金を持っていないことなどおくびにも出さずに、ポケットからカードキーを取り出し、ホテル名を告げた。
タクシーが動き出した。ほっとして、冷たい革のシートにもたれると、甘い南国の香りがした。ふと見ると、助手席のエアコンの風が出てくるところにパイナップルが置いてあった。「ベトナムらしい」と、くすっと笑った。グ~とおなかが鳴る。バナナは食べたが、まだ朝食前だと思い出した。
次第にまぶたが重くなってきた。大きなあくびを一つしたら、ますます眠くなった。そこで、突然、タクシーが止まり、運転手が振り向いた。何事かと思って目を見開くと、そこはもうホテルの前だった。
「えっ、もう着いたの!?」
と思わず言ってしまうほど近かったのだ。たぶん2kmもない……
ぼくは運転手のおじさんに下手な英語とジェスチャーで、ホテルの部屋に財布を置き忘れたので取ってくるから少し待っていてほしい、と頼んだ。彼はしかたがないという顔で“OK”と言った。
ホテルに入ると、ロビーにMさんが立っていた。猛ダッシュで目の前まで行き、
「申し訳ありませんでした」
と頭を下げた。すると、Mさんは
「ああ、大丈夫。わたしも今来たところだから」
と笑顔で返した。
「えっ?」
フロントの上に壁時計があった。ぼくは目を疑った。時計の針が7時2分を指していたのだ。
どう考えても、おかしい。時間が合わない。いったいどうしてこんなことになったのか全く理解できなかった。だが、とにかく今はタクシーの料金を支払わなければならない。ぼくはMさんに、ジョギングに出たけど道に迷ってタクシーで帰ってきたと説明し、お金を借りて、タクシー代を清算した。ロビーに戻ると、Mさんは汗まみれのぼくを見て、
「先にレストランに行って食べているから、シャワーでも浴びて来なさい」
と優しく声をかけてくれた。
シャワーを浴びながら、ぼくは考えた。なぜあのベトナム人のおばさんは “Seven
[7時]”と言ったのだろうか。ぼくをだまそうとしたのか。いや、そんな意地悪をするはずはない。じゃあ、時計の電池が切れていたとか。しかし、それなら、時計は遅れるはずで、進んでいるのはおかしい……。
しばらく考えて、やっと思い至った。そうか、あのおばさんは英語がよくわからなかったのだ。おそらくぼくが彼女に話しかけたのは6時45分ごろ。しかし、彼女は「1」から「10」までは英語で言えても、「45」が言えなかった。だから、ちょっと黙ってから、だいたいの時間を告げたのだ。そして、ぼくはそこから小学校に行き、がっかりして、通りまで歩いたのが12、13分。そこから3分ほどタクシーに乗ったとすると、ホテルに着いたのが7時2分でもおかしくない。
腹の底から笑いがこみあげてきた。真実は、いつもばかばかしいほど単純で、複雑だ。狭いバスルームは笑い声がよく響いた。
男は静かにソファーに座っていた
彼の心は思い出で満たされていた
大ざっぱな計画は喜びと不安を生み、
大ざっぱな時間が悲劇と喜劇を運んできた
長い、長い旅は終わり、
長い、長い一日がまた始まった
男は力強くソファーから立ち上がった
空っぽのおなかを朝食で満たすために
彼はまた走り出した
読みました!楽しんでよく遥かの場所の気持ちを伝えられました。怖いけど旅欲は起きる。いつも通りありがとうございます!
ReplyDeleteもうさん、いつもありがとうございます。楽しんで読んでくれて、うれしいです。ここ3年ほど遠出をしていないので、私もどこか遠くに出かけたいなあと思っています。
Delete面白い話です。読んで湖いっぱいの町に行こうなの気持ちです。どうもありがとうございます。
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