Sunday, February 5, 2023

赤い橋★★★★★

それは夏に起きたことなのに、冬になると思い出す。その(いっ)(しゅん)()()(ごと)(わす)れることができずに、ぼくはまた後ろを()(かえ)る。

 

あのとき、ぼくは大学2年生で、夏休みに田舎(いなか)帰省(きせい)すると、母はかわいい息子(むすこ)のためにせっせと世話(せわ)()いてくれた。そのおかげで、ぼくは毎日のんびりと()ごすことができた。いつ寝てもいいし、いつ起きてもいい。本や映画で時間をつぶし、気が()けば、近所(きんじょ)友人(ゆうじん)(さそ)って、海や山へドライブに出かけた。ようするに、イソップ寓話(ぐうわ)のキリギリスみたいな日々(ひび)(おく)っていた。

 ある()し暑い夜のことだ。夕食の後、風呂(ふろ)に入り、くだらないテレビ番組(ばんぐみ)を見てから、(とこ)()いた。

()(なか)()()(ごえ)で目が()めた。(あみ)()(すき)()から入ってきたのだろうか。仕方(しかた)なく、電気をつけて退治(たいじ)した。

(てのひら)には、つぶれた()()(あと)(のこ)った。()されたと思って(たし)かめたが、どこも()されていなかった。自分のならともかく、他人(たにん)()というのは気味(きみ)(わる)い……。ティッシュで()きとり、電気を()して、また(よこ)になった。

長い昼寝(ひるね)をしたせいか、風呂(ふろ)()がりにビールを飲んだせいか、それとも、()(のろ)いのせいか……とにかく(ねむ)れない。

ベッドから起き上がり、電気をつけた。時計は2時を(まわ)ったところだった。

(あせ)湿(しめ)ったTシャツを()()え、(だい)(どころ)に行って石鹸(せっけん)で手を(あら)った。それからコップに水をくんで()()すと、遠くからカエルの()(ごえ)が聞こえてきた。(まど)をのぞくと、(がい)(とう)()かりが(かがや)いていた。ぼくは、その(ひかり)()()せられ、(むし)のようにふらふらと玄関(げんかん)()かい、ドアを開けた。

あたりの家々(いえいえ)、もちろんどこも(くら)かった。近所(きんじょ)にはコンビニはおろか、自動(じどう)販売機(はんばいき)さえない。外に出てみたものの、どこも行く()てなどなかった。——そうだ。子どもの(ころ)によく遊んだ公園がある。あそこに行ってみよう。もしかしたらカブトムシが()れるかもしれない。ぼくは少年(しょうねん)のようにワクワクしながら()()(なか)(さん)()開始(かいし)した。

カエルの声と、ペタッ、ペタッというサンダルの音しか聞こえない。けれど、それは公園が近づくにつれて、川の(なが)れる音にかき()された。公園の手前(てまえ)には細い道がある。その道を左へまっすぐ行くと、(はし)につながる。その(てつ)(はし)は、子どもたちの間では「赤い(はし)」と()ばれていた。けど、今ではすっかり色あせ、()びだらけで、赤というより茶色(ちゃいろ)に近かった。

公園が見えた。手前(てまえ)の道を(わた)ろうとしたとき、(はし)の上にひとりの女性(じょせい)がいるのが目に入った。じっと川を見つめている。三十(さい)くらいで、(かみ)が長く、グレーのコートを着ていた。——こんな時間に何をやっているんだ? と思ったが、それは自分も同じだった。気にせず公園に行こうと目をそらした。けど、(つぎ)瞬間(しゅんかん)ぼくは奇妙(きみょう)なこと気づき、はっとした。

 

グレーのコート……コート? 夏なのに⁉

   

(おそ)(おそ)(はし)の方を()()くと、女性(じょせい)姿(すがた)()えていた……。心臓(しんぞう)がバクバクと音を立てる。長い(はし)の真ん中には(かく)れる場所などどこにもない。もしどこかへ走って行ったのなら、絶対(ぜったい)に気づいたはずだ。川に()()んだか、それとも、ただの()間違(まちが)いか、どちらかしか考えられない。しかし、そのどちらも正しいとは思えなかった。

 

——幽霊(ゆうれい)

 

「う、(うそ)だろ……」背筋(せすじ)がぶるっと(ふる)えた。(はし)の真ん中まで行って、何が起こったか(たし)かめる(ゆう)()などなかった。「()げろ!」とぼくの中の何かが(さけ)んだ。(ぜん)(そく)(りょく)で家に()かって()け出した。()(ちゅう)、サンダルが()げて、(ころ)びそうになった。家に着くや(いな)や、部屋に()()み、()(とん)をかぶって(まる)くなった。身体(からだ)はまだ恐怖(きょうふ)でガクガク(ふる)えていた。

10時ごろになって、ようやく目が()めた。()(がい)とぐっすり(ねむ)れたので、夜中(よなか)に起きたことはすべて(ゆめ)のように思えた。けど、立ち上がると足の小指(こゆび)がずきっと(いた)んだ。そういえば、サンダルが()げたとき、(いし)につまずいた……ということは、やはり現実(げんじつ)だったわけか……

(せん)(めん)(じょ)で顔を(あら)ったが、(ゆう)(うつ)な気分は()れなかった。台所でトーストを()いていると、母が洗濯物(せんたくもの)()し終えて、お茶を飲みにやってきた。ふと、ぼくは母にこの話をしてみようと思った。きっと「馬鹿(ばか)なこと言わないでよ。そんなことあるわけないでしょ!」と一緒(いっしょ)(わら)ってくれるにちがいない。

「あのさ、()(なか)に……」

とトーストにバターを()りながら、話を切り出した。

ところが、()(ちゅう)から聞いていた母の顔が青ざめていった。そして、話が終わると、母は(だま)って(ちゃ)(わん)をテーブル()いた。

「あのね。……去年(きょねん)の冬、あの川の上流(じょうりゅう)で女の人が()くなったのよ。事故(じこ)なのか、自殺(じさつ)なのか、わからないみたい……」

「えっ」

かじりかけのトーストが左手から(すべ)()ちた、と同時(どうじ)に、全身(ぜんしん)(こお)ったように冷たくなった。

 

 図書館へ行って、それについて書かれた新聞(しんぶん)記事(きじ)(さが)そうかと思ったが、そんなことをしても何も()わらない……。結局(けっきょく)、本にも映画にも集中(しゅうちゅう)できないまま、夕方、ぶらぶらと(にわ)に出た。

(みち)沿()いにひまわりが()えられていた。母の好きな花だ。夕日(ゆうひ)()びたひまわりはどこか(かな)しげに見えた。自殺(じさつ)ではないにしても、彼女は、いったいどんな気持ちで、暗く冷たい冬の川へ()かったのだろうか。生きることを(むずか)しく考えず、このひまわりのように、ただまっすぐに生きることはできなかったのだろうか。キリギリスのぼくには分からない……

じっとひまわりを(なが)めているうちに、あることを思いついた。家からハサミを取って来て、一番きれいに()いているひまわりの前に立った。——母さんには後で(あやま)ろう。

 ひまわりを手に歩いていく。(ゆう)()(はし)をオレンジ色に()めていた。ぼくは(はし)真ん中まで行くと、川にひまわりを()げ入れた。それから、手を()わせ、彼女のために(いの)った。

 

どうか彼女が、この()とあの()をつなぐ(はし)(わた)()れますように……

 

そうやってぼくは大人の階段(かいだん)を一つ(のぼ)り、やがてキリギリスを卒業(そつぎょう)し、立派(りっぱ)な働きアリに成長(せいちょう)した。

寒い冬でも仕事に出かける。すると、ときどきグレーのコートを着た長い(かみ)女性(じょせい)とすれ(ちが)う。思わず足を止めて、ぱっと()()くと、彼女はちゃんとそこにいる。ぼくはほっと(むね)をなでおろす。けれど、もし、いなくなっていたら……と想像(そうぞう)すると、また背筋(せすじ)(こお)ったように冷たくなる。そして、ぼくはあの夜の赤い橋を思い出すのだ。

 

Sunday, January 15, 2023

走れメロス★★★★★

 はしれメロス [約]かんやく 

原作(げんさく)太宰(だざい)(おさむ)

 

 メロスは(おこ)らずにはいられなかった。絶対(ぜったい)に、人々を(くる)しめる(おう)をそのままにしてはおけぬ、と決意(けつい)した。メロスには(せい)()などわからない。メロスは、(ひつじ)()いである。(むら)でのんびり(ひつじ)(あそ)んで()らしてきた。けれども、(あく)(たい)しては、だれよりも敏感(びんかん)だった。

今朝早いうちにメロスは(むら)出発(しゅっぱつ)し、()()え、山を()え、(じゅう)()(やく)40km)も(はな)れたシラクスの町へやって来た。メロスには、父も母もいない。独身(どくしん)で、十六(さい)(うち)()な妹と二人で()らしている。この妹は、(むら)のまじめな青年(せいねん)と、近々(ちかぢか)結婚(けっこん)することになっていた。メロスは、その結婚式(けっこんしき)で使う(はな)(よめ)()(しょう)やらパーティーのご()(そう)やらを買いに、わざわざ(とお)(はな)れたこの町までやって来たのだ。それで、まず、その品々(しなじな)を買い(あつ)め、それから大通(おおどお)りをぶらぶら(ある)いた。

メロスには親友(しんゆう)がいた。セリヌンティウスである。今はこのシラクスの町で、石工(せっこう)の仕事をしている。その(とも)を、これから(たず)ねてみるつもりなのだ。長い間会っていなかったので、(たず)ねて行くのが楽しみだ。

だが、(ある)いているうちにメロスは、町の様子(ようす)がおかしいと思った。もうすでに日も()ちて、(くら)いのは()たり(まえ)だが、なんだか(しず)かで、町全体(ぜんたい)がずいぶん(さび)しい(かん)じがした。呑気(のんき)なメロスも、だんだん()(あん)になってきた。そこで、道を(ある)いていた若者(わかもの)をつかまえて、

「何かあったのか。二年前に、ここに来たときは、町はもっとにぎやかで、夜でもみんな(うた)(うた)っていたはずだが」と質問(しつもん)した。

けれど、若者(わかもの)は、(くび)()って(こた)えなかった。

しばらく(ある)いていくと、一人の老人(ろうじん)に会った。(こん)()はもっと強い口調(くちょう)質問(しつもん)したが、(かれ)(こた)えなかった。メロスは老人(ろうじん)の体を両手(りょうて)でゆすり、(しつ)(もん)()(かえ)した。すると、(かれ)は、まわりを気にしながら、(ひく)(こえ)でそっと(こた)えた。

(おう)(さま)は、人を(ころ)します」

「なぜ(ころ)すのだ」

「『悪心(あくしん)(いだ)いている』と言うのですが、だれもそんな悪心(あくしん)を持っておりません」

「たくさんの人を(ころ)したのか」

「はい、はじめは(おう)(さま)の妹のご(しゅ)(じん)さまを(ころ)しました。それから、ご()(しん)のお子さんを。それから、妹さまを。それから、妹さまのお子さまを。それから、(おく)さまを。それから、家来(けらい)のアレキス(さま)を……」

(おどろ)いた。(こく)(おう)は気が(くる)ったのか」

「いいえ、そうではございません。(おう)は『人を(しん)じることなどできぬ』と言うのです。このごろは、家来(けらい)の心さえお(うたが)いなり、少し派手(はで)生活(せいかつ)をしている(もの)には、人質(ひとじち)をひとりずつ()し出すことを(めい)じております。そして、そのご(めい)(れい)(さか)らえば、(じゅう)()()(はりつけ)にされ、(ころ)されます。きょうは、六人(ころ)されました」

 それを聞いて、メロスは(おこ)った。

「なんとひどい(おう)だ。()かしておけぬ!」

 メロスは、単純(たんじゅん)な男だった。買い物を背負(せお)ったまま、のんびりと(おう)(しろ)へと入って行った。だが、すぐに(しろ)(まも)(けい)()(つか)まった。調(しら)べられて、メロスの(ふところ)から短刀(たんとう)が出てきたので、(さわ)ぎが大きくなってしまった。メロスは、ディオニス(おう)の前に引き出された。ディオニス(おう)(しず)かに、()()いた(こえ)で言った。

「この短刀(たんとう)で何をするつもりだったか。言え!」

見ると、(おう)(かお)(あお)(じろ)く、(まゆ)の間には(きざ)()まれたように(ふか)(しわ)があった。

「人々を(くる)しめる(おう)の手から、この町を(すく)おうとしたのだ」とメロスは(こた)えた。

「おまえがか? ふふ、()(かた)のない(やつ)だ。おまえには、わしの(かんが)えていることなど()(かい)できぬ」

「何だと! 人の心を(うたが)うのは、(もっと)()ずかしいことだ。あなたは、この町の人々さえ(しん)じられないのか」

「自分を(まも)るために、(うたが)って何が(わる)い。それが(ただ)しいことだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心を(しん)じてはならぬ。人間(にんげん)は生まれた時からわがままなものさ。わしだって、本当は平和(へいわ)(のぞ)んでいるのだが」

「ははは、何のための(へい)()だ。自分の()()(まも)るためか。(つみ)のない人を(ころ)して、何が(へい)()だ!」

「だまれ、おまえのような(もの)に何がわかる! 口では、どんなきれい(ごと)も言える。だが、人はみな心の奥底(おくそこ)悪心(あくしん)(いだ)いているのだ。どうせ、おまえも十字架(じゅうじか)(はりつけ)になって(ころ)されそうになれば、()いて(あやま)るにちがいない」

「ああ、あなたは()(こう)だ。そうやって何でもわかったつもりでいればいい。私は、ちゃんと()ぬる。(たす)けてくれ、とは(けっ)して口にしない。ただ、――」

と言いかけて、メロスは下を()いて、(いっ)(しゅん)(まよ)ったが、

「ただ、私に(なさ)けをかけてくれるなら、()(けい)までに時間を(あた)えてくれませんか。たった一人の妹の結婚式(けっこんしき)()げてやりたいのです。三日のうちに、私は村で結婚式(けっこんしき)()げさせ、(かなら)ず、ここへ帰って来ます」

「ははは、馬鹿(ばか)なことを言うな。とんでもない(うそ)を言うじゃないか。()がした()(とり)が帰って来るとでも言うのか」

「そうです。きっと帰って来ます。私は約束(やくそく)(まも)ります。私を、三日間だけ(ゆる)してください。妹が、私の帰りを待っているのです。そんなに私を(しん)じられないのならば、この町にセリヌンティウスという石工(せっこう)がいます。私の一番の友だ。(かれ)を、人質(ひとじち)としてここに()いて行きます。三日目の日暮(ひぐ)れまでに、私がここに帰って来なかったら、その友を(ころ)してください。(たの)みます、そうしてください」

 それを聞いて(おう)は、にやっと(わら)った。(なま)()()なことを言う(やつ)だ。どうせ帰って来ないにきまっている。この(うそ)つきにだまされたふりをして、(はな)してやるのもいいだろう。そして、人質(ひとじち)の男を、三日目に(ころ)してやるのも、おもしろい。わしは、「これだから、人は(しん)じられぬ」と、みんなの前で(かな)しい(かお)して、その男を(ころ)すのだ。ああ、()(なか)(しょう)(じき)(もの)という(やつ)らにぜひ見せてやりたいものだ。

「いいだろう。その男を()べ。三日目の日が(しず)むまでに帰って来るんだな。(おく)れたら、その人質(ひとじち)を、きっと(ころ)すぞ。ちょっと(おく)れて来るがいい。おまえの(つみ)は、永遠(えいえん)(ゆる)してやる」

「な、何をおっしゃる」

「はは。(いのち)大事(だいじ)だったら、(おく)れて来い。おまえの本心(ほんしん)は、わかっているぞ」

 メロスは(くや)しくて、(こぶし)をぎゅっと(にぎ)りしめた。何も言いたくなくなった。

 親友(しんゆう)のセリヌンティウスは、(しん)()、お(しろ)にやってきた。そうして、(おう)の目の前でふたりは、二年ぶりに会うことができたのだった。メロスは、友にこれまでの()(じょう)をすべて(かた)った。セリヌンティウスは(だま)ってうなずき、メロスをひしと()きしめた。ふたりには、それで十分(じゅうぶん)だった。セリヌンティウスは、(なわ)(しば)られた。メロスは、すぐに出発(しゅっぱつ)した。(なつ)(はじ)め、()(ぞら)(ほし)でいっぱいだった。

 

メロスは、夜も()ないで(じゅう)()の道を(はし)(つづ)けた。村へ到着(とうちゃく)したのは、()くる日の午前だった。日はすでに高く(のぼ)っており、村人(むらびと)たちは()に出て仕事を(はじ)めていた。メロスの十六の妹も、きょうは兄の()わりに(ひつじ)世話(せわ)をしていた。(いもうと)は、(つか)()った兄の姿(すがた)を見つけて(おどろ)いた。そして、うるさく兄に質問(しつもん)した。だが、「何でもないさ」とメロスは無理(むり)(わら)った。

「町に(よう)()(のこ)して来た。またすぐ行かなければならない。明日、おまえの結婚式(けっこんしき)()げる。早いほうがいいだろう?」

 妹は(ほお)(あか)らめた。

「うれしいか。きれいな()(しょう)も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに()らせて来い。結婚式(けっこんしき)は、明日だと」

 メロスは、また、よろよろと(ある)き出し、家へ帰って(けっ)(こん)(しき)(じゅん)()をすると、まもなく(ゆか)(たお)れて、(ふか)(ねむ)りに()ちてしまった。

 目が()めたのは夜だった。メロスは起きてすぐ、花婿(はなむこ)の家を(おとず)れた。そして、(はな)婿(むこ)になる(せい)(ねん)に、

「少し()(じょう)があるから、結婚式(けっこんしき)を明日にしてくれ」と(たの)んだ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。こちらはまだ何も()(たく)ができていない。もう少し待ってくれないか」

「待つことはできぬ。どうか明日にしてくれ」

しかし、彼もなかなか、わかった、とは言ってくれない。()()けまで()(ろん)(つづ)けて、やっと、どうにか説得(せっとく)することができた。

結婚式(けっこんしき)は、真昼(まひる)(おこな)われた。(しき)途中(とちゅう)から、黒い(くも)で空は(おお)われ、ぽつりぽつりと雨が()り出し、やがて(はげ)しい雨となった。パーティーに出席(しゅっせき)していた村人(むらびと)たちは、どこか(くら)い気持ちになったが、みんな()り上げようと、(せま)い家の中で()(あつ)さに()え、(よう)()(うた)(うた)い、手を(たた)いた。メロスも、ともに(よろこ)びを(あじ)わい、しばらくは(おう)(さま)との(やく)(そく)さえ(わす)れていた。

パーティーは、夜になると、いよいよ()り上がって、人々は外の大雨(おおあめ)など(まった)く気にしなくなった。メロスは、一生(いっしょう)このままここにいたい、と思った。この人たちと()ぬまで()らして行きたいと(ねが)った。だが、今は、この身体(からだ)は自分だけのものではない。どうにもならないことである。メロスは、やはりここにはいることはできぬ、と思い(なお)し、ついに出発(しゅっぱつ)決意(けつい)した。

明日の日暮(ひぐ)れまでには、まだ十分(じゅうぶん)な時間がある。ちょっと一眠(ひとねむ)りして、それからすぐに(しゅっ)(ぱつ)しよう、と(かんが)えた。その(ころ)には、雨も小降(こぶ)りになっているだろう。少しでも長い時間この家にとどまっていたかった。メロスのような男にも、やはり(あきら)めがたいものがある。(しあわ)せいっぱいの(はな)(よめ)(ちか)()ると、

「おめでとう。私は(つか)れてしまったから、もう失礼(しつれい)して、(ねむ)りたい。目が()めたら、すぐに町に出かける。大切な用事(ようじ)があるのだ。私がいなくても、もうおまえには(やさ)しい(おっと)がいるのだから、(けっ)して(さび)しいことはない。おまえの兄の一番(きら)いなものは、人を(うたが)うことと、それから、(うそ)をつくことだ。おまえも、それは、()っているね。(おっと)との間に、どんな()(みつ)でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん(えら)い男なのだから、おまえもその(ほこ)りを持っていろ」

 妹は、(ゆめ)でも見ているかのよう表情(ひょうじょう)でうなずいた。メロスは、それから花婿(はなむこ)(かた)(たた)いて、

(けっ)(こん)()(たく)ができなかったのは、お(たが)いさまだ。私の家にも、(たから)と言ったら、妹と(ひつじ)しかない。(ほか)には、何もない。(ぜん)()あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを(ほこ)りに思ってくれ」

 花婿(はなむこ)()ずかしそうにうなずいた。メロスは(わら)って(むら)(びと)たちにも(あたま)()げ、その()を立ち()った。それから、(ひつじ)()()にこっそり(もぐ)()んで、()んだように(ふか)(ねむ)った。

 

 目が()めたのは、日が(のぼ)り、明るくなりかけた(ころ)である。メロスは()び起きた。しまった、寝過(ねす)ごしたか! いや、まだ大丈夫。これからすぐ出発(しゅっぱつ)すれば、約束(やくそく)時刻(じこく)までには十分(じゅうぶん)()()う。きょうこそ、あの(おう)に、人の信実(しんじつ)というものを見せてやろう。そして、(わら)って(はりつけ)(だい)(のぼ)ってやる。メロスは、(あわ)てることなく()(たく)(はじ)めた。雨も、少し小降(こぶ)りになっている様子(ようす)である。出かける仕度(したく)はできた。メロスは、ぶるんと両腕(りょううで)を大きく()って、雨の中、()のように(はし)()た。

 私は、今夜、(ころ)される。(ころ)されるために(はし)るのだ。友を(すく)うために(はし)るのだ。(おう)の、ずる(がしこ)()がった心を()(やぶ)るために(はし)るのだ。(はし)らなければならぬ。そうして、私は(ころ)される。(わか)い時から(めい)()(まも)れ。さようなら、ふるさと。

(わか)いメロスは、つらかった。何度か立ち()まりそうになった。「えい、えい」と大声(おおごえ)を上げて自分自身(じしん)(しか)りながら(はし)った。村を出て、()(よこ)()り、森を()け、(となり)の村に()いた(ころ)には、雨も()み、日は高く(のぼ)って、そろそろ(あつ)くなってきた。メロスは(ひたい)(あせ)(こぶし)(はら)い、ここまで来れば大丈夫、もうあの村でやるべきことは何もない、と思った。妹たちは、きっと良い夫婦(ふうふ)になるだろう。私には、今、何の(まよ)いもないはずだ。まっすぐにお(しろ)に行き()けば、それでよいのだ。そんなに(いそ)(ひつ)(よう)もない。ゆっくり(ある)こう、といつもの(のん)()なメロスに(もど)り、好きな()(うた)をいい(こえ)(うた)い出した。

ぶらぶら(ある)いて二里(にり)行き三里(さんり)行き、そろそろ五里(ごり)になる(ころ)突然(とつぜん)災難(さいなん)に、メロスの足は()まった。見よ、目の前の川を。

きのうの大雨(おおあめ)で、山の(ほう)では大量(たいりょう)の水が川にあふれ、その(ちゃ)(いろ)(にご)った水が()まることなく()(りゅう)(あつ)まり、ものすごい(いきお)いで(なが)()んで来て、(はし)粉々(こなごな)(こわ)してしまったのだ。(かれ)予想外(よそうがい)出来事(できごと)(かた)まってしまった。あちこち(なが)めまわし、大声(おおごえ)()んでみたが、(つな)いであった(ふね)(のこ)らず(なみ)(なが)されて、(ふね)(わた)す人の姿(すがた)も見えない。

(なが)れは、ますます大きくなり、まるで海のようになっている。メロスは川岸(かわぎし)(ひざ)をついて、()きながら、手を上げて(かみ)(いの)った。

「ああ、ゼウス(さま)。この()(くる)う川の(なが)れを(しず)めてください! 太陽(たいよう)はすでに真上(まうえ)まで来ています。あれが(しず)まぬうちに、お(しろ)まで行き()くことができなかったら、友が、私のために()ぬのです!」

 メロスの(さけ)びを、あざ(わら)うかのように、川の(なが)れはますます(はげ)しくなる。(なみ)()れに()れ、(とき)刻々(こっこく)()ぎていく。

こうなったら、(およ)()るしかない。ああ、神々(かみがみ)よ、ご(らん)ください! 何にも()けない(あい)(しん)(じつ)(ちから)を。

メロスは、ざぶんと川に()()み、(ひっ)()(およ)いだ。(ぜん)(しん)(ちから)(うで)()めて、「()けてたまるか!」と、(あば)れる(なみ)()きわけ()きわけ、(すす)んで行った。(かみ)は、そんなメロスを見て、かわいそうだと思ったのか、ついに(なさ)けをかけてくれた。()(なが)されつつも、()(ごと)()かい(ぎし)の木の(みき)に、しがみつくことができたのである。

ありがたい。メロスは(うま)のようにぶるんと大きく体を(ふる)わせ、水を(はら)()ばすと、すぐにまた(さき)(いそ)いだ。少しの時間も無駄(むだ)にはできない。日はすでに西(にし)(かたむ)きかけている。

ぜいぜい(あら)()(きゅう)をしながら(やま)(みち)(のぼ)頂上(ちょうじょう)でほっとした瞬間(しゅんかん)突然(とつぜん)、目の前に四人の山賊(さんぞく)(あらわ)れた。

「待て!」

「何をするのだ。私は日が(しず)むまでに、お(しろ)へ行かなければならないのだ。(はな)せ!」

「そうはいかない。持ち物を全部(ぜんぶ)()いて行け」

「私には(いのち)(ほか)には何もない。その、たった一つの(いのち)も、これから(おう)にくれてやるのだ」

「その、(いのち)がほしいのだ」

「そうか。おまえたちは(おう)命令(めいれい)で、ここで(かく)れて、私を待っていたのだな」

 山賊(さんぞく)たちは、何も言わずに、いっせいに持っていた棍棒(こんぼう)()り上げ、メロスに(おそ)いかかった。メロスはひょいと体を()()げ、(ちか)くにいた一人に()びかかると、その(こん)(ぼう)(うば)()り、「()(どく)だが(せい)()のためだ!」と一撃(いちげき)をくわえた。そして、あっという()に三人を(なぐ)(たお)すと、(のこ)った一人はもう()かって来なかった。メロスは、それにはかまわず、さっさと山を(くだ)った。

(いっ)()に山を()()りたが、やはり(つか)れてきた。ちょうどその(ころ)から、午後の太陽(たいよう)がまぶしいほどに()ってきた。(あつ)さでメロスは何度もめまいを(かん)じた。だめだ、だめだ、と気を()(なお)しては、よろよろ二、三()(ある)いたが、ついに、がくりと(ひざ)()った。立ち上がることができないのだ。メロスは(くや)しさのあまり、(そら)()かって()き出した。

ああ、()れた川を(およ)()り、(さん)(ぞく)を三人も()(たお)し、(いそ)ぎに(いそ)いで、ここまで突破(とっぱ)して来たメロスよ。(しん)勇者(ゆうしゃ)、メロスよ。今、ここで、(つか)()って(うご)けなくなるとは(なさ)けない。(あい)する友は、おまえを(しん)じたばかりに、やがて(ころ)される。おまえは信用(しんよう)できない人間(にんげん)か、それでは(おう)の思っていたとおりになるぞ、と自分を(しか)ってみるのだが、ほんの少しの(ちから)も入らず、もう一歩(いっぽ)(ある)けない。道端(みちばた)草原(そうげん)に、ごろりと()(ころ)がった。体が(よわ)れば、心も(よわ)る。もうどうでもいい、という(ゆう)(しゃ)には()()()いな気持ちが生まれた。

 

私は、これほど()(りょく)したのだ。

約束(やくそく)(やぶ)る心は、ほんの少しもなかった。

(かみ)()っているはずだ。

私はできるだけのことをしてきた。

(うご)けなくなるまで(はし)ってきたのだ、(あい)信実(しんじつ)のために。

けれども私は、この(だい)()な時に、心が()れた。

私は、本当に()(こう)な男だ。

私は、きっと(わら)われる。

私の一家(いっか)(わら)われる。

私は友を(うら)()った。

()(ちゅう)(たお)れるのは、はじめから何もしないのと同じことだ。

ああ、もう、どうでもいい。

これが、私の(うん)(めい)なのかもしれない。

セリヌンティウスよ、(ゆる)してくれ。

(きみ)は、いつでも私のことを(しん)じてくれた。

私も(きみ)を、(うら)()らなかった。

私たちは、本当に良い友だちだった。

一度だってお(たが)(うたが)ったことなどなかった。

今だって、(きみ)は私を(しん)じて待ってくれているだろう。

きっと、待っているだろう。

ありがとう、セリヌンティウス。

よくも私を(しん)じてくれた。

それを思えば、たまらない。

友と友との間の信実(しんじつ)は、この()で一番(ほこ)るべき(たから)なのだからな。

セリヌンティウス、私は(はし)ったのだ。

(きみ)をだますつもりは、少しもなかった。

(しん)じてくれ! 

私は(いそ)ぎに(いそ)いでここまで来たのだ。

簡単(かんたん)なことではなかった。

私だから、できたのだよ。

ああ、これ()(じょう)、私に何を(のぞ)むというのだ。

(ほう)っておいてくれ。

どうでも、いいのだ。

私は()けたのだ。

だらしがない。

(わら)ってくれ。

(おう)は私に、ちょっと(おく)れて来い、と言った。

(おく)れたら、(ひと)(じち)(ころ)して、私を(たす)けてくれると(やく)(そく)した。

私は、なんとひどいことを言うのだと(くや)しがった。

けれども、今になってみると、私は(おう)の言ったとおりになっている。

私は、(おく)れて行くだろう。

(おう)は、やはり(おく)れて来たか、と私を(わら)い、そうして何事(なにごと)もなく私を(ゆる)すだろう。

そうなったら、私は、()ぬよりつらい。

私は、(えい)(えん)(うら)()(もの)だ。

この()(もっと)()ずかしいことだ。

セリヌンティウスよ、私も()ぬぞ。

(きみ)一緒(いっしょ)()なせてくれ。

(きみ)だけは私を(しん)じてくれるに(ちが)いない。

いや、それも私の、わがままなのか? 

ああ、それなら、もう悪者(わるもの)として生きのびてやろうか。

村には私の家がある。

(ひつじ)もいる。

夫婦(ふうふ)は、まさか私を村から()い出すようなことはしないだろう。

正義(せいぎ)だの、信実(しんじつ)だの、(あい)だの、(かんが)えてみれば、くだらない。

人を(ころ)して自分が生きる。

それが人間(にんげん)世界(せかい)のあり(かた)ではないのか。

ああ、何もかも、ばかばかしい。

そうさ、私は、(うら)()(もの)だ。

勝手(かって)にするがいい。

もうおしまいだ。

――メロスは手足を()げ出し、うとうと(ねむ)ってしまった。

 

ふと耳に、さらさらと水の(なが)れる音が聞こえた。そっと(あたま)を上げて、(いき)を止め、耳をすました。すぐ足もとで、水が(なが)れているらしい。よろよろ()き上がって、見ると、(いわ)の間から、何かささやきながら、きれいな水が()き出ているのである。メロスはその水を(りょう)()ですくって、一口飲んだ。ほうと長いため(いき)が出て、(ゆめ)から()めたような気がした。(ある)ける。行こう。体の(つか)れが取れると、わずかながら()(ぼう)が生まれた。(さい)()までやりぬく()(ぼう)だ。わが()(ころ)して(めい)()(まも)()(ぼう)だ。

(ゆう)()木々(きぎ)()らし、()(えだ)()えるように赤く(かがや)いている。日が(しず)むまでには、まだ時間がある。私を、待っている人がいるのだ。少しも(うたが)わず、(しず)かに()(たい)してくれている人がいるのだ。私は、(しん)じられている。私の(いのち)など、問題ではない。()んで(あやま)ればいい、などと勝手(かって)なことを言ってはいけない。私は、信頼(しんらい)(こた)えなければならないのだ。今はただ、それだけだ。(はし)れ! メロス。



 

 私は信頼(しんらい)されている。私は信頼(しんらい)されている。

さっき(あきら)めようと思ったのは、あれは(ゆめ)だ。(わる)(ゆめ)だ。

(わす)れてしまえ。

体が(つか)れているときは、ふとあんな(わる)(ゆめ)を見るものだ。

メロス、おまえの(はじ)ではない。

やはり、おまえは(しん)勇者(ゆうしゃ)だ。

(ふたた)び立って(はし)れるようになったではないか。

ありがたい! 私は、正義(せいぎ)(むね)()ぬことができるぞ。

ああ、日が(しず)む。ずんずん(しず)む。

待ってくれ、ゼウスよ。

私は生まれた時から正直(しょうじき)な男であった。

正直(しょうじき)な男のままで()なせてください。

 

 道行く人を()しのけて、メロスは黒い(かぜ)のように(はし)った。野原(のはら)宴会(えんかい)をしている(せき)()ん中を()()け、(さけ)を飲んでいる人々を(おどろ)かせた。犬を()とばし、()(がわ)()()え、少しずつ(しず)んでいく(たい)(よう)の、十(ばい)も早く(はし)った。旅人(たびびと)集団(しゅうだん)とさっとすれちがった瞬間(しゅんかん)(いや)な会話が聞こえた。

今頃(いまごろ)は、あの男も、十字架(じゅうじか)(はりつけ)になっているよ」

ああ、その男、その男のために私は、今こんなに(はし)っているのだ。

その男を()なせてはならない。

(いそ)げ、メロス。

(おく)れてはならない。

(あい)信実(しんじつ)(ちから)を、今こそ()らせてやるがよい。

格好(かっこう)なんかは、どうでもいい。

 

メロスは、今は、ほぼ(はだか)だった。()(きゅう)もできず、二度、三度、口から()が出た。見える。まだ(とお)いが、シラクスの町の建物(たてもの)が小さく見える。それらは、夕陽(ゆうひ)()けて、きらきら(ひか)っている。

「ああ、メロス(さま)

その(こえ)(かぜ)とともに聞こえた。

「だれだ」メロスは(はし)りながら(たず)ねた。

「フィロストラトスでございます。あなたのお友達(ともだち)セリヌンティウス(さま)弟子(でし)でございます」

その(わか)石工(せっこう)も、メロスの(あと)について(はし)りながら(さけ)んだ。

「もう、駄目(だめ)でございます。無駄(むだ)でございます。(はし)るのは、やめてください。もう、あの方をお(たす)けになることはできません」

「いや、まだ日は(しず)まぬ」

「ちょうど今、あの方が()(けい)になるところです。ああ、あなたは(おそ)かった。ひどい人だ。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」

「まだ日は(しず)まぬ!」

メロスは(むね)()()ける思いで、赤く大きい(ゆう)()を見つめていた。(はし)るよりほかはない。

「やめてください。(はし)るのは、やめてください。今はご自分の(いのち)大事(だいじ)です。あの方は、あなたを(しん)じておりました。死刑場(しけいじょう)()き出されても、(へい)()でいました。(おう)(さま)が、(なん)()あの方をからかっても、『メロスは来ます』とだけ(こた)え、(しん)(つづ)けている(よう)()でした」

「それだから、(はし)るのだ。(しん)じられているから(はし)るのだ。()()うかどうかは問題でないのだ。人の(いのち)も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと(おそ)ろしく大きいもののために(はし)っているのだ。ついて来い! フィロストラトス」

「ああ、あなたは気が(くる)ったか。それでは、気が()むまで(はし)るがいい。ひょっとしたら、()()うかもしれない。(はし)るがいい」

 言うまでもない。まだ日は(しず)まぬ。(さい)()(ちから)()くし、メロスは(はし)った。メロスの(あたま)は、からっぽだ。何一つ(かんが)えていない。ただ、何かわからぬ大きな(ちから)()きずられて(はし)った。

日は、ゆらゆら地平(ちへい)(せん)(しず)み、まさに(さい)()(ひかり)も、()えようとした(しゅん)(かん)、メロスは(かぜ)のように死刑場(しけいじょう)に入って来た。()()った。

「待て! その人を(ころ)すな! 帰って来た。約束(やくそく)(どお)り、今、帰って来たぞ!」と、そこに(あつ)まった人々に()かってメロスは(さけ)んだ。だが、(のど)がつぶれて、老人(ろうじん)のような(こえ)がかすかに出ただけで、だれもメロスの到着(とうちゃく)に気がつかない。

すでに(はりつけ)(はしら)高々(たかだか)と立てられ、(なわ)(しば)られたセリヌンティウスは、徐々(じょじょ)()り上げられてゆく。メロスはそれを目にして、また()け出した。(さき)ほど川を(およ)いだ時のように人ごみを()きわけ、()きわけ、

「私だ、(けい)()! (ころ)されるのは、私だ。メロスだ。(かれ)人質(ひとじち)にした私は、ここにいる!」と(さけ)びながら、ついに(はりつけ)(だい)(のぼ)り、友の両足(りょうあし)にしがみついた。

人々から、「おおー!」という(こえ)が上がり、(つづ)いて「よくやった。(ゆる)してやれ」と口々(くちぐち)(さけ)んだ。

セリヌンティウスの(なわ)が、ほどかれた。

「セリヌンティウス」

メロスは目に(なみだ)()かべて言った。

「私を(なぐ)れ。(ちから)いっぱいに(ほお)(なぐ)れ。私は、途中(とちゅう)で一度、(わる)(ゆめ)を見た。(きみ)がもし私を(なぐ)ってくれなかったら、私は(きみ)()()うことさえできないのだ。(なぐ)れ」

 セリヌンティウスは、すべてを理解(りかい)した様子(ようす)でうなずき、力いっぱいメロスの(みぎ)(ほお)(なぐ)った。(なぐ)ってから(やさ)しく微笑(ほほえ)み、

「メロス、私を(なぐ)れ。(おな)じくらい(ちから)いっぱいに私の(ほお)(なぐ)れ。私はこの三日間でたった一度だけ、ちらっと(きみ)(うたが)った。生まれてはじめて(きみ)(うたが)った。(きみ)が私を(なぐ)ってくれなければ、私は(きみ)()()えない」

 メロスは(うで)(ちから)()めてセリヌンティウスの(ほお)(なぐ)った。

「ありがとう、友よ」

ふたり同時(どうじ)に言い、ひしと()()うと、うれし()きに(こえ)をあげて()いた。(あつ)まった人々の中からも、すすり()(こえ)が聞こえた。ディオニス(おう)は、その後ろからふたりの様子(ようす)を、じっと見ていたが、やがて(しず)かにふたりに(ちか)づき、(かお)(あか)らめて、こう言った。

「おまえたちの(のぞ)みは(かな)ったぞ。おまえたちは、わしの心に()ったのだ。(しん)(じつ)というものは、本当にあったのだな。どうか、わしを(なか)()に入れてくれないか。どうか、わしの(ねが)いを聞き入れて、おまえたちの(なか)()の一人にしてほしい」

 それを聞いて、人々は、「わぁー!」と歓声(かんせい)を上げた。

万歳(ばんざい)(おう)(さま)万歳(ばんざい)

 ひとりの(しょう)(じょ)が、()(いろ)のマントをメロスに()し出した。メロスは、うろたえた。そこで、セリヌンティウスは親切(しんせつ)(おし)えてやった。

「メロス、(きみ)は、(はだか)じゃないか。早くそのマントを()ろ。このかわいい(むすめ)さんは、(きみ)(はだか)をみんなに見られるのが(くや)しくてたまらないのだ」

 勇者(ゆうしゃ)(かお)は、()()になった。

 

トウキョウタワー★★★

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