朝の電車ほど孤独を感じる場所はない。
毎朝、同じ電車の同じ車両に乗れば、そこには知っている顔ばかり。髪の薄くなったおじさん、きれいな爪のおねえさん、マスクをつけたメガネの少年……。名前も知らなければ、会社や学校も知らない。大勢の人間が集まっているのに、そこに会話が生まれることはない。だれもいない部屋に一人でいるより孤独だ。
でも、今の私にとってそんなことはどうでもいい。名前や会社など知らなくていいし、少々イケメンだろうと恋人がいるかなんて知りたくもない。私が知りたい情報はただ一つ。その人がどこの駅で降りるかだ。
2カ月ほど前から毎朝電車に乗ると、ある人を探すようになった。派手な服を着ているわけではないが、だいたいその女性の服は覚えている。「おばさん」と「おばあさん」の間ぐらいの年齢で、赤いメガネをかけている。シートに座っている彼女は次の駅で必ず降りる。だから、彼女の前に立ってさえいれば、いつも込んでいるこの時間の電車でも次の駅で座れるというわけだ。
家から職場の最寄り駅まで快速電車で7駅。別に遠いわけではないが、座れるなら座りたい。なんせ私は仕事の半分は立ちっぱなしの中学校の教師だからだ。それだけじゃない。小柄な私は生徒になめられないように、内履きのパンプスの中にヒールアップの中敷きを入れている。実際の身長より2㎝高くなるだけだが、生徒と向かい合ったときの自信が違う。というわけで、夕方になると足がつらくなる。ただ、退勤時間は日によって違うし、たいてい込んでいるので、帰りの電車で座るのはあきらめている。せめて朝の電車は座って過ごし、少しでも足に負担をかけないようにしたい。それで、私は自分だけが知っている貴重な情報を活かしつつ、戦略的に座ろうと決めたのだ。私は心の中でそのおばさんに【エンジェル】というあだ名を付けた。
けれど、必勝法がわかったからといって、必ず座れるわけではない。今週の月曜から木曜までの戦績は3勝1敗。月、火は座れたが、水曜はエンジェルの前に見かけない太った中年サラリーマンが立っていた。しかし、そんなことで怯みはしない。前にいなくても斜めから道を開けるふりをして、すっと席に滑り込むテクニックを身に着けている。たいていの人は目の前の席が空いても座るまでに一瞬の間がある。そのスキを狙うのだ。しかし、エンジェルが立ち上がるや否や、その中年男性は突き出たお腹をものともせず素早い動きで、空いた席にどすんと腰を下ろした。シートが激しく揺れ、隣の席で居眠りしていた長髪のお兄さんが飛び起きた。
だが、昨日は楽勝。そして、今日は金曜日。夜には大学時代の友人らと飲み会がある。昼間の授業だけではなく、夕方には職員会議もある。くたくたで夜を迎えたのでは、週末の女子会は楽しめない。翌日が休みなら三次会のカラオケまで行くのがお決まりのコースだ。今から夜に向けて少しでも体力を残しておかなくては。
「まもなく1番線に……」というアナウンスが流れ、電車がホームに入って来た。いつもの場所で列に並んで目を凝らしていると、ドアが開く前に茶色いコートのエンジェルを見つけた。彼女の前にはだれも立っていない。
ドアが開いて、乗客が降りるのをじっと待ち、中に入ると、一直線に進んでエンジェルの前をゲットした。よし、これで勝ちは確定。さて、夜の二次会の店はどこにしようとスマホをいじり始めた。
ところが、ドアが閉まろうとしたとき、エンジェルが
「どうぞ、座ってください」と立ち上がった。
「えっ」
しかし、それは私に向けた言葉ではなく、私の隣に立っていた女性に向けたものだった。彼女のかばんには妊娠していることを示すマタニティーマークが付いていた。彼女は「ありがとうございます」と頭を下げて、ふくらんだおなかを抱えるように席に着いた。
電車が動き出す。エンジェルは私の隣に立っていた。私はこれまで自分が続けていた席取り合戦をひどく恥じていた。そして、情けなさから冷たい闇へと落ちていった。
親元でぬくぬくと暮らし、グチをこぼしつつ仕事をこなし、たまに友人と遊んだりして年を重ねていく。恋人がいた時期もあるけど、結婚しようとは思わなかった。先週のバレンタインデーも自分のために高級なチョコを買ってきて部屋で一人で食べた。今の時代、こんな生き方もアリだと思う。でも、それは、できるだけ周りを見ないようにして自分にとって都合のいい選択をしているだけではないかとも感じている。結局、自分に自信がないから変わるのが嫌で、変化のない毎日にしがみつくように生きている。それだけならまだしも、こうやって日常の中で少しでも他人より有利に生きたいと身勝手な行動に出る……
なんだか泣きたくなってきた。でも、こんなところで泣くわけにはいかない。こらえろ。
手で目元をぬぐったら、目の前にハンカチが現れた。白い花柄のハンカチ。差し出したエンジェルが心配そうな顔で言った。
「やっぱり。鈴木さんよね? 鈴木貴子さん」
「相羽先生……」
中学2年生のとき、私はクラスでいじめを受け、不登校になった。そのとき、救ってくれたのが相羽孝子先生だった。1年生のときの担任で、国語の先生。どこにでもいる地味なおばさん教師。そう思って1年過ごすと、2年生になって担任が変わった。
先生は学校に行かなくなった私宛に毎週手紙を書いてくれた。最初は何だろうと驚いたが、特にすることがない毎日の中で、その手紙はいつしか楽しみに変わっていった。手紙の内容は、学校であった出来事や先生の家族のこと、日々の他愛もない発見などいろいろだった。そして、国語の先生らしく、手紙の最後に詩や短歌を引用することもあった。ただ、どれも説教臭いものではなく、家に閉じこもる私に外の世界を感じさせてくれるものだった。先生は手紙を通して私の心に光を運んでくれた。
結局、卒業するまで学校には行けなかった。けれど、その後、通信制の高校に通い、大学では文学部に入り、国語の教師になる道を選んだ。相羽先生は間違いなく私の人生に大きな影響を与えた人物だった。
その先生が目の前にいる。いや、半年前から目の前にいたのに気づかなかった。当時はメガネをかけていなかったとはいえ、わからなかったのが悔しい。
「大丈夫? ごめんね。もっと早く気づいてあげればよかったんだけど、自信がなくて。私の知ってる鈴木さんは中学生の頃の鈴木さんだったから」
受け取ったハンカチを目元に当てたまま、首を左右に振った。——違う、私が気づかなきゃいけなかったのに……
「鈴木さんが卒業するときに手紙、書いてくれたでしょ? 今でもちゃんととってあって、たまに読み返すのよ。あれ、私の宝物」
私が書いた手紙? そうだ。会いに行く勇気はなかったけど、感謝の気持ちを伝えるために手紙を書いたんだ。でも、内容は覚えていない……
そのとき、急に電車が止まった。先生がバランスを崩して倒れそうになり、思わず先生の腕をつかんだ。
「停止信号です。しばらくお待ちください」というアナウンスが車内に流れた。
「ありがとう」
しわは増えたけど、笑うと目尻が下がる優しい顔はあの頃のままだ。思い出した。たしか、
『貴子』と『孝子』で漢字は違いますが、先生と同じ名前でうれしいです。
と書いた。それから……
先生に続きを聞こうと口を開きかけたが、思いとどまった。
あの日の私が降りて来た。そして、口をついたのが、
「先生、次の駅で私も降ります」という言葉だった。
「え、いいの? お仕事に間に合わなくならない?」
「大丈夫です。私、先生に話したいことがあるんです。連絡先も知りたいし。あ、でも、先生はお時間ありますか?」
相羽先生はちらっと腕時計を確認してから、
「ええ、大丈夫よ。せっかくかわいい教え子と再会できたんですもの。ゆっくり話さなくちゃ」と微笑んだ。
その笑みは、春の日差しが積もった雪を溶かすように、私の孤独を溶かしていった。
またしても相羽先生に救われた。私はやっぱりあの頃からあまり成長していないのかもしれない。それにしても……
急に私がくすくす笑い出したものだから、先生は「え、どうしたの?」と不思議そうな顔をした。
「すみません。何でもありません」
さっきまで心の中で先生のことを【エンジェル】というあだ名で呼んでいたことを思い出し、つい口元が緩んでしまったのだ。まあ、いいか。先生は私にとって天使なのだから。
アナウンスが流れ、停止信号が解除されたと告げる。私たちを乗せた電車は何事もなかったかのように次の駅へと向かう。
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