Wednesday, July 20, 2022

君と花火★★★★

あれは高校(こうこう)2年(ねん)の春(はる)だった。

ゴールデンウィーク明(あ)けの5月(がつ)6日(むいか)。ぼくは寝(ね)坊(ぼう)して、慌(あわ)てて教(きょう)室(しつ)の後(うし)ろのドアを開(あ)けた。名(な)前(まえ)の書(か)かれた黒(こく)板(ばん)の前(まえ)に、少(すこ)し長(なが)めのロングヘアーの女(おんな)の子(こ)が立(た)っていた。

転校生(てんこうせい)のようだ。

「吉川(よしかわ)春香(はるか)です。よろしくお願(ねが)いします」

彼女(かのじょ)はみんなに向(む)かってお辞儀(じぎ)をした。そのあと、一瞬(いっしゅん)、彼女(かのじょ)と目(め)が合(あ)った。

担任(たんにん)の後藤(ごとう)先生(せんせい)が

「じゃあ、あそこの席(せき)に」と教室(きょうしつ)の一番(いちばん)後(うし)ろの席(せき)を指(さ)した。

ぼくのとなりだ。ぼくの苗字(みょうじ)は【八城(やしろ)】で出(しゅっ)席(せき)番号(ばんごう)が男子(だんし)の最後(さいご)だった。彼女(かのじょ)の苗字(みょうじ)は【吉川(よしかわ)】だから、女子(じょし)の最後(さいご)だ。

となりの席(せき)は4月(がつ)からずっと空(あ)いていて、だれが来(く)るのか気(き)になっていた。ぼくは16年(ねん)生(い)きてきた中(なか)で、最(さい)高(こう)にラッキーなことが今(いま)起(お)きたと思(おも)った。すると、

「八城(やしろ)、おまえもぼうっと立(た)ってないで早(はや)く席(せき)につけ!」

と先生(せんせい)に叱(しか)られ、みんなに笑(わら)われた。

それまでは、放課後(ほうかご)にバスケットボールをするために通(かよ)っていたようなものだった。教室(きょうしつ)でじっと授業(じゅぎょう)を聞(き)いているのは、退屈(たいくつ)でつらかった。でも、彼女(かのじょ)が来(き)てから毎日(まいにち)学校(がっこう)に行(い)くのが楽(たの)しみになった。あいさつをしたり、英語(えいご)の授業(じゅぎょう)で会話(かいわ)の相手(あいて)をしたり、落(お)とした消(け)しゴムを拾(ひろ)ってあげたり、そんなささいなやりとりが、ぼくにとっては試合(しあい)でシュートを決(き)めたときのようにうれしかった。

吉川(よしかわ)のほうも新(あたら)しい学校(がっこう)に慣(な)れ、友(とも)だちもできて、楽(たの)しんでいるようだった。頭(あたま)も良(よ)く、定(てい)期(き)テストでは学(がく)年(ねん)上(じょう)位(い)に入(はい)った。入(にゅう)部(ぶ)したテニス部(ぶ)でも三年生(さんねんせい)より上手(じょうず)だと評判(ひょうばん)だった。ぼくは部(ぶ)活(かつ)で休憩(きゅうけい)時間(じかん)になるたびに、体(たい)育(いく)館(かん)の外(そと)に出(で)て涼(すず)んでいるふりをしながら、テニスコートで練習(れんしゅう)する吉川(よしかわ)を遠(とお)くから眺(なが)めていた。

 

ところが、6月(がつ)に入(はい)ると、様(よう)子(す)が変(か)わった。転校(てんこう)してきたばかりのころは、休(やす)み時間(じかん)になると、彼女(かのじょ)の周(まわ)りに次々(つぎつぎ)と女子(じょし)が寄(よ)って来(き)て、おしゃべりをしたり、にぎやかなものだった。けど、吉川(よしかわ)に関(かん)する嫌(いや)なうわさがあちこちで流(なが)れ、彼女(かのじょ)の周(まわ)りから、一人(ひとり)、また一人(ひとり)と友(とも)だちがいなくなった。

人気(にんき)のある男子(だんし)に告白(こくはく)してふられたとか、大(だい)学(がく)生(せい)と夜(よる)遊(あそ)び歩(ある)いているとか、転校(てんこう)してきたのは前(まえ)の学校(がっこう)で先生(せんせい)と付(つ)き合(あ)っているのがバレたからだとか……。どれも耳(みみ)をふさぎたくなるような悪(わる)いうわさばかりだった。

吉川(よしかわ)は一人(ひとり)ぼっちの休(やす)み時間(じかん)を、本(ほん)を読(よ)んで過(す)ごした。そのうちテニス部(ぶ)も辞(や)めてしまった。毎(まい)朝(あさ)、決(き)まった時間(じかん)に登(とう)校(こう)し、放(ほう)課(か)後(ご)になると、ぱっと席(せき)を立(た)って帰(かえ)るようになった。

でも、彼女(かのじょ)は学校(がっこう)を休(やす)んだりはしなかった。そのおかげで、ぼくの日常(にちじょう)はなんとか保(たも)たれた。

 

 バスケ部(ぶ)は地区(ちく)大会(たいかい)で優勝(ゆうしょう)し、7月(がつ)の県(けん)大会(たいかい)に出場(しゅつじょう)することになった。三年生(さんねんせい)にとっては最後(さいご)の大会(たいかい)だったが、ぼくは二(に)年(ねん)生(せい)でただ一人(ひとり)試合(しあい)に出(で)ることができた。チームで一番(いちばん)身長(しんちょう)が高(たか)いこともあってセンターを任(まか)された。

「背(せ)が高(たか)いだけ」と言(い)われたくなくて、今(いま)まで以上(いじょう)に練習(れんしゅう)に励(はげ)んだ。朝(あさ)も早(はや)起(お)きして、体育館(たいいくかん)でシュート練習(れんしゅう)をした。そのせいで授業中(じゅぎょうちゅう)起(お)きているのが、ますますつらくなった。

その頃(ころ)、クラスメイトたちは、来月(らいげつ)の花火(はなび)大会(たいかい)をだれと見(み)に行(い)くかで盛(も)り上(あ)がっていた。親友(しんゆう)の高(たか)橋(はし)に

「八城(やしろ)もいっしょに行(い)こうぜ!」と誘(さそ)われたが、

「県(けん)大会(たいかい)があるから、やめとく」

と断(ことわ)った。

花火(はなび)大会(たいかい)は決(けっ)勝戦(しょうせん)の前日(ぜんじつ)だった。

 

その日(ひ)、市内(しない)の体育館(たいいくかん)で県(けん)大会(たいかい)の準々(じゅんじゅん)決勝(けっしょう)が行(おこな)われた。結(けっ)果(か)は惜(お)しくも負(ま)けてしまった。引退(いんたい)が決(き)まった三年生(さんねんせい)はみんな泣(な)いていた。

解散(かいさん)したあと、ぼくは体育館(たいいくかん)の周(まわ)りを一人(ひとり)で走(はし)った。太陽(たいよう)がじりじりと照(て)りつける中(なか)、何(なん)周(しゅう)も、何(なん)周(しゅう)も……何(なに)も考(かんが)えられなくなるまで走(はし)った。

空(そら)が暗(くら)くなりかけたころ、もう一(いっ)歩(ぽ)も走(はし)れなくなり、体(たい)育(いく)館(かん)の前(まえ)の水(すい)道(どう)で頭(あたま)から水(みず)を浴(あ)びた。そのとき、後(うし)ろから

「おつかれさま」と声(こえ)をかけられた。

 振(ふ)り向(む)くと、彼女(かのじょ)が立(た)っていた。

「吉川(よしかわ)……なんで?」

「試合(しあい)、見(み)に来(き)たの。ひまだったから」

「ふうん。バスケット、好(す)きなんだ」

「そういうわけじゃないけど、八城(やしろ)くんがバスケットしてるところを一度(いちど)見(み)てみたかったの。いつもテニス部(ぶ)の練習(れんしゅう)、じろじろ見(み)られてたから、その仕(し)返(かえ)しに」

「……」

 気(き)づかれていた……

「惜(お)しかったね。最後(さいご)のシュート」

そうだ。あのシュートさえ決(き)まっていれば、今日(きょう)の試合(しあい)は勝(か)てたかもしれない。

「ああ。おれのせいで負(ま)けたんだ」

「そんなことないよ。何本(なんぼん)もシュート決(き)めてたじゃない。それに、かっこよかったよ。必死(ひっし)でボールを追(お)いかけてる八城(やしろ)くん」

 吉川(よしかわ)に「かっこよかった」と言(い)われて思(おも)わずドキッとした。

「仕(し)返(かえ)しっていうわりに、ちゃんと見(み)てくれたんだ。でも、なんでこんな遅(おそ)い時間(じかん)まで」

「だって、帰(かえ)るとき一(ひと)声(こえ)かけようと思(おも)ったら、八城(やしろ)くん、急(きゅう)に走(はし)り出(だ)しちゃうんだもん」

「あ、そうか」

「はい、これ。もうぬるくなっちゃったかも」

 彼女(かのじょ)がビニール袋(ぶくろ)から取(と)り出(だ)したのは、ペットボトルのコーラだった。

「あ、コーラ! サンキュー」

「この近(ちか)くの自(じ)動(どう)販(はん)売(ばい)機(き)じゃ売(う)ってなくて、わざわざ駅前(えきまえ)のコンビニまで行(い)って買(か)ってきたんだよ。まあ、わたしものどが渇(かわ)いて何(なに)か飲(の)み物(もの)がほしかったから、そのついでだけど。コーラ、好(す)きなんでしょ?」

「あれ? おれ、コーラが好(す)きって言(い)ったことあったっけ?」

「言(い)ってたよ」

「えっ?」

「英語(えいご)の授業(じゅぎょう)で【アイ ライク コーラ!】って」

とぼくの真似(まね)をして太(ふと)い声(こえ)で言(い)った。それがおかしくてぼくが吹(ふ)き出(だ)すと、吉川(よしかわ)もおなかを抱(かか)えて笑(わら)い出(だ)した。その笑顔(えがお)がたまらなく可愛(かわい)くて、気(き)が付(つ)くと、ぼくは彼女(かのじょ)を花火(はなび)大会(たいかい)に誘(さそ)っていた。

「いいよ。いっしょに行(い)こう」

 

花火(はなび)大会(たいかい)の日(ひ)、待(ま)ち合(あ)わせの時間(じかん)ちょうどに公園(こうえん)に着(つ)いたが、彼(かの)女(じょ)は見(み)当(あ)たらなかった。

公園(こうえん)の中(なか)は、もう見(けん)物(ぶつ)客(きゃく)でいっぱいだった。ぼくの身長(しんちょう)なら立(た)ってさえいれば、どこからでも花火(はなび)が見(み)えそうだが、吉川(よしかわ)の身長(しんちょう)だと厳(きび)しいかもしれない。どこかいい場(ば)所(しょ)がないか探(さが)していると、

「ごめん。遅(おく)れて」

と後(うし)ろからTシャツの裾(すそ)を引(ひ)っぱられた。

浴衣(ゆかた)姿(すがた)の吉川(よしかわ)は、まぶしかった。紺(こん)色(いろ)の浴衣(ゆかた)に赤(あか)い金魚(きんぎょ)が泳(およ)いでいた。髪(かみ)型(がた)も普(ふ)段(だん)と違(ちが)い、結(むす)んだ髪(かみ)を丸(まる)くまとめて、前髪(まえがみ)を横(よこ)に流(なが)してピンで留(と)めていた。制服(せいふく)姿(すがた)しか見(み)たことがなかったので、いっしょにいるだけでなんだか照(て)れくさかった。

「だ、だいじょうぶ。おれも今(いま)来(き)たところだから」

「そう。八城(やしろ)くんは大(おお)きいから見(み)つけやすくて助(たす)かったよ。ごめんね。去(きょ)年(ねん)までは浴衣(ゆかた)はお母(かあ)さんに着(き)せてもらってたんだけど、今年(ことし)は初(はじ)めて一人(ひとり)で着(き)たから、時間(じかん)かかっちゃった。変(へん)じゃない?」

「う、うん……」

 本当(ほんとう)は「きれいだよ」とか、「似合(にあ)ってるよ」という言葉(ことば)が一(いっ)瞬(しゅん)頭(あたま)に浮(う)かんだが、恥(は)ずかしくて口(くち)にはできなかった。

 見(けん)物(ぶつ)できる場所(ばしょ)を探(さが)さなきゃと思(おも)っていたが、吉川(よしかわ)が「わたし、お母(かあ)さんにいいところ教(おし)えてもらったんだ」というので、花火(はなび)大会(たいかい)が始(はじ)まるまで二人(ふたり)で屋台(やたい)を巡(めぐ)ることにした。

たこ焼(や)き、焼(や)きそば、フランクフルト、りんご飴(あめ)にカキ氷(ごおり)、輪投(わな)げに射的(しゃてき)に金魚(きんぎょ)すくい……。たくさん食(た)べて、たくさん遊(あそ)んだ。

ぼくが大(おお)きな口(くち)を開(あ)けてばくばく食(た)べる様(よう)子(す)を吉川(よしかわ)は楽(たの)しそうに眺(なが)めていた。ぼくも子(こ)どもみたいに射的(しゃてき)や金魚(きんぎょ)すくいに夢(む)中(ちゅう)になる彼女(かのじょ)を見(み)るが楽(たの)しかった。

 日(ひ)が暮(く)れて、そろそろ花火(はなび)大会(たいかい)が始(はじ)まるころ、吉川(よしかわ)の言(い)うおすすめの場所(ばしょ)に向(む)かおうとした。そのとき、

「八城(やしろ)くん!」と声(こえ)をかけられた。

 同(おな)じクラスの井沢(いざわ)佳苗(かなえ)だ。そのとなりに知(し)った顔(かお)の女子(じょし)が二人(ふたり)いた。たしかみんなテニス部(ぶ)のはずだ。

 井沢(いざわ)たちは、ぼくのとなりに吉川(よしかわ)がいるのを発見(はっけん)すると、眉(まゆ)をひそめてコソコソ話(ばなし)を始(はじ)めた。

きっとこいつらがあの変(へん)なうわさを流(なが)したに違(ちが)いない。頭(あたま)に来(き)た。

「行(い)こう!」と吉川(よしかわ)の手(て)をとった。

「え、ちょっと待(ま)ってよ」と言(い)う吉(よし)川(かわ)の声(こえ)を無(む)視(し)して、ずんずん歩(ある)いた。

人(ひと)込(ご)みを抜(ぬ)け、公園(こうえん)から50メートルほど離(はな)れた橋(はし)の上(うえ)まで来(き)たとき、立(た)ち止(ど)まって、

「あいつらのことなんか気(き)にすんなよ。おれは信(しん)じてるから」と言(い)った。

そこで握(にぎ)っていた手(て)をそっと放(はな)すと、彼女(かのじょ)の目(め)からぽろぽろ涙(なみだ)がこぼれてきた。

「泣(な)くなよ」

「ちがうよ。八城(やしろ)くんが強(つよ)く手(て)を引(ひ)っ張(ぱ)るから、痛(いた)くて涙(なみだ)が出(で)てきたの!」

そんなに強(つよ)く引(ひ)っ張(ぱ)ったわけでもないが、一応(いちおう)「ごめん」と謝(あやま)った。

吉川(よしかわ)はハンカチで涙(なみだ)をぬぐってから、「よし、許(ゆる)してやる」と少(すこ)し偉(えら)そうに言(い)った。それは、どこかぼくに向(む)けられた言葉(ことば)ではないと感(かん)じた。

 

 吉川(よしかわ)のおすすめの場所(ばしょ)というのは、橋(はし)の近(ちか)くにあるマンションの屋上(おくじょう)だった。母親(ははおや)の同僚(どうりょう)がここに住(す)んでいるそうだ。その人(ひと)の話(はなし)によると、花火(はなび)大会(たいかい)の日(ひ)は特別(とくべつ)に屋上(おくじょう)を開放(かいほう)しているということだ。もともとは住(じゅう)民(みん)向(む)けのサービスだったようだが、住(じゅう)民(みん)たちが友(ゆう)人(じん)や親(しん)戚(せき)を連(つ)れて来(く)るので、その日(ひ)は、だれでも入(はい)って行(い)けるようになっているらしい。

エレベーターで屋上(おくじょう)まで上(あ)がると、おおぜいの人(ひと)が椅子(いす)やレジャーシートに座(すわ)って、食(た)べたり飲(の)んだりしていた。だが、公園(こうえん)ほどの混雑(こんざつ)ではなかった。ぼくらも持(も)ってきたシートを敷(し)いて、並(なら)んで座(すわ)り、花(はな)火(び)を待(ま)った。空(そら)はすっかり暗(くら)くなっていた。

ひゅ~と音(おと)がしたかと思(おも)うと、ぱっと大(おお)きな光(ひかり)の輪(わ)が夜空(よぞら)に咲(さ)いた。

「すごい! きれい!」

花火(はなび)大会(たいかい)が始(はじ)まると、吉川(よしかわ)はさっき泣(な)いていたとは思(おも)えないほど明(あか)るく元(げん)気(き)になった。赤(あか)や黄色(きいろ)の花火(はなび)が次々(つぎつぎ)と打(う)ち上(あ)がり、あっという間(ま)に第(だい)1部(ぶ)が終(しゅう)了(りょう)した。

次(つぎ)の第(だい)2部(ぶ)が始(はじ)まるまで少(すこ)し時間(じかん)があったので、二人(ふたり)で飲(の)み物(もの)を買(か)いに行(い)くことにした。

自動(じどう)販売機(はんばいき)でジュースを買(か)い、エレベーターを待(ま)っているとき、

「ねえ、吉川(よしかわ)って勉強(べんきょう)できるけど、塾(じゅく)とか行(い)ってるの?」

と聞(き)いてみた。

「ううん。うち、両親(りょうしん)が離婚(りこん)しちゃってさ。お母(かあ)さんが遅(おそ)くまで働(はたら)いているから、わたしが料理(りょうり)とか掃除(そうじ)とかしなきゃいけなくて、時間(じかん)ないから行(い)ってない。それもあって、テニス部(ぶ)、辞(や)めちゃったんだ」

意(い)外(がい)な答(こた)えが返(かえ)ってきたが、冷静(れいせい)なふりをして「ふうん」とあいづちを打(う)った。

「わたしね。実(じつ)は転校(てんこう)する前(まえ)まで苗字(みょうじ)は『吉川(よしかわ)』じゃなくて、『相島(あいじま)』だったの。『吉川(よしかわ)』はお母(かあ)さんの旧姓(きゅうせい)。だから、最初(さいしょ)はなんか違(ちが)う名(な)前(まえ)で呼(よ)ばれるの嫌(いや)だなって思(おも)ってたんだ」

「そうなんだ……」

「でも、そのおかげで八城(やしろ)くんのとなりになれた」

「えっ」

「今(いま)は吉川(よしかわ)でもいいかなって思(おも)ってるの。新(あたら)しい自(じ)分(ぶん)になれたみたいだし。それに、八城(やしろ)くんも『ヨシカワ~』って呼(よ)ぶし」

吉川(よしかわ)は自分(じぶん)の名前(なまえ)だけぼくの声(こえ)を真似(まね)て言(い)った。

「悪(わる)かったな」

買(か)ったばかりのコーラをのどに流(なが)し込(こ)む。

「下(した)の名前(なまえ)で呼(よ)んでもいいよ。『春香(はるか)』って」

 ブッと思(おも)わずコーラを吹(ふ)き出(だ)してしまった。ゴホゴホと苦(くる)しんでいるぼくを見(み)て、吉川(よしかわ)は

「あはは、本気(ほんき)にした?」と楽(たの)しそうにほほえんだ。

 

第(だい)2部(ぶ)の花火(はなび)もにぎやかに終(お)わり、あとは最後(さいご)の第(だい)3部(ぶ)を残(のこ)すのみとなった。話題(わだい)が途切(とぎ)れて気(き)まずくなったので

「何(なに)か食(た)べ物(もの)でも買(か)って来(こ)ようか?」と言(い)ったら、

「ええー! まだ食(た)べるの!?」と呆(あき)れられた。

しばらく二人(ふたり)で黙(だま)っていると、吉川(よしかわ)がつぶやいた。

「あのさー。実(じつ)は夏(なつ)休(やす)みが終(お)わったら、わたし……また転校(てんこう)するの」

「う、うそ。どこに?」

「北(ほっ)海(かい)道(どう)。お母(かあ)さんの実(じっ)家(か)。離(り)婚(こん)して、職(しょく)場(ば)を変(か)えて東京(とうきょう)からこっちに引(ひ)っ越(こ)してきたんだけど、やっぱり二人(ふたり)暮(ぐ)らしじゃ、きついって……」

 ぼくは頭(あたま)が真(ま)っ暗(くら)になった。そして、思(おも)わず余(よ)計(けい)なことを聞(き)いてしまった。

「なんでお父(とう)さんとお母(かあ)さん、離(り)婚(こん)しちゃったの?」

「……お父(とう)さん、お酒(さけ)を飲(の)むと暴(あば)れるんだ。昔(むかし)は優(やさ)しい父(ちち)親(おや)だったんだけど、会社(かいしゃ)をリストラされてから、毎日(まいにち)飲(の)むようになって……。物(もの)に当(あ)たるだけじゃなく、お母(かあ)さんを叩(たた)いたり、蹴(け)ったりして。それでも、お母(かあ)さんは耐(た)えてた。けど、ついにわたしにまで手(て)を上(あ)げるようになって、もう我(が)慢(まん)できないって……」

「そうだったんだ……」

「ほら、ここ」

 吉川(よしかわ)はピンで留(と)めていた前(まえ)髪(がみ)を持(も)ち上(あ)げた。額(ひたい)に3センチほどの傷跡(きずあと)があった。

「叩(たた)かれて倒(たお)れたときに、テーブルの角(かど)で切(き)っちゃったんだ」

「ごめん、変(へん)なこと聞(き)いちゃって……」

「ううん。わたしのほうこそ、ごめんね。北(ほっ)海(かい)道(どう)に行(い)くことも、離(り)婚(こん)のことも、本当(ほんとう)はみんなに黙(だま)っておこうって思(おも)ってたんだけど、やっぱり八城(やしろ)くんには話(はな)しちゃった」

 吉川(よしかわ)は前髪(まえがみ)のピンを留(と)め直(なお)し、話(はなし)を続(つづ)けた。

「……きっと、みんな、すぐにわたしのことなんか忘(わす)れちゃうよ。わたしだって嫌(いや)なことはぜーんぶ忘(わす)れる。それで、北(ほっ)海(かい)道(どう)に行(い)ったら新(あたら)しい生(せい)活(かつ)を思(おも)いっきり楽(たの)しむんだ、って思(おも)ってた。でも……やっぱりここをただの通過点(つうかてん)にしたくないんだ。いつか振(ふ)り返(かえ)ったとき、この時(じ)間(かん)にもなにか意(い)味(み)があったって思(おも)いたい。だから、八城(やしろ)くんはわたしのこと、ずっと覚(おぼ)えてて」

「え……」

 吉川(よしかわ)はじっとぼくの目(め)をのぞきこんだ。ぼくは小(ちい)さく「うん」とうなずいた。

「もう一つ、いい? どうしてわたしがみんなに無視(むし)されてたか、聞(き)いてほしいの。実(じつ)は八城(やしろ)くんとちょっと関係(かんけい)があるんだ」

「うそ……」

「ほら、あのとき、消(け)しゴムを拾(ひろ)ってくれたじゃない。テスト中(ちゅう)、わたしの消(け)しゴムが前(まえ)の席(せき)の方(ほう)まで転(ころ)がっていって、どうしようって思(おも)っていたら、八城(やしろ)くん、わざと自分(じぶん)のえんぴつを落(お)として、『先生(せんせい)、えんぴつ、拾(ひろ)ってもいいですか』って言(い)って、さっと消(け)しゴムも拾(ひろ)ってくれたでしょ。そのあとの休(やす)み時間(じかん)、ノートの切(き)れ端(はし)に『さっきはありがとう』って書(か)いて渡(わた)したの。覚(おぼ)えてる?」

「う、うん」

覚(おぼ)えてるどころか、今(いま)でもそのノートの切(き)れ端(はし)は家(いえ)の机(つくえ)の中(なか)に大(だい)事(じ)にしまってあった。

「それを見(み)てた子(こ)がいるの。それで、わたしが八城(やしろ)くんに気(き)がある。転校(てんこう)生(せい)なのに手(て)が早(はや)いって」

「えっ、それが原因(げんいん)で?」

「ううん、たぶん、それはただのきっかけ。でも、八城(やしろ)くん、女子(じょし)の間(あいだ)でけっこう人気(にんき)があるからさ。その頃(ころ)から一(いち)部(ぶ)の女子(じょし)に避(さ)けられるようになって……。そのあと、サッカー部(ぶ)の前野(まえの)くんに呼(よ)び出(だ)されて告(こく)白(はく)されたんだ。『付(つ)き合(あ)ってほしい』って。はっきり断(ことわ)ったんだけど、しつこいから、テニス部(ぶ)の友(とも)だちに相(そう)談(だん)したの。そしたら、その話(はなし)が井沢(いざわ)さんの耳(みみ)に入(はい)って……。井(い)沢(ざわ)さん、前野(まえの)くんのことが好(す)きだったみたいで……。変(へん)なうわさを流(なが)されて、テニス部(ぶ)とクラスの女子(じょし)から無視(むし)されるようになったの」

「……ごめん。おれ、余(よ)計(けい)なことした」

「そうじゃない! 八城(やしろ)くんに謝(あやま)ってほしくて話(はな)したんじゃないよ! お礼(れい)が言(い)いたかったの」

「お礼(れい)?」

「そう。みんなに無視(むし)されてたけど、八城(やしろ)くんはいつもとなりにいてくれたから」

たしかに、ぼくは吉川(よしかわ)のとなりにいた。休(やす)み時間(じかん)はたいてい自(じ)分(ぶん)の席(せき)で居(い)眠(ねむ)りをしていた。けど、本当(ほんとう)に眠(ねむ)くて寝(ね)ていた時(とき)もあるが、半分(はんぶん)は寝(ね)たふりだった。一人(ひとり)ぼっちで本(ほん)を読(よ)んでいる彼女(かのじょ)を目(め)立(だ)たせたくなかったからだ。ぼくの大(おお)きな身体(からだ)で彼女(かのじょ)を隠(かく)したかった。いや、本当(ほんとう)はただ彼女(かのじょ)のそばにいたかっただけかもしれない。

——うっすら目(め)を開(あ)けると、窓(まど)から入(はい)ってきた風(かぜ)が君(きみ)の髪(かみ)を揺(ゆ)らしている。君(きみ)の細(ほそ)い指(ゆび)がページをめくるたび、長(なが)いまつげが蝶々(ちょうちょ)のようにまばたきをする。2学(がっ)期(き)になっても席(せき)替(が)えなんかしなくていい。ずっとこのままでいたい——

「……寝(ね)てただけだよ」

「そう。けど、ありがとう。そのおかげで毎日(まいにち)学校(がっこう)に来(こ)れたよ。あ、始(はじ)まった。花火(はなび)」

 

花火(はなび)大会(たいかい)が終(お)わり、吉川(よしかわ)をうちまで歩(ある)いて送(おく)ることになった。まだ騒(さわ)がしい公園(こうえん)の前(まえ)を足早(あしばや)に通(とお)り過(す)ぎる。大(おお)通(どお)りを抜(ぬ)けて、住(じゅう)宅地(たくち)に入(はい)ると、すっかり静(しず)かになった。街灯(がいとう)の明(あ)かりがとなりを歩(ある)く吉川(よしかわ)の横顔(よこがお)を照(て)らす。いつもより大人(おとな)っぽく見(み)えた。

もうぼくに残(のこ)された言葉(ことば)は一(ひと)つしかなかった。伝(つた)えたい。けど、吉川(よしかわ)は遠(とお)くへ行(い)ってしまう……。伝(つた)えたところで、この先(さき)どうなるわけでもない。それに、彼女(かのじょ)はもう新(あたら)しい場(ば)所(しょ)へ旅(たび)立(だ)つ準(じゅん)備(び)をしている。邪(じゃ)魔(ま)するわけにはいかない……。だが、それでいいのか?

そんなことを考(かんが)えているうちに、彼女(かのじょ)の住(す)むアパートに着(つ)いてしまった。

「今日(きょう)はありがと。楽(たの)しかったよ」

「……うん、おれも」

「ねえ、さっき言(い)ったことだけど、約束(やくそく)ね。わたしのこと、ちゃんと覚(おぼ)えてて」

「ああ、忘(わす)れないよ」

「ありがと。わたしも八城(やしろ)くんのこと忘(わす)れない。コーラが好(す)きなことも、ちゃんと覚(おぼ)えておく」

「おれも覚(おぼ)えとく。吉川(よしかわ)は射的(しゃてき)は案外(あんがい)上手(うま)いけど、金魚(きんぎょ)すくいが下手(へた)なこととか」

 すると、吉川(よしかわ)は指(ゆび)を銃(じゅう)の形(かたち)にして、「バーン!」とぼくの胸(むね)を打(う)つふりをした。ぼくはそれに付(つ)き合(あ)って「うっ、やられた……」と苦(くる)しそうに手(て)で胸(むね)を押(お)さえ、倒(たお)れ込(こ)むふりをしてあげた。彼女(かのじょ)はそれを見(み)て、あははと楽(たの)しげに笑(わら)った。ぼくは、もうこの笑顔(えがお)が見(み)られなくなるのかと思(おも)うと、本(ほん)当(とう)に胸(むね)に穴(あな)が開(あ)いてしまったように感(かん)じた。

 

「そうだ。むこうに行(い)ったら手(て)紙(がみ)書(か)くから、住(じゅう)所(しょ)教(おし)えて」

吉川(よしかわ)は巾着(きんちゃく)から手帳(てちょう)とボールペンを取(と)り出(だ)し、ぼくに手(て)渡(わた)した。

ボールペンのキャプを外(はず)し、住(じゅう)所(しょ)を書(か)いた。その下(した)に、震(ふる)える手(て)で、ぼくはついに言(い)えなかった三(さん)文字(もじ)を記(しる)した。

そのページを開(ひら)いたまま、ボールペンを乗(の)せて返(かえ)すと、「ありがとう」と彼女(かのじょ)は受(う)け取(と)った。そして、吉川(よしかわ)はその言葉(ことば)を見(み)つけると、パッと手帳(てちょう)で顔(かお)を隠(かく)した。それから、くすくすと笑(わら)い出(だ)した。

「なんだよ」

「ううん、なんでもない」

吉川(よしかわ)は手帳(てちょう)を閉(と)じて、巾着(きんちゃく)にしまった。そのとき、カシャンとボールペンが地(じ)面(めん)に落(お)ちた。

「はぁー、最後(さいご)まで世(せ)話(わ)が焼(や)けるなぁ」

かかんで拾(ひろ)い、「ほら」と彼女(かのじょ)にボールペンを差(さ)し出(だ)した。その瞬(しゅん)間(かん)、唇(くちびる)にやわらかいものが触(ふ)れた。

目(め)の前(まえ)に、まぶたを閉(と)じた吉川(よしかわ)の顔(かお)があった。

「ごめん。わざと落(お)とした。あのときの仕(し)返(かえ)し。八城(やしろ)くんは背(せ)が高(たか)いから、背(せ)伸(の)びしても届(とど)かないと思(おも)って……」

そう言(い)うと、彼女(かのじょ)はアパートの階(かい)段(だん)を駆(か)け上(あ)がっていった。そして、2階(かい)まで行(い)くと、手(て)すりをつかんで、空(そら)に向(む)かって、

「わたしも八城(やしろ)くんが好(す)きー!」

と叫(さけ)んだ。

それから、彼女(かのじょ)はこっちを向(む)いて「バイバイ」と小(ちい)さく手(て)を振(ふ)り、奥(おく)の方(ほう)へと消(き)えて行(い)った。ドアが閉(し)まる音(おと)が聞(き)こえても、ぼくはしばらくその場(ば)を立(た)ち去(さ)ることができなかった。 

 

 

年末(ねんまつ)に吉川(よしかわ)から手紙(てがみ)が届(とど)いた。元気(げんき)でやっている、合唱(がっしょう)部(ぶ)に入(はい)った、友(とも)だちもたくさんできたと書(か)いてあった。でも、会(あ)いたい、とは書(か)いていなかった。

ぼくは返(へん)事(じ)を書(か)くため、便(びん)箋(せん)と封(ふう)筒(とう)を買(か)い、机(つくえ)に向(む)かった。何(なん)時間(じかん)もかけてやっと書(か)き上(あ)げたが、ポストに入(い)れる直(ちょく)前(ぜん)に破(やぶ)いて捨(す)ててしまった。

もうぼくは消(け)しゴムを拾(ひろ)ってあげるような気(き)軽(がる)さで、彼(かの)女(じょ)に接(せっ)することはできなくなっていた。直(ちょく)接(せつ)会(あ)いに行(い)こうかと思(おも)ったりもしたけど、結(けっ)局(きょく)、その後(ご)、連(れん)絡(らく)は途(と)絶(だ)えた。

 

 

夏(なつ)が来(き)て花火(はなび)を見(み)るたび、あの日(ひ)のことを思(おも)い出(だ)す——夜空(よぞら)に散(ち)った光(ひかり)の粒(つぶ)、花火(はなび)の音(おと)、人々(ひとびと)の歓声(かんせい)、いっしょに食(た)べたカキ氷(ごおり)の味(あじ)、火(か)薬(やく)の匂(にお)い、やわらかな唇(くちびる)——でも、君(きみ)の顔(かお)だけは上(う)手(ま)く思(おも)い出(だ)すことができなくて、また生(なま)ぬるい夜(よる)の風(かぜ)がぼくの胸(むね)を吹(ふ)き抜(ぬ)けていく。

 

(完(かん))

トウキョウタワー★★★

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