「乾杯!」
その日のライブの打ち上げでは丞たちの周りに人が集まってきた。みんなが聞きたいのは、今夜のライブのことではない。先月行われた、人気ロックバンド「ノースバウンド」のライブのことだ。丞たちのバンド「バレット」は、そのライブで前座としてステージに立ったのだ。
「おれたちの出番が終わったあと、ステージ袖であのノースバウンドの川北さんが『おまえのギター、良かったぜ!』って言ってくれたんだ! もう飛び上がるほどうれしかった!」
「それ、もう何回も聞いたよ」
上機嫌で話す晴樹の後ろで、丞はちびちびビールを飲んでいた。
こういう場で人と話すのは苦手だ。それに、さっきまで全力で歌ってクタクタなのに、明日は朝5時からコンビニのバイトがある。ビールは好きだが、少し抑えて飲まないと、起きられそうにない。
「丞さん、飲んでますか? 新しい飲み物、持って来ましょうか?」
話しかけてきたのはドラムの葵だ。葵は一カ月前にバンドに入ったばかりなのに、もうすっかりなじんでいる。そして、意外と気がきく奴で、積極的にバンド活動の雑用もこなしてくれる。
「じゃ、ウーロン茶を頼む。ん、彼女は?」
葵のとなりに見かけない女性がいた。
「あ、ぼくの従姉です。今日のライブ、見に来てくれたんで、打ち上げにも誘ったんです」
言われてみると、なんとなく葵と顔立ちが似ている。二十歳ぐらいだろうか。
彼女は、にこっと笑うと
「はじめまして。吉岡和奏です」と言って丁寧に頭を下げた。
「どうも、はじめまして。丞です」
「今日のライブ、感動しました。うまく言えませんが、まだ胸に何か残っている感じがします」
「ありがとう。そう言ってもらえると、うれしいです」
「それから、歌詞も独特ですてきでした。丞さんって英語が上手なんですね」
「ああ、それは……」
丞が説明しようとすると、後ろにいた晴樹が話に割り込んできた。
「丞さんは中学までオーストラリアに住んでたんだ。だから、英語はペラペラ。歌詞を書くときも、まず全部英語で書いて、それを日本語に翻訳してるんだ。でも、丞さんは、漢字が苦手だから、よく間違えて慎吾さんに直されてんだ」
「うるせー! おまえだって漢字が苦手だろ! こないだも『生粋』を『なまいき』って読んでたじゃねーか!」
「ああ~! 丞さん。ばらさないで~!」
「あはは」
晴樹が恥ずかしそうに逃げていき、葵が飲み物を取りに行くと、丞と和奏は二人きりになった。
「慎吾さんって、ベースの方ですよね?」
「そう。バンドの中じゃ一番年上でしっかりしてるんだけど、口うるさくて」
「へえー、そうなんですか。ライブを聴きに来たのは初めてですが、実は葵から丞さんやバンドのことはよく聞いてたんです。葵を救ってくれたこととか、大切にしているアコースティックギターのこととか」
「あ、そう」
丞はそのときのことを思い出して少し恥ずかしくなった。
「そう言えば、ライブではそのギターは使わないんですか?」
「ああ。曲を作ったりするときには使うけどね」
「ふうん、ちょっと見てみたかったなあ」
そのあとは、和奏の話になった。和奏は、大学生二年生で、最近までイギリスに留学していたそうだ。大学では英文学を専攻していて、外国の小説などは洋書で読むという。それから、海と映画とパンケーキが大好きで、虫と料理とトマトが苦手らしい。
和奏はおしゃべりだった。けど、うるさくは感じなかった。そして、時折見せる笑顔がまぶしかった。
十時を過ぎてもまだ打ち上げは続いていた。和奏は腕時計をちらっと見た。
「じゃあ、そろそろ電車の時間なので帰ります。今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「こっちこそ。またライブ、聴きに来て」
「はい、ぜひ。じゃあ、また」
「じゃ」
丞も明日のために早めに上がろうと、メンバーみんなに声をかけて回った。晴樹も葵も楽しそうに飲んでいたが、慎吾はあまり飲んでいないのか、まじめな顔で黒沢さんと話し込んでいた。
店を出ると、夜の冷気が肌を刺した。春になったとはいえ、朝晩はまだ冷える。ジャケットの襟を立て歩き出そうとしたとき、歩道に人がポツンと立っているのに気がついた。
和奏が夜空を眺めていた。
まだ帰っていなかったのか。丞は和奏のとなりに行くと、同じように空を見上げた。
思わずつぶやいた。
「It’s a half moon
tonight. 」
きれいな半月が空に浮かんでいた。
和奏は月を見上げたまま話し始めた。
「イギリスにいたとき、夜なかなか眠れなくて、ホームステイ先の家の庭でよく月を眺めていたんです。それから、なんとなく月が好きになって、今でもこうやってときどき眺めるんです。でも、今日はそのせいで電車一本乗り損なっちゃいました」
「そうなんだ」
「わたし、三日月や満月より半月が好きなんです」
「なんで?」
「三日月はちょっとさびしそうだし、満月は自信満々でいばってる感じがしませんか。でも、半月はひかえめだけど、まっすぐで、しっかりしてる。それに、見えない残りの半分を追い求めている感じが好きなんです」
和奏が言っていることはわかる気がした。
「あっ」
「どうしたんですか?」
「日本語で『はんげつ』って言うんだね。おれ、ずっと『はんつき』だと思ってた」
「やだー、丞さん。ほんとに漢字が苦手なんですね。あはは」
その間違いが自分でもおかしくて、いっしょに声を上げて笑った。
しばらくすると、和奏はささやくように歌い始めた。きれいな歌声だった。何年か前に流行った洋楽のバラードだ。英語の発音もなかなかだ。丞も合わせて歌い出すと、和奏が笑顔を向けた。
二人の歌声は重なり合い、夜空に溶けていった。
「駅まで送るよ」
「ありがとうございます。じゃあ、歌いながら行きましょう」
「やだよ。恥ずかしい」
「ロックミュージシャンが恥ずかしいなんて言っちゃだめですよ」
三日後。丞たちはスタジオで次の単独ライブに向けて練習をしていた。休憩中、慎吾が新しい曲を作ろうと言い出した。
「今度の単独ライブは十曲だ。どれもいい曲だと思う。ただ、どれも速くて強い曲だから、ずっと同じような曲が続くと、客が飽きる。変化があったほうがいいと思うんだ。今までと違う感じの曲を作ろう」
晴樹が慎吾に聞いた。
「たとえば?」
「バラードとか」
それを聞いて、丞は頭をかいた。
――バラードか……嫌いじゃないが、正直作りたいと思わない。新しい感じの曲が必要なのはわかるが、今までの自分たちの音楽から外れてしまわないか。ファンが離れていったらどうする? それに、そもそもバラ―ドなんて作ったことがない。自信がない。
しかし、そのことを口にする前に、葵が、
「いいじゃないですか。バラード、やりましょう。ぼくは賛成です」と言った。
「よし。晴樹はどう思う?」
「んん~。おれはあまりゆったりした曲は好きじゃないけど、やってみてもいいよ」
自然とみんなの視線が丞に集まった。バレットの曲はすべて丞が曲を書いていた。丞はペットボトルの水を一口飲んで言った。
「わかったよ! やってみる。けど、時間をくれ」
「次の練習までだ」と慎吾が言い放った。
「おい、次の練習って来週の火曜だろ!? 一週間もないぞ!」
「じゃないと、次のライブに間に合わない」
たしかに次のライブまであと一カ月もない。慎吾が焦る気持ちはわかる。しかし、結局、丞が曲を作らないことには何も始まらない。
晴樹がニヤニヤしながら言った。
「丞さん、ラブソングでも書いてみたら?」
「うるせー! 勝手なこと言うな!」
丞が困ったときに向かう場所は決まっている。黒沢楽器店だ。
「おう。丞、どうした? 暗い顔して」
店長の黒沢はギターのメンテナンス中だった。
「黒沢さん。ちょっと相談したいことがあって」
「またギターを預けるから金を貸してくれとか言うんじゃないだろうな」
「違いますよ! もう二度とあのギターは手離したりしません!」
以前、黒沢に宝物のアコースティックギターを預ける代わりに三十万円を貸してもらったことがあった。
「じゃあ、何だ?」
「新曲のことです」
「ああ、そのことか。この間のライブの打ち上げでおれが慎吾にアドバイスをしたんだ。速い曲ばかりじゃなくて、スローな曲を入れたらどうかって」
「えっ、あのとき! どうしておれに言ってくれなかったんですか!?」
「だって、あのとき、おまえはかわいい女の子と楽しそうに話してたじゃないか。邪魔しちゃいけないと思ってな」
「……」
「ちゃんと連絡先、交換したか?」
「してませんよ! おれ、今はバンドに集中したいんです」
「ふうん。ロックミュージシャンが恋愛の一つもできないようじゃ、いい曲、書けないぞ」
黒沢さんの言葉がちくっと胸に刺さった。
「黒沢さん、昔バンドを組んでたとき、曲を作ってたんですよね? どうやったらバラードが書けますか?」
「そうだなあ。おまえは『前に出たい』っていう気持ちが強いから、自然と速いテンポの曲ばかり書くんだ。バラードは恋愛の曲が多いだろ。それは『この時間が少しでも長く続いてほしい』っていう気持ちがあるからだ。それで、自然とスローな曲に仕上がるんだ。別に恋愛じゃなくてもいいが、そういう経験が少しでもあれば、あとは想像力で補って書けるはずだ」
帰り道、丞はあの夜のことを思い出していた。和奏と月を眺めて歌ったことを。
アコースティックギターを抱え、ほぼ徹夜で曲を書き上げた。タイトルは『Half Moon』。遠く離れた場所にいる二人が同じ月を眺め、また会える日を夢見ているという曲だ。もちろん半分以上想像だが、あの夜のことをもとにして作った。最初は不安な気持ちで書き始めたが、できあがったときにはいい曲が書けたと思った。歌詞もすっと書けた。
スタジオ練習の日、みんなに録音した曲を聴かせた。聴いているときのみんなの満足げな表情を見て確信した。この曲は傑作だ。
「やったなあ。丞」と慎吾が言った。
「丞さんならきっとできると思ってましたけど、やっぱすごいですね」と葵が言った。
「早く練習しようよ!」と晴樹が言った。
「おいおい、落ち着けよ。まだ二つ問題がある。一つは、いつものことだけど、英語の歌詞を日本語に直さなきゃいけない。慎吾、ちょっと手伝ってくれ」
「ああ、わかった」
「それから、曲を作るときに、ギターを弾きすぎて手首を痛めてしまったんだ。晴樹、悪いけど、治るまで代わりにこのギターで弾いてくれないか」
「えっ! アコースティックギター? じゃあ、エレキギターは弾けないの?」
「おれだって、本当はこのギターはだれにも触らせたくないさ。だから、治るまでの間だけだ」
「う~ん。わかった……やるよ……」
晴樹がぶつぶつ言っていると、葵が「はい!」と手を挙げた。
「いいこと思いつきました! うちの従姉、アコースティックギターが弾けるんです。丞さんのケガが治るまでの間、スタジオ練習に呼んで手伝ってもらうっていうのはどうですか?」
「その従姉って、もしかして……」と丞が言いかけると、
「そうです。和奏ねえちゃんです」と葵が答えた。
「あ! あの打ち上げのとき、丞さんと話してた子? 賛成! 彼女が弾いてくれるなら、おれもエレキ弾けるし、助かるよ。ねえ、慎吾さんも賛成でしょ?」
「ただ弾けるだけじゃだめだぞ。ちゃんとみんなと合わせて弾けるのか?」
「はい。和奏ねえちゃんが本格的にやってたのはクラシックピアノなんですが、うちの親父にジャズを習ってたこともあって、みんなと合わせて弾いたりするのもできると思います。それに、たしか昔バンドでキーボードを弾いてたって」
「天才ドラマーの葵が言うんだから、大丈夫だろう。よし。じゃあ、とりあえずそれでいこう。次の練習に連れてきてくれ」
「おい、慎吾、ちょっと待てよ。バンドのリーダーはおれだぞ! 勝手に決めるな!」
「丞。そもそもおまえが手をけがしたのが原因でこうなったんだ。おまえに反対する権利はない」
慎吾にそう言われると、何も言い返せなかった。けど、「手をけがしたのは、そもそもおまえが急いで新曲を作れと言ったからだろ!」と心の中で毒づいた。
「よかったですね。丞さん」
葵が意味ありげにほほえんだ。
いつものスタジオなのに、今日はドアを開けるとき、少しドキドキした。
入ると、すぐに「おはようございます!」という元気な声が聞こえた。和奏だ。白と紺のボーダーのTシャツに細身のジーンズ。このあいだは下ろしていた髪を一つに結っていた。
「おう。今日はよろしく」
「はい、足を引っ張らないようにがんばります!」
ほかのメンバーもそろっていた。みんないつもより早めに来たようだ。
事前に葵を通じて、デモCDを渡していたが、和奏がはたしてどのぐらい弾けるかみんな不安に感じていた。
しかし、そんな心配は無用だった。和奏は最初から『Half Moon』を完璧に弾きこなした。弾き終えると、みんなから拍手が送られた。その後、みんなと合わせて演奏したが、はじめてとは思えないほど息が合った。
練習を終え、みんなで近くの定食屋へ夕飯を食べに行った。和奏は、よくしゃべり、よく笑い、みんなと同じかつ丼を食べた。丞は和奏と離れた席に座った。
店を出たとき、和奏が話しかけてきた。みんなはまだ店の中にいて、二人きりだった。
「ごちそうさまでした。かつ丼、おいしかったです」
和奏の分は、手伝ってくれたお礼に丞がおごった。正確には、慎吾におごらされた……。
「今日は曇っていて月が見えませんね」
「……」
「『Half Moon』の歌詞って、あの夜のことですか?」
「……悪かったな。勝手に使わせてもらって。でも、あれは……」
「すごい想像力ですよね。あんなすてきな歌詞が書けるなんて」
和奏は、『Half Moon』の歌詞を読んだからといって、特に自分のことを意識したりはしていないようだ。そのことを少し残念に思う気持ちがないわけではなかったが、とにかくほっとした。
「丞さん、一つお願いしたいことがあるんですが、いいですか?」
「何?」
「『Half Moon』って、アコースティックギターもいいと思うんですが、ピアノのほうが合うような気がするんです。次の練習で一度キーボードで弾かせてもらえませんか?」
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます!」
「あのさ。実はおれからも頼みたいことがあるんだ」
「何ですか?」
「『Half Moon』の英語の歌詞を慎吾と日本語に翻訳したんだけど、うまくメロディに乗らなくて、今、手直ししてるんだ。ほら、大学で英文学専攻してるって言ってただろ。ちょっと手伝ってもらえないかな?」
「う~ん。翻訳はしたことがありますが、歌詞の翻訳は……」
「だめかな?」
「いいですよ。やってみます」
待ち合わせ場所は、「行きたい店がある」と言うので和奏が決めた。カフェ・シューベルトは街の中央通りにあった。
丞の向かいの席で、和奏は『Half Moon』の英語の歌詞と日本語の歌詞を見比べ、じっと考えこんでいる。窓の外の桜の木に目をやると、つぼみが膨らみ始めていた。
和奏はミルクティーをすすったあと、丞の目をまっすぐ見て言った。
「丞さん。慎吾さんが翻訳した日本語の歌詞、悪くないと思います。でも、はっきり言って、ちょっと古臭いです」
それは丞も思っていたことだ。だが、次の言葉は予想もしないものだった。
「これ、女性目線の歌詞に直してみてもいいですか?」
――女性目線の歌詞!? たしかに、「I」という言葉を「ぼく」から「わたし」に変えるだけで、音の数も変わるし、印象も変わる。考えつかなかった。けど、自分が考えつかないことなら、ファンもきっと驚くと思うし、新鮮に感じてもらえるかもしれない。
「わかった。やってみて」
「はい。でも、その前に……」
「何?」
「パフェ、頼んでもいいですか?」
丞が呆れて「ああ」と言うと、和奏はすぐに店員を呼んでチョコレートパフェを注文した。それから、驚くほどのスピードで日本語の歌詞をノートの新しいページに書き込んでいった。
三日後のバンド練習。
「この歌詞、和奏ちゃんが書いたの?」
と晴樹がノートに書かれた歌詞を見て言った。
「ああ。信じられないことに、チョコレートパフェを注文して店員がそれを運んでくるまでの間に書き終えたんだ」
さっき和奏のキーボードに合わせて、丞が歌ってみせたが、和奏の書いた歌詞はメロディにぴったり合っていた。そして、女性目線の歌詞に直したことで、細やかな感情が描かれた、すてきなバラードに生まれ変わっていた。
演奏を聴いて、みんな満足したようだ。だが、満足したのは歌詞だけじゃなかった。和奏のキーボードの演奏とコーラスだ。どちらも見事に曲にはまっていた。
晴樹と慎吾は「すげー! いいじゃん!」とすっかり興奮していた。だが、葵は静かだった。そして、練習を再開する前に、ぼそっと言った。
「じゃあ、あとは丞さんの手が治るのを待つだけですね」
「……」
沈黙がスタジオを包んだ。
――みんなが思っていることは手に取るようにわかる。和奏をバレットに入れたいのだ。腕も確かだし、キーボードやコーラスが加われば、音楽の幅が広がる。今よりファンが増えるかもしれない。だが、バレットは男くさいバンドだ。ファンの8割が男性で、女性にウケる曲も少ない。ただ、それがいいと言ってくれるファンも多い。バレットのファンは葵のときのように和奏を受け入れてくれるだろうか。
丞は和奏に、
「悪いな。まだ少し痛むから、その間はよろしく」
と言った。和奏は「はい」とだけ答えた。その声にいつものような明るさはなかった。
翌週のスタジオ練習に、和奏は来なかった。『Half Moon』は、晴樹が丞のアコースティックギターで弾いた。だが、間違えてばかりで練習にならず、仕方なく別の曲の練習に切り替えた。練習中、みんなの表情は曇ったままだった。
練習後、慎吾と晴樹がスタジオを出ていったあと、心配そうな顔で葵が聞いてきた。
「丞さん、まだ治んないんですか? ライブまで間に合いますか?」
「ああ、だいぶ痛みは引いてきたから、大丈夫だ。心配するな」
「そうですか。それならいいんですが……」
「何かあったのか?」
「いや、実は、和奏ねえちゃんが『もう練習には行かない』って」
「そうか……」
「引き止めないんですか?」
「本人がやめたいって言ってるなら、無理に引き止めたりしないさ」
「いいんですか? 和奏ねえちゃんはバンドに誘ってもらえるのを待ってるんですよ!」
「……」
「和奏ねえちゃんは、ピアニストになるのが夢だったんです。小さいころから必死でがんばっていました。将来、有名なピアニストになったら、海外コンクールで優勝したとき、英語でスピーチしなきゃいけないからって、英語も一生懸命勉強してて。でも、いくらがんばっても、大きなコンクールで入賞できなくて……。中学までは必死で続けたけど、あきらめたんです。それで、深く傷ついて、ずっと悩んでいて、高校や大学では友だちとバンドを組んだり、ジャズをやってみたりしてたんですが、やっぱり満足できなかったみたいで……。そのとき、両親が『少し音楽を離れてみたら』ってイギリス留学をすすめてくれたんです。留学している間もいろいろ悩んでたみたいです。けど、むこうで暮らすうちに、ようやく気持ちの整理がついて、また大好きな音楽の世界に戻って来たんです。だから、和奏ねえちゃんは決して天才なんかじゃありません。迷って悩んで努力してやっとここまで来たんです。ただ、それを周りに見せないようにしているだけで。はじめておれたちの前で弾いたときも毎晩遅くまで練習してたって、後でおばさんから聞きました。歌詞の翻訳もきっと何回も何回も繰り返し曲を聴いて考えていたんだと思います。じゃなきゃ、そんな短時間で書けませんよ!」
「あ……」
「和奏ねえちゃんは、きっとおれたちと同じようにこのバンドにかけたいって思ってるんです。でも、また自分の夢が壊れてしまうんじゃないかって不安なんです……。丞さんはどう思ってるんですか? はっきりしないのは、和奏ねえちゃんにとっても、バレットにとっても良くないですよ」
「おれは……」
言葉が続かなかった。しばらくすると、葵はため息をついて、何も言わずに帰っていった。
スタジオを出たあと、丞の足はなぜか公園へ向かった。
桜が満開だった。夕方なのに公園内は花見客であふれ、屋台も出ていてにぎやかだった。
丞は屋台でビールを買い、芝生の上に腰を下ろした。手首を痛めて以来、しばらくアルコールは飲んでいなかった。ビールを一口飲んだ。空には三日月が浮かんでいた。
ライブまであと一週間。丞の手首のケガは回復し、ギターが弾けるまでになった。『Half Moon』の演奏もなんとかこなせた。だが、みんな練習に集中できないでいた。
練習前にみんなに伝えてあった。
「きのう、和奏にメールした。今日の練習に来てくれって。今日、和奏が来たら、みんながいる前で本人の意思を確認して、正式にバレットのメンバーとして迎えるか決めたいと思う」
みんな黙ってうなずいた。だが、結局、練習が終わるまで和奏は来なかった。
スタジオを出るとき、葵が丞に言った。
「丞さん、すみませんでした。おれ、余計なことしちゃいましたね」
「気にするな。おまえは悪くない。それに、どんな経験も音楽になる」
「丞さん……。あ、ギター持ちますよ。治りかけなんだから、まだ無理しないほうがいいですよ」
「これぐらい大丈夫だ」
階段を上がろうとしたとき、上の階からコツコツと靴音が聞こえた。帽子をかぶった和奏が階段の途中で足を止めた。
外は曇り空で今にも雨が降り出しそうな天気だった。
丞は和奏に言った。
「どこかコーヒーでも飲みに行こうか」
「ううん、ここでいいです。謝りに来ただけですから」
練習に遅れたというわけではないのは、服装を見てもわかった。髪も下ろしたままだ。
「ごめんなさい。わたしが中途半端にバンドにかかわったばかりに、かえってみんなに迷惑かけてしまって」
「そんなことないさ」
「もう大丈夫ですよね。手も治ったみたいだし……」
「……」
「さよなら」
和奏は帽子を目深にかぶりなおし、背を向けて歩き出した。だが、そのとき、和奏が向こうから来た自転車を避けようとして、段差につまずいた。そして、バランスを崩し、そのまま車道に倒れてしまった。そこへトラックが猛スピードで走ってきた。
丞が駆け出す。
パッパー! トラックのクラクションが鳴った。
はっとした和奏が起き上がろうとする。
「あぶない!」
キキーッ!! ブレーキの音が響く。
飛びついた丞の両腕が和奏の肩をつかんだ。
バン! トラックが何かにぶつかる音がした。トラックが止まり、窓から中年の運転手が顔を出した。
「バカヤロー! 気をつけろ!」
そう叫ぶと、そのまま走り去っていった。
丞は和奏を抱え込むようにして道路に倒れていた。慎吾たちが駆け寄ってきた。
「丞! 和奏ちゃん! 大丈夫か!?」
「ああ」
「よかったあ。……けど、丞さん、ギターが……」
と晴樹が後ろの方を指さした。
道路の端にギターとふたの開いたギターケースが転がっていた。和奏を助けようとしたとき、とっさにギターケースを放り投げてしまった。さっきの音はトラックがギターケースにぶつかる音だった。ケースのロックが外れ、中からギターが飛び出していた。
丞は立ち上がり、ギターのそばまで行った。ネックが曲がり、弦も数本切れていた。ボディーには真新しい傷が何本もついていた。丞は深く目を閉じた。
痛々しい姿のギターをそっとケースに収め、みんなのところへ戻ると、和奏は目をうるませていた。
「ごめんなさい。わたしのせいで大切なギターが……」
「気にするな。修理すればいいだけだ。それより、ケガしてないか?」
「はい、平気です。でも……」
「よかった。指でもケガしたら、来週のライブに間に合わなくなるからな」
和奏の目から涙がこぼれた。
「ほんとに……ほんとにわたしでいいんですか?」
「ああ、バレットにはおまえが必要なんだ」
丞がそう言うと、ほかのメンバーも続いた。
「歓迎するよ」
「行けるとこまでいっしょに行こうぜ!」
「よろしくね。和奏ねえちゃん」
和奏はあふれる涙を手でぬぐい、大きくうなずいた。
こうして、バレットに和奏が加わった。
丞は信じることにした。バレットのメンバーとファンを、そして、自分自身を。いろいろなものを抱えて上っていく、それだけの強さがこのバンドにはある。いや、まだ十分あるとは言えない。だが、そうありたい。和奏が加わり五人になったバレットは、きっと今より強くなれる。
単独ライブ当日。いよいよ新生バレットの幕が明ける。
開始直前、ステージ袖でいつもののように丸くなってメンバー同士で声をかけ合う。
「今夜のライブ、強気で行きましょう!」
「葵もずいぶん言うようになったなあ。晴樹も負けるなよ!」
「もちろん。そういう慎吾さんこそ、実は一番びびってるんじゃないですか?」
「うるせー! 一曲目のイントロ、間違えるなよ!」
「任せてください! 丞さん、歌詞、ちゃんと覚えましたか?」
「おう! 日本語も英語もばっちりだ。和奏も気合入れてけよ!」
「はい!」
「よし、いくぞー!」
「おおー!」
会場は超満員。前列のあたりは昔からのファンがほとんどだが、はじめて聴きに来てくれた客も多いようだ。やはりノースバウンドのライブに出演した影響が大きい。
ライブが始まると、一曲目から観客は総立ちで、会場は熱気と興奮に包まれた。
三曲目が終わり、MCで丞が和奏を紹介した。和奏が丁寧におじぎをすると、会場からは温かい拍手が送られた。
四曲目。ステージのライトが暗くなり、和奏が『Half Moon』を弾き始めると、観客席がざわついた。
丞が語りかけるように歌い出す
慎吾のベースが心臓の鼓動に重なり
葵のドラムが力強く物語を進めていく
晴樹のギターが哀しげに鳴いた
丞のまっすぐな想いをのせた歌声は
和奏の月明かりのようなコーラスに照らされ
切なさをつれて聴衆の胸を震わせた
全十曲を歌い、最後のアンコール曲は「Good
Luck!」をカバーして歌った。
「Thank you ! 」と叫び、手を振りながらステージを降りた丞は、鳴り止まない拍手の音にこのバンドの未来を感じた。
楽屋までの通路。前を歩く和奏の背中で結んだ髪が揺れている。和奏があの店に行きたがった理由を丞は知っている。あの店のパフェはアイスの上に半円形のホワイトチョコレートがのっている。そう。それがまるでHalf moonのように見えるのだ。
またあの店に行こう。甘いものは苦手だが、和奏となら食べてみるのも悪くないかと丞は思った。
(完)
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