店のドアを開け、一歩外に出ると、少し冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。今日は晴れ。「準備中」の札を「営業中」に返す。
昨晩、東京にいる大樹くんから久しぶりに電話があった。彼は、不思議な縁もあって中学生のときからずっと店に通ってくれている特別なお客さんだ。高校を卒業した後、理容師になるため、仙台の理容専門学校に入った。そこで理容師免許を取り、2年前からアシスタントとして東京の有名店で働いている。実は、東京に行く前に、この店でアシスタントとして雇ってくれないかと頼まれた。しかし、経営的にアシスタントを雇う余裕がないのと、彼がこの先、理容師としてやっていくなら、まずは大きい店で修業を積んだほうがいいと思い、断った。大樹くんは「はあ~、やっぱりだめかあ」と大きなため息をついたと思ったら、すぐににこっと笑い、
「わかった。でも、約束して。東京で修業して一人前になったら、そのときは、絶対『優』で働かせてね」と言った。
うれしかった。大樹くんとこの店でいっしょに働く。その約束を胸に、わたしは今日もまた髪を切るのだ。
「いらっしゃいませ!」
今日も朝から晩まで予約がぎっしり入っている。10年前、お店を開いたときとは大違いだ。コロナ禍で一時はだいぶ経営が苦しくなったが、最近は絶好調。実は、これはうちの夫のおかげだったりする。
平日は、今まではあまり客が入らなかったが、今は、午前中は主婦やおじいちゃん、おばあちゃん、午後になると、小学生や大学生がやってきて、夕方からは仕事帰りのおじさんたちが次々と来店する。そのわけは「平日カットのみ2,000円」というサービスを始めたからだ。世間では「1000円カット」というのが主流になりつつあるが、やはり10分程度で切るとなると、雑になって、仕上がりがあまり良くない。それに、そういう店はだいたい4人ぐらいでやっている。わたし一人でやっているこの店で同じようなサービスをするのは無理がある。だから、わたしは20分で高品質なカットを提供してみせようと決めたのだ。そして、それが大当たり。ただ、その結果、お客さんを長い時間待たせることになってしまった。どうしたらいいものか家で頭を抱えているとき、夫が、
「じゃ、予約アプリを導入してみたら? おじいちゃん、おばあちゃんも使えるような簡単なアプリ。おれ、作ろうか?」と言い出した。
夫の職業はIT系の会社で働くプログラマー。あっという間に予約アプリを作り、わかりやすい使い方のチラシまで準備してくれた。そのおかげでお客さんを長い時間待たせず、わたしも休憩が取りやすくなった。普段うちでは子どもと遊ぶ以外はごろごろしている夫だが、久しぶりに見直した。
それと、もう一つ。お客さんが増えた理由は、漫画だった。家にあふれていた夫の漫画を店に置くことにしたのだ。夫は最初嫌がっていたが、捨てられるよりはマシだと思ったらしく、「大切に扱ってね……」と大量の漫画を譲ってくれた。これを楽しみにしているお客さんが多いのだ。待ち時間は店の中でゆったり漫画を読んでくつろいで、中には散髪が終わってから続きを読んで帰るお客さんもいるほどだ。
ただ、2000円カットが続くと正直疲れる。でも、その代わり、夜9時までだった営業時間を7時までに変えた。定休日も増やし、月曜日以外に日曜日も隔週で休みにした。やっぱり家族と過ごす時間がほしかった。休みの日は、この春から小学校に入る娘の結香と思いっきり遊んであげることにしている。今年で40歳になったが、まだ体力には自信がある。子育ても仕事も手は抜きたくない。
「ありがとうございました。またいらしてください」
最後は、初めてのお客さんで、中年の男性だった。おしゃべり好きで、白髪染めもしたので、けっこう時間がかかってしまった。
さて、店を閉めて、早く帰ろうと思い、「営業中」の札に手を伸ばしたとき、どこかから視線を感じた。
振り返ると、通りの向こうの街灯の下に、しゃがんでじっとこっちを見ているツインテールの女の子がいた。思わず駆け寄っていって「大丈夫?」と聞いたのは、その子が結香と同じぐらいの年頃だったからだ。もう7時を過ぎている。暗くなっているのに、一人でどうしたのだろう。
女の子は「ねえ、ここはどこ?」と聞いてきた。
「柳之下町っていうんだけど、一人で来たの?」
「う~ん、よくわかんない」
「わかんない? 道がわからなくなっちゃったの?」
「ううん、気づいたら、ここにいたの」
「えっ……おうちはどこ?」
「えーと、あのね……」
女の子が口にしたのは、隣の市の海沿いの町名だった。そんな遠くからどうやってここまで来たんだろう。とりあえず、近くの交番に連絡しよう。
「ねえ、じゃあ……おばさんがお巡りさんに頼んで、おうちの人に連絡してあげる。それまでおばさんのお店で待ってようか」
自分のことを【おねえさん】とは言えないが、【おばさん】と言うのには、まだ抵抗がある。
女の子は少し考えてから、小さく首を縦に振った。「はい」と手を差し出すと、彼女はゆっくり手を重ねてきた。その小さな手を温めるように握り、いっしょに店に戻った。
「ねえ、お名前は?」
「ささきゆり」
「ゆりちゃんね。おばさんの名前も教えてあげる」
「何?」
ゆっくり低い声で「楡井麗子」と言った。
「え、幽霊? ホント!?」
「うん。だから、この店は幽霊床屋って言われてるのよ」
「えー!? 幽霊が出るの?」
「さあ、どうかなあ」
交番に何度か電話をかけたが、つながらなかった。パトロール中かもしれない。もう少ししてからかけ直して、それでもだめなら、警察署か110番にかけるしかない。
女の子はソファーで『ドラえもん』を読んでいて、ときどきクスクス笑っている。さっきは暗い顔をしていたから大人しい子かと思ったけど、本当は明るくて活発な子のようだ。ツインテールがよく似合う。
その後も何度か交番に電話をかけたが、つながらず、仕方なく警察署に連絡すると、すぐには行けないので30分ぐらい預かっていてほしいと言われた。
自然とカレンダーに目がいった。外していたエプロンを締め、下ろしていた髪を結い直す。
「ゆりちゃん。せっかく幽霊床屋に来たんだから、記念に髪、切っていかない? かわいく変身して、お母さんとお父さんをびっくりさせちゃおうよ!」
ゆりちゃんは目を大きく見開いて、
「ホント! いいの!?」と立ち上がる。
「いいよ! 特別サービス!」と言うと、満面の笑みで「やったー!」と漫画を片手に何度も飛び跳ねた。
イチゴの飾りが付いたゴムをほどき、髪をくしでとかす。まずは少しずつ全体を切りそろえていく。
「ゆりちゃんは、お店で切るのは初めてでしょ」
「なんでわかるの?」
「床屋さんは、髪のことならなんでもわかるんだよ」
「へえー、すごい!」
おそらくお母さんに切ってもらっていたのだろう。ゆりちゃんの髪は丁寧に切られているが、少しバランスが悪い。
「ゆりのママはね。いつも美容院に行くんだよ。きれいになると、元気になるんだって」
「へえー、いいね」
「それで、ゆりとパパは、おうちで留守番してるから、ママは、いつもケーキを買ってきてくれるんだ!」
「わー、いいなあ。どんなケーキ?」
「いろんなケーキを買って来てくれるけど、ゆりが一番好きなのは、イチゴのショートケーキ!」
ゆりちゃんが楽しそうに足をバタバタすると、頭もそれに合わせて横に揺れる。
「こらこら、頭は動かさない」
「はーい」
髪も細いし、頭も小さい。それだけではない。小さい子の髪を安全に切るのにはコツがいる。大樹くんにもちゃんと教えないと。
「そうかぁ。イチゴが好きなんだね。ゴムにもイチゴ、付いてるしね」
「うん!」
「じゃ、前髪を切るので、目をつぶってください」
「はい!」
少し怖がっているようで、ぎゅっと目をつぶっているのが、かわいらしい。
「怖がらなくても、大丈夫だよ。何か楽しい話でもして」
「ええと……そうだ! クイズ出すね!」
「いいよ。なになに?」
「ゆりのランドセルは、何色でしょうか?」
やっぱり娘と同じ年……
「そうだなあ。水色」
「ブッブー」
「ピンク」
「ブッブー」
「紫」
「ブッブー。じゃあ、ヒント出すね。ゆりの好きな果物は……」
「わかった! 赤!」
「ピンポーン! イチゴの赤でしたー!」
「やったー! はい、終わり。目を開けていいよ。どう? 鏡の中のお姫様はだれ?」
「ゆりー!」
「かわいくなったでしょ?」
「うん! すごい、魔法みたい!」
鏡にゆりちゃんのキラキラした目が反射する。
「そうだよ。床屋さんは魔法が使えるの」
「へえー。ゆり、大人になったら、ケーキ屋さんになりたいって思ってたけど、やっぱりやめて、床屋さんになろうかなあ」
年を取ったと思うのは、こういう瞬間だ。涙腺がゆるくなって、すぐ泣きそうになる。
「じゃあ、最後に髪を結いますね」
「うん! 髪を切ると、ホントに元気になるんだね。あーあ、ママもパパももっと髪切りにいけばいいのになあ」
「ゆりちゃんのママとパパは元気がないの?」
「うん。ママもパパもゆりに会えないから……」
「……そっか。でも、わたしがゆりちゃんの代わりに『ゆりちゃんは髪を切って元気だったよ』って、ママとパパに伝えたら、二人とも元気になるんじゃない?」
「ホント! ぜったい、ぜったい、ぜえーたいだよ! ぜったい伝えてね」
「うん、約束する」
私が小指を出すと、すぐにゆりちゃんの小さな小指がからまった。
ゆびきりげんまん うそついたら はりせんぼん のーます、ゆびきった!
「ありがとう。幽霊床屋のおばさん」
ゆりちゃんの体が徐々に透明になっていく。バイバイと手を振り、やがて姿を消した。
こうなる予感があった。店の外で握った小さな手は、夜とはいえ、とても冷たかった。
そして、この店は5年ごとに3月になると幽霊が現れる。5年前も、10年前も……
この世に戻ることができず、あの世にも行けない人が、何かを抱え、この店を訪れる。わたしが髪を切ることで、彼らはあの世へと旅立っていく。いや、旅立っていったかどうかは確認できない。だが、そうであってほしいと祈っている。
さっきまでゆりちゃんが座っていた椅子に向かって、手を合わせた。
そのすぐあとに、警察官が訪ねてきた。幽霊が来たと説明して信じてもらえるか不安だったが、意外なことにその警官は私の話をじっくり聞いてくれた。
「驚きました。電話があった後、調べたら、確かに『ささきゆり』という女の子がいたんです。東日本大震災の津波で行方不明になったという届けが15年前に出されています。住んでいた場所も合っていますし、特徴もかなり近いです」
だが、その後、本当に今まで何も接点がなかったことをしつこく確認された。それはそうだ。もしこれがイタズラだとしたら、かなりひどいイタズラということになる。
「すみません。ゆりちゃんのご両親の連絡先を教えていただけませんか。それか、わたしの連絡先を教えますので、連絡してもらうよう伝えてもらえませんか。お願いします!」
次の日の昼過ぎ、大樹くんが店にやってきた。
「ただいま」
その声に反応して思わず抱きついてしまった。大樹くんは少し驚いたようだったが、嫌がりもせず、がっしりした体で受け止めてくれた。
おかえり。もう自分の息子のようだ。
今日は定休日。だが店にいるのは、大樹くんがわたしの髪を切ってくれるからだ。修行の成果を見せてくれるという。
「これ、お土産。朝、近所の和菓子屋で買って来たんだ」
「ありがとう。じゃ、お茶いれるから、いっしょに食べよ。いろいろ話したいことあるし。髪切るのはそれから」
「OK」
ちょうどお湯が沸いたとき、スマホが鳴った。知らない番号からだ。
火を止めて、通話ボタンを押す。
「はい、楡井です」
「……佐々木と申します」
ゆりちゃんのお母さんだ。
「あの、信じてもらえないかもしれませんが、昨日、ゆりちゃんに会ったんです!」
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、できるだけ丁寧に昨日起きたことを説明した。スピーカーからすすり泣く声が聞こえてきた。
会いに行かなきゃ。
大樹くんを助手席に乗せ、教えてもらった住所に車を走らせた。家の特徴も聞いていたので、すぐに佐々木さんのお宅は見つかった。
チャイムを押すと、ゆりちゃんの両親が玄関まで出迎えてくれた。軽くあいさつを交わし、中に招き入れてもらう。案内されたリビングの陽の当たる場所に、ゆりちゃんの写真が飾られていた。
間違いない。昨日の子だ。
しかし、それは仏壇ではなかった。行方不明ということは、遺骨が見つかっていないのだ。ご両親の前で写真に手を合わせるわけにはいかない。両親にとって幽霊を認めることは、亡くなっていることを受け入れるのに等しい。わたしがゆりちゃんの幽霊に会ったということは、はたして良いことなのか、悪いことなのか……。まだ諦めていない人たちに向かってどう話せばいいのだろうか。
その気持ちを察してくれたようで、お母さんが
「ごめんなさい。まだ気持ちの整理ができていなくて、本当は少し落ち着いてからお会いしようって思ったんだけど。やっぱり詳しく聞きたいって思ったの。ほら、人間って忘れてしまうから」と話を切り出してくれた。
わたしは電話で話したことをもう一度頭から話した。ゆりちゃんがしたこと、話したこと、つむじの巻き方や、ほくろの位置まで覚えていること、すべてを伝えた。
途中、ゆりちゃんの夢がケーキ屋になることだったと告げると、お母さんは涙をこらえることができず、両手を口元に押し当てて泣いた。
話し終えると、それまでずっと下を向いて黙っていたお父さんが顔を上げた。
「ほくろの位置やランドセルの色も知っているというのは本当に驚きました。……実は、だれかの遺骨が見つかったと聞くたびに、複雑な気持ちになるんです。それがゆりのじゃなくてよかったとほっとする一方で、ゆりのであってほしかったと思ったりもします。震災の後は、ゆりはきっとどこかで生きていると自分自身に言い聞かせていたんです。だから、いつでも帰って来られるように、またここに家を建てました。……しかし、時間がたつにつれ、どうか生きて戻ってほしいという思いが、どんな形であっても構わないから戻ってきてほしいと思うようになりました。遺骨じゃなくてもかまわない、遺品でもいい。家族にとって何か区切りになるものが見つかればと願っていました。だから、今のお話を信じたい気持ちはあります。ただ、正直に言うと、幽霊になって戻って来るにしても、なんでうちじゃないんだという思いがあります。ここから遠く離れた床屋に来たというのは、どうしても納得できない……」
お父さんの肩が震えている。重苦しい空気が部屋を包んだ。
わたしはカバンからプラスチックの小さな箱を取り出して、ご両親の前に差し出した。
お母さんは、まさかという表情を浮かべたあと、恐る恐る箱に手を伸ばして、箱を開けた。
「これは……ゆりの……」
イチゴの飾りがついた二つの髪ゴム。
ゆりちゃんの姿が消えた後も、外してあった髪ゴムが店に残っていたのだ。
お母さんはそれをそっと左手の掌にのせ、むせび泣いた。お父さんはそっとお母さんの肩に手を回した。こらえていた涙が頬を流れた。
ご両親の許可をもらい、ゆりちゃんの写真の前に置かれた髪ゴムの隣に、大樹くんがお土産に買ってきたイチゴ大福を並べた。手は合わせなかった。忘れないように毎日見ていた写真が「遺影」に変わるまでには少し時間がかかるかもしれない。いや、時間をかけても、結局、遺影にはならないかもしれない。それは家族の問題であって、わたしが立ち入ることはできない。ただ、二人にとって今回のことが未来に向かう一歩になってほしいと願うばかりだ。
帰り際、見送ってくれた二人に「今度、ぜひうちの店に髪を切りに来てください」と言い残し、車を発進させた。
道中、助手席で眠たそうにしている大樹くんに聞いてみた。
「ねえ、どうしてお土産にイチゴ大福を買ってきたの? すごい偶然じゃない!?」
「うーん。お店には、たくさんお菓子があってどれにしようか迷っててさ。でも、イチゴ大福を見てたとき、隣にいた女の子が『これ!』って言ったんだ」
「えっ……それ、ホント?」
「ホントだよ! 全然知らない子だったからちょっと驚いたけど、ニコニコしててかわいいし、じゃあ、まあ、これにしようと思って、レジに並んで会計してたら、いつの間にかいなくなっちゃったんだよね。その子。でも、さっき写真見た瞬間、わかったよ。あれはゆりちゃんだったんだって。ツインテールじゃないし、ちょっと髪が短くなってたけど」
大樹くん、君がわたしといっしょに働きたいと思ってくれていること、すごくうれしいんだけど、一つ心配なことがあったんだ。でも、君ならきっと大丈夫。
幽霊床屋へようこそ。
【完】