Sunday, March 2, 2025

天使は通勤電車の中にいる★★★★★

  朝の電車ほどどくを感じる場所はない。

毎朝、同じ電車の同じ(しゃ)(りょう)に乗れば、そこには知っている顔ばかり。(かみ)(うす)くなったおじさん、きれいな(つめ)のおねえさん、マスクをつけたメガネの少年……。名前も知らなければ、会社や学校も知らない。大勢(おおぜい)の人間が集まっているのに、そこに会話が生まれることはない。だれもいない部屋に一人でいるより()(どく)だ。

でも、今の私にとってそんなことはどうでもいい。名前や会社など知らなくていいし、少々イケメンだろうと恋人(こいびと)がいるかなんて知りたくもない。私が知りたい情報(じょうほう)はただ一つ。その人がどこの駅で降りるかだ。

2カ月ほど前から毎朝電車に乗ると、ある人を(さが)すようになった。派手(はで)な服を着ているわけではないが、だいたいその女性の服は覚えている。「おばさん」と「おばあさん」の間ぐらいの年齢(ねんれい)で、赤いメガネをかけている。シートに(すわ)っている彼女は次の駅で必ず降りる。だから、彼女の前に立ってさえいれば、いつも込んでいるこの時間の電車でも次の駅で座れるというわけだ。

家から職場(しょくば)最寄(もよ)り駅まで快速(かいそく)電車で7駅。(べつ)(とお)いわけではないが、座れるなら座りたい。なんせ私は仕事の半分は立ちっぱなしの中学校の教師だからだ。それだけじゃない。小柄(こがら)な私は生徒(せいと)になめられないように、(うち)()きのパンプスの中にヒールアップの(なか)()きを入れている。実際(じっさい)身長(しんちょう)より2㎝高くなるだけだが、生徒(せいと)()かい合ったときの自信(じしん)が違う。というわけで、夕方になると足がつらくなる。ただ、退勤(たいきん)時間は日によって違うし、たいてい()んでいるので、帰りの電車で座るのはあきらめている。せめて朝の電車は座って()ごし、少しでも足に負担(ふたん)をかけないようにしたい。それで、私は自分だけが知っている貴重(きちょう)情報(じょうほう)()かしつつ、戦略的(せんりゃくてき)に座ろうと()めたのだ。私は心の中でそのおばさんに【エンジェル】というあだ()()けた。

けれど、必勝法(ひっしょうほう)がわかったからといって、必ず座れるわけではない。今週の月曜から木曜までの戦績(せんせき)3(しょう)1(いっ)(ぱい)。月、火は座れたが、水曜はエンジェルの前に見かけない(ふと)った中年(ちゅうねん)サラリーマンが立っていた。しかし、そんなことで(ひる)みはしない。前にいなくても(なな)めから道を開けるふりをして、すっと(せき)(すべ)()むテクニックを()()けている。たいていの人は目の前の(せき)()いても座るまでに一瞬(いっしゅん)()がある。そのスキを(ねら)うのだ。しかし、エンジェルが立ち上がるや(いな)や、その(ちゅう)(ねん)(だん)(せい)()()たお(なか)をものともせず素早(すばや)い動きで、()いた(せき)にどすんと(こし)()ろした。シートが(はげ)しく()れ、(となり)(せき)()(ねむ)りしていた長髪(ちょうはつ)のお兄さんが()()きた。

だが、昨日は楽勝(らくしょう)。そして、今日は金曜日。夜には大学時代(じだい)友人(ゆうじん)らと飲み会がある。昼間(ひるま)授業(じゅぎょう)だけではなく、夕方には職員(しょくいん)会議もある。くたくたで夜を(むか)えたのでは、週末(しゅうまつ)女子会(じょしかい)は楽しめない。翌日(よくじつ)が休みなら三次会(さんじかい)のカラオケまで行くのがお()まりのコースだ。今から夜に()けて少しでも体力(たいりょく)(のこ)しておかなくては。

「まもなく1番線(ばんせん)に……」というアナウンスが(なが)れ、電車がホームに入って来た。いつもの場所で(れつ)(なら)んで目を()らしていると、ドアが開く前に茶色(ちゃいろ)いコートのエンジェルを見つけた。彼女の前にはだれも立っていない。

ドアが開いて、乗客(じょうきゃく)が降りるのをじっと待ち、中に入ると、一直線(いっちょくせん)(すす)んでエンジェルの前をゲットした。よし、これで()ちは確定(かくてい)。さて、夜の二次会(にじかい)(みせ)はどこにしようとスマホをいじり始めた。

ところが、ドアが()まろうとしたとき、エンジェルが

「どうぞ、座ってください」と立ち上がった。

「えっ」

しかし、それは私に()けた言葉ではなく、私の(となり)に立っていた女性(じょせい)()けたものだった。彼女のかばんには妊娠(にんしん)していることを(しめ)すマタニティーマークが()いていた。彼女は「ありがとうございます」と(あたま)を下げて、ふくらんだおなかを(かか)えるように(せき)()いた。

電車が動き出す。エンジェルは私の(となり)に立っていた。私はこれまで自分が(つづ)けていた(せき)()合戦(がっせん)をひどく()じていた。そして、(なさ)けなさから(つめ)たい(やみ)へと()ちていった。

親元(おやもと)でぬくぬくと()らし、グチをこぼしつつ仕事をこなし、たまに友人と(あそ)んだりして(とし)(かさ)ねていく。恋人(こいびと)がいた時期(じき)もあるけど、結婚(けっこん)しようとは思わなかった。先週のバレンタインデーも自分のために高級(こうきゅう)なチョコを買ってきて部屋で一人で食べた。今の時代(じだい)、こんな生き方もアリだと思う。でも、それは、できるだけ(まわ)りを見ないようにして自分にとって都合(つごう)のいい選択(せんたく)をしているだけではないかとも(かん)じている。結局(けっきょく)、自分に自信(じしん)がないから()わるのが(いや)で、変化(へんか)のない毎日にしがみつくように生きている。それだけならまだしも、こうやって日常(にちじょう)の中で少しでも他人(たにん)より有利(ゆうり)に生きたいと身勝手(みがって)行動(こうどう)に出る……

なんだか()きたくなってきた。でも、こんなところで()くわけにはいかない。こらえろ。

手で目元(めもと)をぬぐったら、目の前にハンカチが(あらわ)れた。白い花柄(はながら)のハンカチ。()し出したエンジェルが(しん)(ぱい)そうな(かお)で言った。

「やっぱり。鈴木(すずき)さんよね? 鈴木(すずき)貴子(たかこ)さん」

相羽(あいば)先生……」

中学2年生のとき、私はクラスでいじめを()け、不登校(ふとうこう)になった。そのとき、(すく)ってくれたのが相羽(あいば)孝子(たかこ)先生だった。1年生のときの担任(たんにん)で、国語の先生。どこにでもいる地味(じみ)なおばさん教師(きょうし)。そう思って1()ごすと、2年生になって担任(たんにん)が変わった。

先生は学校に行かなくなった私(あて)に毎週手紙を書いてくれた。最初(さいしょ)は何だろうと(おどろ)いたが、(とく)にすることがない毎日の中で、その手紙はいつしか楽しみに()わっていった。手紙の内容(ないよう)は、学校であった出来事(できごと)や先生の家族のこと、日々(ひび)他愛(たあい)もない発見(はっけん)などいろいろだった。そして、国語の先生らしく、手紙の最後(さいご)()短歌(たんか)引用(いんよう)することもあった。ただ、どれも説教臭(せっきょうくさ)いものではなく、家に()じこもる私に外の世界を(かん)じさせてくれるものだった。先生は手紙を(とお)して私の心に(ひかり)(はこ)んでくれた。

結局(けっきょく)卒業(そつぎょう)するまで学校には行けなかった。けれど、その後、通信制(つうしんせい)の高校に(かよ)い、大学では(ぶん)学部(がくぶ)に入り、国語の教師(きょうし)になる(みち)(えら)んだ。相羽(あいば)先生は間違(まちが)いなく私の人生(じんせい)に大きな(えい)(きょう)(あた)えた(じん)(ぶつ)だった。

その先生が目の前にいる。いや、半年前から目の前にいたのに気づかなかった。当時(とうじ)はメガネをかけていなかったとはいえ、わからなかったのが(くや)しい。

「大丈夫? ごめんね。もっと早く気づいてあげればよかったんだけど、自信(じしん)がなくて。私の知ってる鈴木(すずき)さんは中学生の(ころ)の鈴木さんだったから」

()()ったハンカチを目元(めもと)()てたまま、(くび)左右(さゆう)()った。——違う、私が気づかなきゃいけなかったのに……

「鈴木さんが卒業(そつぎょう)するときに手紙、書いてくれたでしょ? 今でもちゃんととってあって、たまに読み(かえ)すのよ。あれ、私の宝物(たからもの)

 私が書いた手紙? そうだ。会いに行く勇気(ゆうき)はなかったけど、感謝(かんしゃ)の気持ちを(つた)えるために手紙を書いたんだ。でも、内容(ないよう)(おぼ)えていない……

そのとき、(きゅう)に電車が止まった。先生がバランスを(くず)して(たお)れそうになり、思わず先生の(うで)をつかんだ。

停止(ていし)信号(しんごう)です。しばらくお待ちください」というアナウンスが車内に(なが)れた。

「ありがとう」

しわは()えたけど、(わら)うと()(じり)()がる(やさ)しい(かお)はあの(ころ)のままだ。思い出した。たしか、

 

貴子(たかこ)』と『孝子(たかこ)』で漢字は違いますが、先生と同じ名前でうれしいです。

 

と書いた。それから……

先生に続きを聞こうと口を(ひら)きかけたが、思いとどまった。

あの日の私が降りて来た。そして、口をついたのが、

「先生、次の駅で私も降ります」という言葉だった。

「え、いいの? お仕事に間に合わなくならない?」

「大丈夫です。私、先生に話したいことがあるんです。連絡(れんらく)(さき)も知りたいし。あ、でも、先生はお時間ありますか?」

 相羽先生はちらっと(うで)時計(どけい)確認(かくにん)してから、

「ええ、大丈夫よ。せっかくかわいい(おし)()(さい)(かい)できたんですもの。ゆっくり話さなくちゃ」と微笑(ほほえ)んだ。

 その()みは、春の日差(ひざ)しが()もった(ゆき)()かすように、私の孤独(こどく)()かしていった。

またしても相羽先生に(すく)われた。私はやっぱりあの(ころ)からあまり成長(せいちょう)していないのかもしれない。それにしても……

(きゅう)に私がくすくす(わら)い出したものだから、先生は「え、どうしたの?」と不思議(ふしぎ)そうな(かお)をした。

「すみません。何でもありません」

さっきまで心の中で先生のことを【エンジェル】というあだ()()んでいたことを思い出し、つい口元(くちもと)(ゆる)んでしまったのだ。まあ、いいか。先生は私にとって天使(てんし)なのだから。

アナウンスが(なが)れ、(てい)()(しん)(ごう)(かい)(じょ)されたと()げる。私たちを乗せた電車は何事(なにごと)もなかったかのように次の駅へと()かう。

 《完》

 

 

 

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