古いアパートの部屋は重い空気に包まれていた。孝弘が別れのあいさつに来たが、だれも言葉が見つからず、四人はただ静かにコーヒーを飲んでいた。
孝弘は立ち上がり、飲み終えたカップを流しに置いた。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
丞は孝弘の腕をつかんだ。
「おい。待てよ! 孝弘。やっぱり、もうちょっとがんばろうぜ!」
「丞、……悪いと思ってる。でも、もう無理だ」
「無理かどうか、続けてみないとわかんないだろ?」
「いや、三年も続けたんだ。もうあきらめてもいい頃だ」
「……」
「すまない」
「……本当にだめか?」
「ああ、ごめん」
丞は孝弘の腕を放した。
「わかったよ。じゃ、代わりに……」
「何だ?」
「金、貸してくれない? 五万円」
「バカ! 貸すわけないだろ! おれは、おまえのそういうところが嫌いなんだ!」
「うるせー! おれも、おまえみたいな下手くそ、本当はやめてほしかったんだ! さっさと出ていけ!」
孝弘は何も言い返さずにバッグを肩にかけると、バタンとドアを閉め、部屋を出て行った。丞は、そばにあったティッシュ箱をドアに向かって投げた。だが、それはドアには届かず、玄関の靴の上に落ちた。晴樹と慎吾はその様子を黙って見ていた。
こうして、ドラムの孝弘は、丞たちのバンド「バレット」から抜けた。
晴樹が不安そうに丞に言った。
「ねえ、丞さん。これでよかったのかな。孝弘さんがいなきゃ、バンド続けられないでしょ?」
「いいんだよ! あんなやつ、いなくなったほうが」
「でも……おれたち、これからどうすればいいんだよ」
すると、今まで黙っていた慎吾が言った。
「晴樹。おまえがバンドのことを心配する気持ちはよくわかる。けど、孝弘のことも考えてやれ。あいつは小学生の頃に父親を亡くしてるんだ。それからずっと母親が実家のリンゴ農家で働きながらひとりで孝弘を育ててきた。あいつ、言ってたよ。『これ以上、母さんに心配かけてまで音楽は続けられない。リンゴ農家を継ぐ』って」
「そうだったんだ……」
「ただ、おまえの言うとおり、ドラムがいなけりゃバンドはできない。なんとかしないとな」
「そうだよ。それに、お金もほんとにないんだ。どうしよう……」
丞は立ち上がるとギターケースをつかんで、部屋を出て行った。
冷たい、乾いた風の中、丞は街の中心部に向かって歩いていた。バスや地下鉄を使わないのは節約になるというのもあるが、歩いていると、時々いい曲を思いついたりすることがあるからだ。だが、今、丞の頭の中にあるのは新しい曲ではなかった。
――新しいメンバーか……。たぶんすぐには見つからない。腕のいいドラムはもうどこかのバンドに入っているし、もしいたとしても、うちのバンドに入ってくれるかわからない。どうする? その前に、たまっているアパートの家賃を払わなければならない。大家に頭を下げて、なんとか待ってもらっているが、もう半年分たまっている。今月までに払わないと、いっしょに住んでいる晴樹と部屋を追い出される。だが、毎月のバイト代は、全部バンド活動で消えていく。練習に使うスタジオのレンタル代、ライブを開くための費用、CDの製作費……。この間作ったCDも次のライブが決まらない限り、売れないままだ――
丞は街まで出ると、まっすぐ目的の店に向かった。「黒沢楽器店」だ。
店長の黒沢とは年はだいぶ離れているが、気が合って、かわいがってもらっている。ライブのチラシを置かせてもらったり、特に用事がなくても、会いに行ったりする。ただ、今日は違う。ギターを売るのだ。
丞はバンドではボーカルなので、ギターは使わない。夜、街の路上で歌ったり、曲を作る時に使うのだ。それが今持っているマーチンのギターだ。この四十八万円もするアコースティックギターを買うために、丞は必死で働いた。そして、ようやく二年前に手に入れた。初めて音を鳴らした時には思わず感動で涙が出た。
店の前まで来て足が止まった。しかし、いくら考えても他に方法が思いつかない。丞は覚悟を決め、ドアを開けた。
「おー、丞。ひさしぶり」
「どうも。黒沢さん」
「この前出したCD、聴いたよ。なかなか良かったよ」
「聴いてくれたんですか。ありがとうございます」
「まあ、晴樹のギターはまだまだだけどな」
「黒沢さん。実は、頼みがあるんです」
丞はギターケースをカウンターの上に置いた。
「何だ? ギターの修理か?」
「いえ、そうじゃありません。このギターを買ってもらえませんか?」
「何!?」
「バンドを守るために金が必要なんです。お願いします!」
丞は頭を下げた。黒沢はケースを開け、ギターの状態を確かめた。そして、しばらくすると、小さくため息をついて、
「わかったよ。いくら必要なんだ?」と言った。
「二十五万」
「いいだろう。だが、買い取るわけじゃない。預かっておくだけだ。金は貸す。三十万でいい。だが、後できちんと返せ」
「黒沢さん……。ありがとうございます!」
「昔、おれもバンドをやっていたんだ。おまえがこのギターをどれぐらい大切にしていたかわかるし、金がない時の苦しさもわかる。ちょっと待ってろ」
黒沢は店の奥に入ると、封筒を持って戻ってきた。
「ほら。三十万円だ。どうせ家賃でも払えなくなったんだろ?」
「はい、そのとおりです……」
「いいか。続けていれば、きっといつかチャンスは来る。あきらめるな。金は半年待ってやる。それまでに返せなければ、このギターは店で売る」
「必ず返します!」
黒沢は満足そうにほほ笑んだ。丞は両手で封筒を受け取った。
「これは持っておけ。お守りだ」
黒沢はギターに付いていたピックを外して、丞にわたした。その黒いピックは、このギターを買ったときに、黒沢がくれたものだった。
黒沢楽器店を出た後、丞はアパートには戻らず、喫茶店に寄ることにした。
店は平日の昼間なので、すいていた。丞は窓際の席に座ると、コーヒーを注文した。
喫茶店に寄ったのは、晴樹や慎吾と顔を合わせたくなかったからだ。バンドのリーダーとして、メンバーの前で弱いところは見せられない。金はとりあえず手に入ったが、これからのことを考えなければならない。しかし、孝弘とギターを失った悲しみが押し寄せてきて、なかなか考えがまとまらない。丞はポケットの中のピックを握りしめた。
コーヒーを飲みながら、ぼうっと窓の向こうの川を眺めていた。川には古い大きな橋がかかっている。その橋の中央にだれかが立っていた。その人物は、じっとしていたかと思うと、急に橋の欄干を乗り越えようとした。周りにはだれもいない。
――えっ、まさか! 飛び降り自殺!?――
気づいたときには、もう走り出していた。店を出るとき、「お客さん! ちょっと!」という声が聞こえたが、かまわずに走り続けた
――間に合ってくれ!――
橋の中央に着いたとき、その人物は欄干につかまったまま、まだ飛び降りずにいた。
長い髪をまとめていたので、一瞬、女に見えたが、若い男だ。高校生ぐらいの年齢か。グレーのコートに、黒のレザーパンツ。足ががくがく震えている。
丞は息を整えてから、そっとその男に声をかけた。
「おい。何があったか知らないけど、死んだらおしまいだぞ」
「来、来ないで!」
「わかった。落ち着け。ちょっと話そう」
「……」
「迷っているんだろ?」
「……」
何も返事がないが、丞は続けた。
「たしかに、世の中、嫌なことが多いよな。でも、これから楽しいことや嬉しいことも、きっとたくさんあるさ。今、辛いからって、ここで人生を終わりにするなんてもったいないぞ」
「そんなこと、わかってるよ! でも、どうしようもないんだ……」
「何かあったのか?」
「……金だよ」
「金?」
「そうだよ。金がないんだよ!」
金がない――その言葉を聞いた瞬間、丞は叫んだ。
「バカヤロー! 金なんかより命のほうが大事に決まってるだろ! そんなこともわからないやつは、死んでしまえ!」
「……」
「あっ! ごめん! うそ、うそ! おれ、口が悪いから、つい……」
「う、う、うえ~ん」
男は泣き出した。そして、しばらく泣き続けた。
男が落ち着いてきたころ、丞はゆっくり近づいて、左手で男の腕をつかみ、右手を男の体に回すと一気に歩道に引き上げた。
いつの間にか、周りには人がたくさん集まっていた。その中に、さっきの喫茶店の店員もいた。
「あのう、お客さん……」
「わかってる。金だろ。金。ちゃんと払うよ。コーヒー代」
丞は橋の上で喫茶店の店員にコーヒー代をわたすと、男を連れて公園に行った。公園には丞たち以外、だれもいなかった。二人は冷たいベンチに腰かけた。
「なあ、金がないって言ってたけど、どうしたんだ?」
「……なくしたんです」
「なくした?」
「働いている店のお金をなくしてしまったんです。オーナーにお金を銀行に預けてくるように言われて。それで、お金をバッグに入れて、店からまっすぐ銀行に行って、バッグを開けたら、なくなっていたんです。本当に不思議で……」
「どこかで、こっそりとられたんじゃないのか?」
「いえ。バッグはしっかり手に持っていましたし、それはありません。交番にも行ったんですが、見つけるのはむずかしいだろうって……」
「まあ、そうだろうなあ。じゃあ、オーーナーに素直に謝るしかないんじゃないか?」
「無理です。オーナーはすごく仕事に厳しい人なんです。絶対に許してくれません……。きっとクビです……」
「いくら入ってたんだ?」
「三十万円」
「なにっ!? 三十万? ……ほんとに三十万円?」
「そ、そうですけど……?」
丞はポケットの中の封筒を確かめた。それから、しばらく男の顔をじっと見つめた。
「これ、やる」
丞は男に封筒を差し出した。
「何ですか?」
と言いながら、男は不思議そうな顔をしてそれを受け取った。
「三十万」
「へっ?」
男は封筒の中を見て驚く。
「なんで?」
「さっき言ったとおりだ。金なんかより命のほうが大事だからだ」
そう言うと、丞は男に背を向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! こんなお金、もらえませんよ!」
男は追いかけてきた。そして、男の手が肩に触れたと同時に、丞は振り返り、思いっきり男の顔を殴った。男はバタッと地面に倒れた。
「たった三十万円だろ。そんなんで死のうなんて二度と思うなよ」
丞は、男が起き上がる前に公園から立ち去った。
丞が部屋に帰ったとき、慎吾はもういなかった。晴樹はソファーで漫画を読んでいた。丞は電気ストーブの前に座り、冷えた体を温めた。殴った右手はまだ赤く腫れていた。
「なぁ、晴樹。おれ、バイト増やそうと思うんだ」
「ふうん」
「さっき、コンビニの求人に応募してきたよ」
「コンビニ? ははは、丞さんがコンビニの店員なんて似合わないよ」
「似合うかどうかは問題じゃないさ。今できることをやるだけだ」
「ごめん、ごめん。実は、おれも同じこと考えてた。さっきバイト先のガソリンスタンドに行って、店長にもう少し遅い時間まで働かせてほしいって頼んできたんだ」
「晴樹……」
「ちょっときついかもしれないし、バンドの練習する時間も少なくなるけど、今は稼がなきゃ。ほら、すべての経験が音楽になるって前に丞さん言ってただろ? だから、これもきっといい経験だよね?」
「ああ」
――すべての経験が音楽になる――黒沢さんが教えてくれた言葉だ。
「あと、さっき慎吾さんからメール来たんだけど、大学の論文が書き終わったから、しばらくはバンド活動に集中できるって。これからは丞さんの代わりに慎吾さんが練習のスケジュールを組んだり、スタジオの予約してくれるってさ」
「ほんとか?」
「うん。丞さん。おれたち、まだあきらめるのは早いよね?」
「ああ、もちろん。これからだ」
次の日、丞と晴樹はアパートの大家に謝りに行って、なんとか家賃を待ってもらえることになった。
それから三日後、孝弘から荷物が届いた。大きな箱を開けると、中にはぎっしりリンゴが入っていて、その上に封筒が載せてあった。封筒には五万円と手紙が入っていた。
***************
丞へ
早く新しいドラムを見つけろ。
おまえたちはあきらめるな。
孝弘
***************
丞はその短い手紙を何度も読み返した。
その日の夕方、丞のケータイに知らない番号から着信があった。バイトの休憩時間に、その番号に電話をかけてみると、若い女性が、
「はい。ライブハウス・リープです」
と応えた。丞は驚いた。女性が口にしたのは、この街で一番大きなライブハウスの名前だ。有名な歌手もよくそこでライブを開いている。丞たちにとっては憧れの場所で、いつかそこでライブをやってみたいと思っていた。
「あのう、すみません。この番号から着信があったんですが……。あの、おれ、森島丞って言います」
「森島さん……? あ、はい。少々お待ちください」
緊張しながら十秒ほど待たされた後、ケータイから低い男の声が聞こえてきた。
「どうも。和田です。突然すまないね。この電話番号は黒沢から聞いたんだ」
「黒沢? あの黒沢楽器店の黒沢さんですか?」
「そうだ。黒沢とは古い付き合いでね。先日、うちのスタッフがきみに世話になったようだね」
「世話? あのう、おれ、何かしましたか?」
「きみ、四日前に若い男が橋から飛び降りようとしていたのを助けただろ?」
「えっ! なんで知ってるんですか?」
「ああ、やっぱりきみか。きみ、ちょっと、今日こっちに来れないか?」
「はい。大丈夫です。あと一時間でバイト終わるんで、六時半ごろになりますが」
「ああ。いいよ。場所は――」
「わかります。リープには何回か行ったことあるんで」
「そうか。じゃ、こっちに来たら、だれか店の者に声をかけてくれ」
連日のバイトで体はくたくただったが、急いでリープへ向かった。
店の前まで来ると、その建物の大きさに少し緊張した。入り口のドアを開けたとたん、ものすごい音が飛び出してきた。今日もライブをやっているのだ。飲み物のカウンターの前では大勢の客が騒いでいる。丞はスタッフを探そうと、店内を見回した。
「森島さん」
「あっ!」
「どうも。ぼく、ここのスタッフなんです」
そこに立っていたのは、橋から飛び降りようとしたあの若い男だった。
彼は首にかけている名札を見せながら、
「蒼颯太って言います。この前は、いろいろすみませんでした」と言った。
顔には殴られたあざが痛々しく残っていた。
「大丈夫?」
「あ、これですか? ええ、平気です」
蒼は恥ずかしそうに答えた。
「働いている店って、ここだったんだ」
「どうぞ、こちらへ。事務所でオーナーが待ってます」
「失礼します」
蒼が事務所のドアを開けると、「おう」という低い声が返ってきた。十畳ほどの部屋の奥にある机で、がっしりした体格の男がパソコンに向かっていた。髪は短く、薄茶色のサングラスをかけている。シャツとジャケットは着ているが、ネクタイはしていない。その代わりに、首には太い金のネックレスが光っていた。この怖そうな人が店長の和田のようだ。和田は立ち上がって丞のところまでくると、握手を求めてきた。和田の厚い手を握った瞬間、――この人も何か楽器をやっていたんだ――とわかった。
「和田だ。よろしく」
「森島丞です」
「まあ、座って」
丞はソファーに腰を下ろした。和田は向かいに座り、蒼はその横に立った。
「ええと、まず確認だが、きみが橋の上で助けた人物は彼で間違いないね?」
「はい」
「蒼颯太というのが、この男の名前だ。知っていたかい?」
「いえ、ついさっき本人から聞くまでは知りませんでした」
「ということは、きみは本当に名前も知らない男に三十万円あげたんだね。はははは。では、説明するよ。あの日、蒼は店の売上金の三十万円をバッグに入れて、銀行に向かったんだ。銀行はここから歩いて十分ぐらいのところにあって、いくら銀行が込んでいても一時間もかからないで帰って来れる。だが、一時間たっても、二時間たっても、帰って来ない。何かあったんじゃないかと思ってね。電話をかけても通じないし、スタッフもみんな心配していたんだ。そうしたら、『もしかして、あいつ、金を持って逃げたんじゃないか』なんて疑うスタッフが出てきてね。そんなはずはないと思ったけど、一応ロッカーを調べてみることにしたんだ。すると、ちゃんと蒼のロッカーには荷物があった。バッグがあって、ケータイや自分の財布なんかも入っていたから、とりあえずほっとしたよ。ところが、そのバッグの中から三十万円が入っている封筒が見つかったんだ。つまり、蒼は出かけるときに、間違えて店のバッグじゃなくて自分のバッグにお金を入れたということだ」
「じゃあ、お金はあったんですか?」
「ああ」
「よかった……」
「それで、スタッフみんなで蒼を探しに行こうとしたとき、本人が帰ってきた。驚いたよ。顔にあざがあるし、それに、なんと三十万円を持っていた。蒼は、『道に迷ってしまって、銀行に着いたときにはもう閉まっていたから戻ってきました』なんて下手なウソをついたけど、おれがロッカーにあった三十万円を見せたら、何も言えなくなってしまってね」
丞はソファーの横に立っている蒼のほうを見た。蒼は恥ずかしそうに頭を下げた。
「すみませんでした。知らない人に三十万円ももらったなんて話、だれにも信じてもらえないと思って、つい……。でも、その後、本当のことをオーナーに話したら、信じてもらえて」
「いや、信じたといっても半分だけだ。そんなことする人間がいるとは思えないからね。それに、名前も連絡先もわからないと言うし」
「じゃ、どうやっておれだってわかったんですか?」
和田は、蒼に「おい、あれ」と言うと、蒼はポケットから何か小さいものを取り出した。そして、「どうぞ」と、丞にそれを差し出した。
「あっ! これ、おれの……」
ピックだった。黒沢がお守りだと言って、返してくれたピックだ。実は、あの日、家に帰った後、いくら探しても見つからなくて、失くしたと思っていた。
「それ、あの公園に落ちてたんです。たぶん、ぼくを殴った時、落ちたんだと思います」
「そうか、あの時……」
「また会えた時に返そうと思って拾ったんですが。音楽をやっている人だから、もしかしたらと思って、昨日それを店長に見せたら――」
和田は蒼の話を引き継いだ。
「そのピックを見て驚いたよ。そこに何て書いてある?」
もちろん覚えている。だが、丞はあらためてその黒いピックに書かれた金色の文字を読んだ。
――Good Luck! ブラックフィールズ――
「ブラックフィールズは、おれと黒沢が組んでいたバンドの名前だ」
「えっ」
「もう二十年ぐらい前になるが、『Good Luck!』っていう曲をCDで出したんだ。その記念に作ったのがこのピックだ。それで、もしかして……と思って黒沢に電話をかけてみた。すると、黒沢が思い当たるやつが一人いると言った。そいつは、その日店にギターを預けて三十万借りて行ったって。これは間違いないと思ったよ。そして、きみの名前と電話番号を教えてもらったってわけだ」
「そうだったんですか」
丞は手の中にある小さなピックに感謝した。
「きみが、借りて行った金を自殺しようとしていた男にあげたって話したら、黒沢は笑ってたよ」
「いやぁ、自分でもバカなことをしたって思います」
「でも、後悔はしなかっただろ?」
「はい」
「気に入ったよ」
和田は立ち上がると、机の引出しから封筒を持って来た。
「これは返すよ。ありがとう」
丞は黙って三十万円入った封筒を受け取った。
「うちのスタッフの命を救っててくれたんだ。本当に感謝している。ぜひお礼をさせてほしい」
「いえ、お礼なんていいですよ。お金も戻ってきましたし」
「いや、そんなこと言わずに、まず話を聞いてくれ。来月の二十五日に、うちのライブハウスで『ノースバウンド』のライブがあるんだ」
「ほんとですか? おれ、ノースバウンドの大ファンなんです。あっ、もしかして、そのライブに招待してくれるってことですか?」
「そういうことだ」
「ありがとうございます! 最高にうれしいです!」
「ただし、客としてじゃない」
「え?」
「出演バンドとしてステージに招待したい。つまり、きみたちのバンドにノースバウンドの前座をお願いしたいんだ。もちろん出演料も出す」
「前座ってことは、ノースバウンドと同じステージに立てるってことですか?」
「そうだ。もちろん客はノースバウンドを見に来る。その客の前で演奏するんだから、反応は厳しいかもしれない。でも、きみらはプロを目指してるんだろ? 黒沢から聞いたよ。きみらにとって、大勢の客に名前を覚えてもらうチャンスだ。悪い話じゃないだろ?」
「……」
丞が何も言わずにいると、和田はそれを自信がないと受け取ったらしく、
「まあ、無理しなくてもいい。じゃあ、お礼は違う形でさせてもらうことにするよ」
と言った。
「いえ、そうじゃないんです。出たいです。本当にありがたい話だと思います。でも……」
「でも?」
「おれ、チャンスって、こうやって与えてもらうものじゃなくて、自分の手でつかみとるものだと思ってるんです。だから……、テストしてくれませんか? 和田さんがおれたちの演奏を聴いて本当にいいバンドだと認めてくれたら、ライブに出してください。お願いします!」
和田は一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに大声で笑い出した。
「はっはははは。いやあ、きみの言うとおりだ。たしかに、きみたちの演奏を聴かないのに勝手に決めるなんて失礼だったなあ。すまない」
「じゃあ、聴いてもらえるんですか?」
「ああ。ただ、テストというからには厳しくやるが、いいかい?」
「はい。ありがとうございます!」
「よし、じゃあ、来週の水曜にここでテストだ。詳しいことはあとで連絡する」
「はい!」
丞は事務所を出ると、小さくガッツポーズをした。
――よし! ついにチャンスが来た! みんな、この話、聞いたら驚くぞ。晴樹、慎吾、孝弘……ん、孝弘? そうだった、孝弘はいないんだ……。ドラムがいない。やばい――
丞が頭をかきながらバーカウンターの前を通り過ぎようとしたとき、蒼が「丞さーん」と言いながら走ってきた。
「本当にこの間はすみませんでした」
「おう。こっちこそ悪かったな。いきなり殴ったりして」
「いえ、そのことは本当に気にしないでください。ぼくが悪かったんです。それより、よかったですね。ノースバウンドのライブに出られるなんて」
「いや。まだ出られるって決まったわけじゃないよ」
蒼は興奮してしゃべり続ける。
「大丈夫ですよ。きっと出られます! さっきの丞さん、すごくかっこよかったです! 『チャンスは与えてもらうものじゃなくて、自分でつかみとるものだ』って。しびれました! 曲、聴いたことないですけど、丞さんのバンドなら絶対大丈夫ですよ!」
「おいおい。勝手なこと言うなよ。自信がないわけじゃないけど、今はちょっとまずいことになってるんだ」
「まずいこと?」
「ドラムがいないんだ。一週間前にバンドを抜けちまって」
「えーっ!」
「だから、新しいドラムを探さなきゃいけないんだ……あっ、そうだ。ライブハウスで働いているんだから、いろんな話、聞こえてくるだろ? だれかいいドラム、いない?」
「います! ここに」
「えっ?」
「ぼく、ドラマーなんです! 自分で言うのもなんですけど、けっこう上手いんですよ」
「うそ?」
次の日、蒼颯太は丞たちがバンド練習をしているスタジオにやってきた。
蒼の実力は本物だった。父親がジャズバンドのドラムをやっていて、その影響で三歳のころからドラムを叩いていたらしい。蒼はライブ用の曲をたった二日で完璧に覚えてしまった。慎吾も晴樹もそんな蒼の実力を素直に認めるしかなかった。
蒼は自分でも驚いたような顔をして言った。
「ぼく、このバンドに入るために、今までドラムをやっていたんだと思います。バレットの曲、どれも最高です」
こうして、蒼はバレットのメンバーになった。
水曜日。予定通り、リープでテストが行われた。
音のチェックが終わり、丞はステージのマイクの前に立った。客席には和田と店のスタッフ、その後ろには黒沢の姿も見えた。
大きく息を吸い、ゆっくり吐き出した。そして、後ろを向き、メンバーに開始の合図を送ると、丞は目を閉じた。
スティックを叩く音
蒼のドラムがリズムを刻み始める
慎吾のベースが低音を響かせる
晴樹のギターが大きくうなる
丞は目を開け、マイクを引き寄せた
体の奥から込み上げてくる
弾き出された歌声が聴衆の胸を打ち抜いた
その夜、丞は孝弘に手紙を書いた。
***************
孝弘へ
やっぱり五万円は返す。
金は自分たちでなんとかする。
リンゴと手紙だけで十分だ。ありがとよ。
お礼に幸運のピックをおまえにやる。
大切にしろよ。
おれたちは絶対にあきらめない。
おまえは世界一のリンゴ農家になれ。
Good Luck!
丞
***************
丞は手紙を書き終え、ギターから外したピックを封筒に入れると、箱に残った最後のリンゴにかじりついた。
(完)